十二、鍛冶の女神
町を行く中年女性から風呂敷包みを引ったくり逃げていく小僧、それを見るからに素行が悪い浪人が捕まえて殴りつけて、荷物を奪うと地面に放り投げる。追いついた女性と二言三言交わす姿のなんと威張りくさったことか。結局女性が財布から数枚銭を取り出し汚い手に乗せるまで、いや乗せられてなお悪態をつき凄みを利かせ、背を向けるまで尊大ぶった仕草は続いていた。
反対側では、急に丸銭まで値上げされた甘味に文句を言う客が、なら帰れと店主に追い出されているところだ。街道が封鎖されて砂糖が手に入りにくくなったせいで、茶屋や甘味屋、一部の飯屋は大打撃を受けている。最近では筋金入りの甘党や金持ちしか手を出さなくなってしまった。
「神様ってのは本当に理解できないわ。なんでこんなことしているのかしら」
手入れし直した脇差を受け取ったレンは、誰に問うでもなく零す。それを拾った研ぎ師の親父は煙管を吸って、煙と一緒に失笑を吐き出した。
「そりゃおめぇ、それが神様ってもんだろ」
研ぎ師の仕事場には三和土からも見える位置に神棚がある。親父は信心深いわけでもないし神様の名前も覚えてはいないが、唯一、鍛冶を司る一つ目神だけは蔑ろにせず祀っている。本人としては、信仰対象というよりも尊敬すべき先人であり、生涯の師匠といった存在だ。嫉妬深い女神であるという説を信じて、妻や娘も仕事場には立ち入らせない徹底ぶりである。
「祝詞も霊力も籠ってねぇ鋼だからな。短時間に何度も手入れしたせいで、一気に劣化が進んどる。折れても知らんぞ」
「元々屑屋で叩き売りされてたやつよ。後生大事に使っていたわけではないし、むしろ今まで持ったのが不思議なくらいだわ」
「だが道具ってのは、安かろうが愛着が湧くもんだ」
「……否定は、しないけど」
手入れの出来栄えを確認がてら四方八方から抜身の脇差を観察していたレンは、ばつが悪そうにそっと刀身を鞘に納めた。
その様子を三和土に置かれた長椅子で眺めていたサトの目線は、そっと開け放たれた障子の方へ移る。それは作業場、さらに奥の神棚へ。簡素で最低限の作りながら、日々手入れされた年代物の棚には、機嫌が良さそうな半透明の女神が宿っている。彼女は生娘のような仕草で、姿を見られていないのを良いことにレンを遠慮なく隻眼でもって凝視している。
「綺麗ってのは恐ろしいな……」
見られている当人は、脇差を腰に差して小首をかしげた。まだ艶が戻りきらない梅紫の髪がさらりと優雅に揺れている。
「サト、何か言った?」
「……いや、腕の良さそうな親父だなと」
「ほほぉ、見る目あるな嬢ちゃん」
刀の良し悪しではなく、神棚に分霊が降りていることから出た感想なのだが。親父は嬉しそうに顎を撫ぜている。
レンが親父に代金を支払っている間、サトは美男好きの女神を観察する。半透明ながらしっかりと姿は捉えられるし、表情も分かりやすい。「やだ。寅次、養子に貰ってくれないかしら」という声まではっきり聞こえて、白けた顔になってしまうのは許してほしい所だ。……ちなみに寅次とは、この研ぎ師の親父のことである。
色を付けて支払いを終えたレンが店を出ようとするので、サトは立ち上がって親父に声をかける。
「そうだ、親父さん。親父さんは“おくら様”って知ってるか?」
「いんや……聞いたことねぇが」
「そうかい」
記憶を探っているのだろう、タコだらけの硬い手指で顎を揉む親父がどこか遠くを眺めている。その後ろで、熱に浮かされた顔から一転して神性を滲ませた女神がサトを凝視していた。
「こらサト、そんなこと聞いたら親父さんお客全員に声かけちゃうわ」
「え、そうなの?」
「おう。聞いといてやるぞ」
「ほらもう!親父さん人が良いんだから!」
レンは呆れた様子でいて、客に聞いてみようかと提案する親父に丁寧に断っている。強面の職人だが、人情にあふれた親切家らしい。
女神を焚き付けるだけで、親父に迷惑をかけようなんてつもりは無かったので申し訳なく思い頬を掻く。親父に向かって頭を下げ、違和感が出ない程度に奥の女神にも礼を向けてみせた。
「悪かったよ。最近小耳にはさんで以来、知らん事なんで気になって……」
「いい、いい。俺も覚えがあらぁな。一度気になるとずっとモヤモヤしちまうもんだ」
「分かってくれて嬉しいよ」
改めて礼をしてから踵を返すと、奥の女神が「裏の路地へ」と一声零したのを、サトの鼓膜が拾った。
「レン、ちょっと外すから」
研ぎ師の店を出ると、そのまま往来の中を行こうとするレンに声をかけてから離れて、二軒隣の裏路地にするりと入り込む。慌ててレンもサトの小さな背中を追ってきた。
「こら、ちょっと!いきなりどうしたの?」
「情報収集だよ。着いてくるの?」
「当り前じゃない、今の治安は知ってるでしょ?」
裏路地は日当たりが良くないせいで、湿気と冷ややかな空気が充満している。カビの匂いもよく目立った。長居したくないその場所には、ごみや壊れた木桶に混ざって古ぼけた莚に包まり動かない人影もある。飢えをしのごうというのか、すでに事切れているのかは定かでない。少なくとも、腐敗臭は無いようだ。
裏路地を抜けて店の裏手に出ると、研ぎ師の店側に歩いていく。訝しげに着いてきたレンは、浮浪者すらいない小道に安心しつつも、物陰に警戒は怠らなかった。
そんな様子に気付かずサクサクと進んだサトは、研ぎ師の店の真裏で待っていた女神を見て表情を明るく変えて、足を止めると深く一礼した。レンからすると、何もないところで急に美しい礼をしはじめた形になる。
「ねえ、サト――」
「掛けまくも畏き、天津目一箇命。この常世身に御言葉を賜りましたことを、深く、深く御礼申し上げます」
「えっ」
訳が分からずに上擦った声をあげたのも無理はない。レンには何も見えないし、聞こえないし、感じもしない。普段の態度と作務衣姿からは想像もつかない程に淀みなく紡がれた言葉は、何もない空間に向けられているのだから。グルグルと迷走した頭がようやく「サトは巫覡候補だった」という事実を思い出して、きゅっと心を縮みあがらせた。
レンはどうやっても見えなかったが、礼をして下を向くサトにはもじもじと乙女のように落ち着きのない女神の御御足がよく見えた。間近に来た美人の容姿を称賛する言葉が呪文のように紡がれているのも、それはそれはよく聞こえている。一瞬、判断を誤ったかと脳を過ぎる程度には、とっても黄色い声だ。
「はわぁーっ。いつ見ても顔ちっさ、髪さらさら……っ。近くで見てもこんなに美しいなんて……。荒れ気味だったのも落ち着いてきたのね、良かった!」
「……恐れ入ります、天津目一箇命。こちらに居りますレンは、御身も御言葉も拝領することが叶わぬ身なれば。宜しければ、こちらを」
「あら、そうね、そうね。ええ、頂きましょう」
そろりとサトが隻眼の女神に差し出したのは、団子くらいの大きさをした赤い神通力玉だ。女神が華奢な手をかざせば神々しい光の粒になって献上され、その一部を使ってレンの目元、耳元が覆われる。レン本人が感じたのは湯とも人肌とも違う心地の良い温さのみ。突如襲った正体不明の温さにぎゅっと目を閉じてすぐ、女性の声が耳を擽った。
「ああ、美しい人の子。貴方の瞳に、わたしを映してごらん」
安定した炉の火のような、穏やかだが近寄りがたい声。喜色にあふれたその声は、目の前におぼろげに見える人影から発せられていた。生憎と、レンの目にはサトのようにはっきりと顔立ちまで判別できる程には映らなかった。
「あんた……いや、貴女が、目一箇命、なの?」
「ええ、ええ!ああ、なんて美しい緑翠!銀の簪、いいえ、金の櫛?どちらにもよく映えそう……っ」
興奮冷めやらぬ女神は、身悶えながらレンの瞳を絶賛する。暫く呆気に取られていたが、それが瞳を宝飾品として見ていることに気付いて、レンの顔から血の気が引いていった。よろけて二、三歩後退する。
サトはふらつくレンの前に出るように立ち位置を変えた。
「申し訳ございません、天津目一箇命。我々はこの度泡ガエルの一件で、古多万が “おくら様”と呼ぶ神について、知恵を欲しております。どうか、叡智の一端を賜りたく、畏み……」
「ああ、なんて無粋な乾いた土の子」
言葉をさえぎった女神からぬくもりが消え、苛烈な火の気配と鉄の雰囲気が満ちる。一変した空気にレンもサトも脂汗を止められない。乙女を止め、鍛冶の神として正面に坐す女神は、人間のように鼻で嗤うと打った刀のような鋭い声を紡いだ。
「わたし、知恵を授けるために来たのではないのよ。ああでも、わたしもあの卑しいカエルには嫌気がさしている……。おまえ、よく聞きなさい」
「……ありがとうございます」
「そも、おくら様、なんていうのは妖怪の間だけの呼称。あの御方は、ヒルツチ様」
「ヒルツチ……さま」
かみ砕くように復唱したのはレンだ。途端に目元を蕩けさせた女神は、猫なで声で続ける。
「ああ、美しい子。いくらおまえの声が麗しくても、口にするのは、関わるのはお勧めしないわ。どうしても知りたければ、大神たち三柱に尋ねるべきね」
ゾッとしてサトもレンも揃って更に血の気を失う。大神たち三柱、というのは、大神と、血を分けた二柱の兄妹に聞けということだ。天ヶ原、根の国、海原を治める偉大な神相手に質問など、それこそ巫覡でないと叶わないことである。
そこでサトの頭をよぎったのは、ヒルツチという神が天津目一箇命にも敬称をつけられていることだ。それだけ高位の神ということになるが、巫覡の勉強の中で、その名を聞いたことはない。
礼の姿勢を崩して考え込むサトに、女神は嫌な顔をした。
「不出来な土の子。貰った玉と、美しい子の見物料分は話したわ。二度とその話題を寅次の耳に入れないように」
「……畏まりました。お慈悲に、心より御礼申し上げます」
我に返ったサトが最敬礼を示すと、胸を逸らせた女神がレンにだけ笑顔で手を振り、姿を空気に溶かして消える。
無礼に神罰もなく、不躾な質問に簡単ではあったが答えを授ける程度には温厚な神でよかった。
神秘が去ったその場に、遠ざかっていた表通りの喧騒が届くようになった。ここでようやく、人払いどころか雑音すら払われていたのだとレンは気付いて、大きく息を吐いた。
やはり、神というのは得体が知れない。
「ああもう、これだから女神って苦手なのよ」
そう吐き捨てたレンは、気分を切り替えるために数回深く呼吸をする。これまで関わってきた土地神などに、性格の悪い女神がいたのかもしれない。
「ごめん、先に言っておけばよかった」
「いいの。神様を魅了してやろうって考えている男よ、これくらい克服しなきゃ」
「……レンが神様に通用するくらい綺麗だって、ようやく実感できたよ」
「当然でしょ。ああ、万全ならもっと情報引き出せたかもしれないのは、残念だったわね」
喧騒を追いかけて表通りに戻る。収穫は脂汗と「ヒルツチ」という新たな名称、名のある神でも関わりを避けたがる厄介ごとだということだけ。
サトはこの際、八雲に手紙でも出してみるべきかと一考する。利用するようで申し訳ないが、重い話題を受け取った八雲は兄、そして父親へと情報を共有するだろう。八雲たちや兄が知らなくても、生真面目で有名な第四分家当主・幸信なら、世間に知られていない神のことを知っているかもしれない。知らずとも、真面目ゆえにきっと岩戸、ひいては巫覡まで報告を上げてくれることだろう。
「思ったより厄介だ。危うく、騙し討で高位の神に喧嘩を売らされるところだった」
「迂闊に古多万……?と、契約しなくてよかったわ」
「しかしどうするか。泡ガエルを放置できないのはもっともだし、ケダモノ討伐で祟られた例に心当たりはある?」
「知る限りじゃないわね。むしろ神託で討伐に出た武士の逸話があるくらい」
もっと情報を整理して話し合いたかったが、古多万を相手にした時よりも多く掻いた脂汗が思考を邪魔する。湿った着物が肌に張りつくし、べた付くのだ。あと、運動で流れた汗と違った嫌な匂いもあるので不快でたまらない。
「……」
「……とりあえずお風呂、入りたいわね」
「……よし」
突発的な拳遊びは白熱した。勝敗は敢えて言うまい。十一回のあいこの末、レンが水汲み、サトが湯沸かしで決まったことだけ伝えよう。
幸か不幸かは知らないが、事態が進んだのは、泡ガエル討伐開始から二十二日、武士介入から五日、この拳遊びから二日後のことだった。