十三、半鐘が鳴る
場面は移り、泡ガエルが跋扈する林の中。武士連中はその手腕で持ってカエルの波を退かせ、僅かな間に随分と深部まで足を伸ばしていた。
カエルが跳ぶ前に切り捨てて、土に粘液が滲み込んで柔らかくなる間に先に進む。流石は武を職とする者たちの集まりというべきか。効率を重視し、尚且つ連携のとれた戦法は有用だった。
「交代せよ!丙隊、前へ!」
「おおー!」
暑苦しい雄叫びをあげて部隊を入れ替え、疲弊を最小限にしてどんどんと進んでいく。血と粘液が混じった悪臭もものともせず、ついに武士連中は親玉ガエルに謁見するに至った。
林の中、不自然に開けた場所へそれは居た。
「おお、なんと醜い……」
そんな感想を漏らしたのは誰だったか。一同が固唾を呑んで、それから唖然としたのだけは間違いない。決して細くない木々をなぎ倒して鎮座していた親玉ガエルは、それだけ衝撃的な姿をしていた。
まずでっぷりとした体躯は、水饅頭のように半透明だ。中に詰まる餡は不気味などどめ色。不規則に蠢いているのがよく見える。歪な水饅頭は若木の背を優に追い越すほど醜く肥えているのに、手足は周囲の泡ガエルより二回り大きい程度しかない。そのせいで自重を支えられないらしい。まだ立ち上がれない無垢な赤子のように、体躯と比べれば枝のような手足を投げ出して座っていた。
濁った眼はどこを向いているのだろう。たまに可笑しな方向を泳いでは、半開きの大きな口から舌の先と涎を垂らして糸を引いている。鳴き声はあげず、たまに気だるげに身じろぐだけでいる。敵意どころか、興味関心すら感じ取ることはできない。
次に異様なのはその背中だ。武士連中は斜めからその姿を捉えたのでよく見えていないが、緩慢に沸き立つ背中が泡を産んでは弾けている。弾けるたびにこれまで散々切り捨てた泡ガエルが、ゲコッと産声をあげて現れるのだ。
生命の形をしたものが、生命を無視するような仕草でもって産まれ落ちる。その光景に身の毛がよだつ。不快で恐ろしくてたまらなかった。
「――怯むな!進めェ!」
硬直する武士連中の中、恐怖を押しのけ一声をあげたのは、丙隊の一番槍を勤める武士だった。
一層強く握った刀で呆けている間に数を増やしたカエルを一気に三匹断ち切って、巨体と周囲のカエルから流れた粘液で底なし沼のようになった土を踏みしめる。
「手を止めるな!俺に続けェー!」
一番槍らしく先んじてカエルの群れに挑む猛々しい姿に、我を取り戻した武士たちが咆哮地味た叫びで答えて一歩前へ。
地の利もなく、不気味な巨体と無尽蔵のカエルを相手に二夜。彼らが気丈に戦い抜けたのは、たったそれだけの期間だった。
彼らは知らないことだが、相手はケダモノの神に何らかを齎されたモノ。それと対峙したにしては、長く持った方だろう。
「あがっ……が……ぉ――」
明らかに動きが鈍くなった武士の首に、泡ガエルは舌を巻き付けて締め上げた。両足を数匹で引きずって遊び、汚染された泥を飲ませた。一匹を切り捨てている間に背後から圧し掛かり、動かなくなるまで粘液を浴びせ続けた。
泡ガエルができる、思いつく限りの悪逆が親玉ガエルの周囲で繰り広げられていく。被害者が一部隊相当に達したとき、総大将を勤める武士は重たい下肢を泥の中から引きあげた。悔恨と少しの諦念、恐怖は激しい怒りと虚栄で覆い隠して。
「おおおっ!」
雄叫びを上げて、今にもカエルに押しつぶされるところだった若造を救出する。参加した者の中で一番小さく技も無いが、一番足が速いと知っている。
「た、大将……っ」
「貴様、里へ走り伝達せよ!」
泥と粘液を吸った着物は重い。これだけ浴びてしまってはもう肌を守る意味はないと、袖から腕を抜いて身軽になった。
「大将首の情報と戦況を持ち帰れ。必ずだ!」
「――はい、必ず!」
総大将の正面では、息絶えた武士を引きずったカエルが、半開きの親玉ガエルの口に死体を押し込んでいる。喉奥まで自分の体ごと武士を入れたカエルは、反射で行われた嚥下に巻き込まれて腹の中に消えていった。どどめ色が数回引き攣ったように揺れて大人しくなる。背中では呑んだ我が子の倍の数がまた産まれている。
武士と泡ガエルの差は無く、死んだものは悉くが親玉ガエルの喉に運ばれて生きたカエルごと丸呑みにされていた。
「大将、六兵衛さん、左之助殿、栄太郎……っ」
置いて行く仲間の名を呼びながら若造は走る。背中からは、さらに数を減らすも絶えない雄叫びが聞こえていた。
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古多万と女神からあまり役に立たない情報を得てから、さてどうやって泡ガエルに対抗するべきかと頭を悩ませ丸二日。結論は出ないまま、しかし少なくない良心が放置して傍観することを選ばせない。中途半端なまま、ただぐるぐると考えを巡らせるだけで時間が過ぎていた。
武士の若造が持ち帰った情報をもとに、浪人を招集する半鐘が鳴らされたのはその二日が過ぎた昼のことだった。
三点と五点の交打が三回。初めて聞くサトはもちろん、浪人のレンすら驚いて作業の手を止める。その時サトは開店休業状態の仕掛け蔵で掃除を、レンは怯えをすっかり忘れた小鬼に遊び相手に任命されたため、その相手をしていた。
「レン、今の何か分かるか?」
「浪人用の緊急招集、だと思うわ。アタシも実際に聞くのは初めてよ。行ってこなきゃ」
二人は示し合わせたように蔵の帳場前で合流して、遠くに聞こえた鐘の音について話す。そこへ丁度よく、バタバタと骸骨のような影が駆け込んできた。
「おおい、姐さん、兄さん!大変だぁ!」
いきなり響いた半鐘と、続けて聞こえた稼吉の大声に怯えて丸まった小鬼たち。小鬼団子三つをサトに手渡し、レンは息を切らす稼吉の傍で背を撫でてやる。骨ばった感触に「うわっ」と声が漏れたのは仕方がない。
「稼吉、どうしたの?アタシ今から出なくちゃならなくて……」
「そ、げほっ……そのこと、で、来たんだ」
サトの手のひらから小鬼団子が転げ落ちて、ちんまい手足を伸ばすと隅に逃げていく。相変わらず稼吉が苦手のようだ。
一度大きく深呼吸をして落ち着いた稼吉は、見たことが無いほど真剣な顔をして口を開いた。
「泡ガエルだ、泡ガエルの親玉が見つかった。半死半生で情報もって返ってきた武士から話を聞いて、大規模に戦力を集めてやがる。……ありゃあ駄目だ。行かないほうが良い」
最後は少し喉に詰まらせながら、それでも絞り出すかのように声が落ちる。驚いて固まるサトとレンを放ったまま、稼吉は草履を抜かず上がり框に腰かけた。
黙りこくった稼吉の背中を見て、それからサトとレンの視線が合う。何とも言えず眉をひそめた表情は、きっと同じことを考えていた。
――武士は、カエルの母体を知らんだろ?
――泡と汁で死んだ土の上で、アレ相手にどこまで立ち回れるやら。
辛口だと思っていた古多万の評価が当たったわけだ。人知れずこめかみから冷や汗が一筋流れた。
どうするべきだ。おくら様、或いはヒルツチなる神の手が入っているというのは知っている。しかしどういう手が入り、どう強化されているのかは知らないし、対処法もまだ思いついていない。かといって、このまま放置するのは後味が悪すぎていられないだろう。
レンもまた、招集を無視する気はないらしい。表情は硬いが稼吉から離れて凛と立ち、草履が三和土をじゃり、と僅かにこする。
「助言ありがとう、稼吉。でも悪いけれど、アタシは無視できないわ」
「しかしだな、兄さん。手練れの武士が部隊率いて退治できねぇ相手だぞ。浪人が寄って集って何ができるってんだ?」
辛辣だがもっともな意見だろう。困ったように笑ったレンは、視線を泳がせる。
「ま、何とかするわよ」
そう残して蔵を出ると、準備のため平屋の方へと足早に去っていく。
残された稼吉は呆れてため息をついた。折角走って引き留めに来たのに、とその背中が物語っている。
サトは二人のやり取りを眺めながら、古多万の言葉を思い出していた。
古多万は、取引を申し出たあの日に嘘をつかなかった。評価も正しく、武士では泡ガエルに敵わなかった。ほかに言っていた評価も概ね正しいと考えていいだろうか。
「……古多万の霊力を借りれば、相応の術で土地を整えられる」
「あん?姐さん何か言いましたかい?」
しかし、自分が有利になるよう知恵を働かせることがある。古多万の場合、恐らく「おくら様が関わっている」という点を知らせないことが、利なのだろう。
初めは、というより先程までは、古多万たちが黙ってサトとレンに神へ喧嘩を売らせようとしたのだと考えていた。けれども、レンはケダモノを討って神罰を受けた例を聞いたことが無いという。もちろん死人に口なし、という可能性もあるが――。
「稼吉、聞いてもいいか?」
「お?おお……構いやせんが、できれば兄さんの説得を――」
「稼吉は妖怪に詳しいだろ。稼吉から見て、妖怪は賢いか?何が苦手だ?」
訝しんだ稼吉が振り向いてサトを見る。突然何の話だ、と言おうとして、貫くような真剣なまなざしに口を噤んだ。それから数回もごもごと口を動かして、腕を組んで考え始める。
「苦手っつうとまあ、そりゃ千差万別でしょう。鬼火なら水が苦手だし、河童は乾燥が大敵で……」
「問答ならどうだ。契約、取引、情報交換なら?」
「んん……」
さらに目を瞑って首をひねり熟考する。
その間に用意を終えたレンが改めて蔵に顔を出して、律儀に挨拶しようと口を開こうとした。サトが一本指を唇の前に立てて止めると、音を立てずサトに近付いてきた。稼吉は考え込んでいるせいで気付いた様子はない。
「……ちょっと、稼吉どうしたの?アタシが突っぱねたの、そんなに効いた?」
「それもあるんだが、私が質問中なんだ。……予想が当たれば、私も力になれるかもしれん」
驚いた顔は幼く感じて、美しさの中にも可愛らしさが垣間見える。長い睫毛を携えた瞼がぱちくりと動くのをしっかり目に焼き付けてから、サトは小声で、それでもしっかり宣言する。
「最悪、土門一門を頼ってでも助力する。だから知らん間にまたカエルに呑まれたなんてやめてくれよ」
「――当然よ。これ以上“美しいアタシ”から遠ざかるのは御免だもの。……あんたも、無理は絶対しないで頂戴」
自信ありげに笑った顔が、サト目には輝いて見えた。チカチカと星が瞬いているようで目が離せない。
僅かに恍惚としながら頷いたサトに、今度は仕方ないとでも言いたげな笑みに変わって離れていく。背を向けて鞍の外に出ていく凛とした背中は、美貌とはまた違った意味で、とても眩しく映った。
抑えられた足音に集中して見送る。どれだけ耳を澄ませても聞こえなくなった頃。
「ははあ、仲がよろしいことで」
「うわ、気付いてたのか」
「当り前でしょうに。こんだけ近くでやり取りされてんですから。空気を読んだ俺を褒めて欲しいねぇ」
稼吉は溶け切らない砂糖の塊を思いがけず食んだような心地がしていた。生憎とサトたちの間にそんな甘ったるい空気の自覚はなく、ただ絶世の美を浴びたほうと浴びせたほうというだけである。
稼吉の発言の半分も理解していないようなサトに、呆れてしまったのは仕方がないことかもしれない。
「で、何か思い出したか?」
サトとしては今のやり取りで何が稼吉をそんなにばつが悪いとでも言いたげな顔にさせたのか見当がつかない。見当がつかないことを訝しむのも馬鹿らしく、気持ちをすっぱり切り替えた。
「……まあ、いくつか思い当たりやしたがね」
これにはため息を禁じ得ない。しかし当人の自覚が無いことをつつくこともできず、稼吉も渋々気持ちを切り替えた。
「あー、なんだ。妖怪は、その在り方のせいで騙し討ちに近いことはするんですが、嘘はつかねえ。それは姐さんもご存じで?」
「うん、それは分かる」
妖怪は取引に誠実で嘘をつかない、というサトの持論が補強された。
「ついでに、情報を制限するのも苦手なんですぜ」
稼吉の言葉に目が瞬いた。
「制限?それはどんな?」
「んん……。敢えて情報を一部伏せる、というか。十のうち三を伏せて七を伝えるってのができねぇ。零か十、両極端で」
古多万に抱いていた違和感の正体が言語化されたような気がする。稼吉の言葉と、古多万たちの言動を、捏ねて反芻して飲み込んだ。
――やっぱりだ。
サトの脳内から霧が晴れて、すうっと光明が差したような心地がした。さあ、善は急げだ。
「おい、小鬼たち。ちょっと出ておいで!」
急に表情を明るいものに変えたサトに面食らう稼吉は気にしない。小鬼は呼ばれたことが嬉しくて、柱の陰から勢いよく顔を出して転ぶのだった。