九、手札不足
サトがレンに言いつけられたとおり、水をたらふく飲んで野菜を惜しまない食事を続けて暫く。少し変わったことがある。
「お嬢ちゃん、良かったらこれも持ってお行き」
「え、でも」
「なあに、ちょいとしたおまけだよ。遠慮せず」
「あ、ありがとう……?」
四つの予定だった大きな饅頭が六つに増えた。想定より重みを増した手荷物がありがたいような、邪魔なような。如何ともしがたい感情で満たされたが店主に馬鹿正直な表情は見せられず、サトは何とか笑顔を作って饅頭屋を後にした。
快晴に相応しい活気に満ちた町をすり抜けて暫く、饅頭屋が見えなくなってやっと眉をしかめた。
「これが、レンの言う“武器”ってことでいいのかね?」
「良いんじゃないですかぃ、おこぼれが貰えるんなら俺は大歓迎ですぜ。武器万歳」
いつの間にか隣に並んでいた稼吉が、骨と筋でできた長い手指を遠慮なく差し出す。なんともまあ、満面の笑みが晴れの日によく似合うことだ。
会う約束もしていないのに、どこでサトが買い出し中だと嗅ぎ付けてきたのやら。不思議に思いながらも包みからおまけに貰った饅頭を二つ、その手に乗せてやった。
サトの肌に吹き出物が新しく住みつかなくなって久しい。新しい住人がいないなら、あとは元いた奴らが退去すれば肌はすんなり平らになる。残るは吹き出物が住み着いていた痕跡の赤みだけ。普段の生活に沢山の水と野菜、それからちょっと臭い軟膏が追加になっただけで、たちどころに肌の調子が良くなった。
あとは何にも変わりない。程よく草臥れた作務衣と散切りの短髪、それから前髪に居座る一筋の白髪。なのにこうして、以前はなかったおまけが渡されることが増えた。
「なんというか、態度があからさまに変わって気味が悪い」
「清潔感ってのは重要なもんですぜ。俺だって、髭を剃ってほつれのない着物をきちんと着ていると、色々貰えるもんで」
「はあ、そういうもんかね」
そろりと自分の顎下を撫でる。長年居座っていたざらつきはどこにもなく、年相応につるりとした肌が指先に触れた。
肌が健康だというのは、サトが思っているよりも気分を明るくしてくれるものだ。町を行く歩調がやや軽やかになって、口元がいつもより柔らかいのが隣を歩く稼吉にはよく分かる。本人が気づいているのかは不明だ。
「レンの兄さんは調子どうですかい?」
「相変わらずカエル退治だね。今日帰ってくるよ」
「そりゃあいい、だから饅頭を買って労おうってか」
「……まあ、疲れたら甘いもんだと聞いたから」
棘を装った声がそっぽを向く。レンと出会ってからというもの、サトは十八という実年齢相応の幼さを残した仕草が増えた。
なかなか良い関係を築けているらしいが、年若い男女が何故まだひとつ屋根の下にいるのか。稼吉はそれが不思議でならない。何のことはない。ただサトもレンもお互いが異性であるという認識が、見事にすっぽ抜けているだけのことである。
幼少期から使用人見習い、巫覡候補と閉鎖的な環境で暮らしてきたサトの友らしき存在は、幼気な手のひらに乗る小鬼三匹のみ。その辺の情緒が育つ環境になかった。対するレンも一に美貌二に家族、三四に恩人五にまた美貌といった優先順位。そういう方面への欲求は、恐らく十を余裕で過ぎることだろう。それらが秘密箱のように上手い事絡んだ結果が現状である。本人らが傍から見れば不健全な状況だと自覚できるかどうかについて、今のところ見込みがない。
稼吉の年長者らしい心配を余所に帰ったサトを、いや持ち帰った饅頭を歓迎して小鬼どもが駆け寄ってくる。稼吉の姿に驚いて飛び跳ねるのは相変わらずだが、慣れたのか家のどこぞに隠れるということはなくなった。
一つの饅頭を三つに分けてやるサトによじ登る小鬼を眺めながら、稼吉は道中齧っていた饅頭の最後の一口をペロリと平らげた。
「ちびっこ共も変わらず元気そうで。兄さんには姿見せたんですかい?」
「いいや、まだだよ。レンは陽の気が強いのか、近寄りたがらなくてね。トカゲも風呂が終わるまで隠れたまんまだ」
「ははあ、確かに気の強い兄さんだが」
「代わりに蔵の方はいくらか増えた」
「おんやぁ、それはそれは」
いつぞや見かけた毛玉の他に、暗がりを好む小さな人っぽい奴や黒い何かの塊など。見かけるたび不法滞在費の徴収を持ちかけて追い払ってはいるが、イタチごっこが続いている。
「家周りで唯一根性があるのは厠のアイツかね。声は出さんが飽きずによく覗いているよ」
レンが夜中に厠に行ったとき、上から覗こうとしたアイツである。
「加牟波理入道かぁ……。なかなか奇特な奴が住み着いたもんで」
「そんな名前なの?」
「まあ害はありやせん。厠に集中できないってだけで」
「それ結構な死活問題だが?」
茶を淹れて稼吉に渡す。連日煎じ薬を沸かしていた薬缶と急須は、最近ようやく染みついた薬の匂いが抜けてきたところだ。
「なんだったか。大晦日に“加牟波理入道時鳥”と三度唱えると出てこないとか、逆に思い出すのも不吉だとか、唱えると生首が落ちてくるとか?」
「あ、曖昧にも程がある……っ。実際のところ、どっちだ?」
「いやぁ何ともかんとも。一番効きそうなのは姐さんが祓詞でも唱える――でしょうかねぇ」
「……まあ、そうか。そうなるか」
害のない妖怪を追い払うのは、サトとしては微妙な心境だ。幼少期からつるんだ小鬼を連想するからだろうか。
目線を向けた先では、普段より大きな饅頭を食べ終えた小鬼が膨れた腹を満足そうに撫でている。三匹とも幸せに満ちているとでも言いたげな表情が眩しい。仕草だけ見ると子供のようで微笑ましいが、あれでいて頭には一人前に角があるのだからやはり鬼なのだ。例え小指の爪の先のような頼りない大きさでも、一対揃った立派な角である。
湯呑を相方にだらりと緩い時間を過ごしていると、いつの間にか夕七つの鐘が鳴る。夕暮れにはまだ遠いがカァ、とカラスの声が鐘に混じって聞こえて、それを合図に小鬼が梁へと登っていく。そろそろ、入浴の準備を始めたほうが良いかもしれない。
「もうこんな時間ですかい。や、しかしせっかちなカラスもいたもんで」
「多分、最近よく来るアイツだろう。小鬼の友達」
見上げた先には、音もなくどこからか屋内に入り込んでいた、丸くて黒い鳥が一羽。梁の上で小鬼と並び何やら話し込んでいる。ぎゃいぎゃいと小鬼が言えば頷いて、たまにカァ、と相槌をしっかり打っていた。下からは良く見えないが、つぶらで大きな瞳とふくら雀のような体躯のくせに、カラスらしい爪の鋭い足が三本生えているのだ。
屋内なのに片手で態々庇を作った稼吉が、サトの視線を辿った先を見上げる。
「随分太いが……ありゃあ、八咫烏か」
「詳しいね」
烏は縦も横もとんとんといった見目をしている。触ればさぞかし柔らかいことだろうが、梁の上から降りてこないので触ったことが無い。小鬼に言えば触らせてもらえるだろうか。
「そりゃ年の数だけ知恵は蓄えてますぜ。懐は寒いが脳みそはぎっちり詰まった稼吉さん、で伊達に通しちゃいやせん」
「脳みそがありゃ素寒貧にならずに居られんだろうに」
「ははー、こりゃ手厳しい」
稼吉と言葉を交わす少しの間に、真ん丸八咫烏は帰ったらしい。ぎゃいぎゃいと明るい声が聞こえたかと思えば、何もいなくなった梁に向かって小鬼たちが大きく手を振っているところだった。
今日も触れなかったと内心肩を落としていると、荒っぽい音を立てて戸口が開かれ、驚いたサトの体がぴょんっと跳ねる。ついでに、梁の上の小鬼も同じように跳ねて陰の方へと隠れていった。
開かれた戸口にいたのは、泡ガエル討伐から帰ってきたレンだった。派手な小袖が少し着崩れて、邪魔にならないよう結い上げていた髪がまばらに崩れている。普段纏っている、凛と咲く大輪の牡丹のような艶やかで堂々とした出で立ちはなりを潜めて、傷みかけの花と見紛う草臥れ具合。衝撃でサトたちの腰がとっさに浮くほどだ。
「レン⁉」
「ど、どうした兄さん!怪我でもしたか⁉」
「違うわよぉ……」
いち早く三和土に降りた稼吉が手を差し伸べると、脱力した体が遠慮なくもたれかかってくる。
面食らった稼吉が固まったところに、きゅるる、と可愛らしい音が響いた。
「な、なにか……食べさせて頂戴……」
「お、おお……?」
腹の虫の鳴き声に哀れっぽい一言が続いて、部屋には一時奇妙な空気が漂った。
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泡ガエルの大繁殖は、現在浪人が主力になり対処している。
奉行所の役人や武士は関与せず、あくまで民間の金や腕試し、暇つぶしと思い思いの理由で集まった有象無象ばかり。流浪組合で大雑把に分けられた班と出陣順だけ守れば、あとは連携も戦略もありはしない。余程の新人でない限りは皆が承知している体制だ。レンも例外ではないため、多少の苦戦は視野に入れていた。
問題は、戦闘態勢よりも相手にあった。
「切っても切ってもカエルカエル。次から次へと湧いてきてキリがないわ。しかも、一体一体が人を丸呑みできるぐらい大きいの!もう気持ち悪くって!」
大口を開けて饅頭を一口。咀嚼中唇は閉じているが顎が大きく動いているのがよく分かる。すらりと伸びた片手で鷲掴みにされている饅頭には指が食い込んでいた。
雑炊ができるまでの間饅頭を貪る今のレンに、優美さは欠片もない。それくらい腹が減っているらしい。
「……この間の泡ガエルって大きい方だったのか?」
「ありゃ通常の三倍ってとこですかね。兄さんの話どおりなら、あんなのがわんさかいると」
「へぇ、そりゃ最悪だ」
「もっと労ってちょうだい!言い方が軽い!」
ぷりぷり怒るレンの饅頭はすでに半分を下回っている。しっかり咀嚼しているが、いつもより食べる速度が速いようだ。
「知っている?泡ガエルって嫌に賢いの。この間の逸れガエルは、態々道に粘液垂らして罠張っていたのよ」
「ああ、それで引っかかったと」
「そう。脚を取られたところに舌が絡んでちゅるっと……ああ、思い出したら寒気がしてきたわ」
しかめ面をしたレンが腕を擦る。一人きりの林道で不意を突かれて大きなカエルに丸呑みにされるとは、想像だけでもぞっとしない話だ。一度粘液が付着すると水で念入りに洗わない限り、ヌルヌルとしつこく絡みつくうえ肌を荒らす。その辺りも厄介極まりない。
レンの言いつけどおり今日も野菜を多めに入れた雑炊は、鍋の中でくつくつ音を立てている。まだ米が固さを残しているが許容範囲かと醤油を垂らして、椀に山盛りよそってレンの傍に置いておく。どうせ猫舌なので限界まで冷ますのだ。その間にふやけるだろう。なおサトと稼吉の分はもう少し米が煮えてからにする。
「賢いなら、一体やっつけるのにはやっぱり手間取るもんですかい?」
「いや、それは全然ね。正面からなら容易いもんよ。全体が柔らかいから刀も通りやすいし。心臓か口の中から頭を狙って一突き。大きいから的も外しにくいわ」
レンは脇差を持ち帰ってこなかった。暫く泡ガエルの粘液に触れていたため、どこぞの刀鍛冶に預けて手入れを依頼してきたようだ。
「それなのにそんなに疲れるとは、どこまで数が多いのか……」
「もうね、依頼出した大店の旦那も“もうカエルは持ち帰ってくるな”ですって。石鹸作りに必要な分より、討伐数が上回ったそうよ」
「それなのに数が減らないと?」
「文字どおり終わりが見えないわ。精神病みそう」
待ちきれなくなったのか椀を匙でかき回したレンは、ふわりと勢いを増して立ちのぼった湯気に眉をしかめて逡巡。結局冷めきるまで待つのをやめて、半口分くらいを匙に乗せてしっかり息を吹きかけ始めた。多分、口に含むのはさらに半分になるだろう。
稼吉もじっと鍋から視線を外さなくなったので、椀によそって手渡してやった。こちらは先程まで沸いていた雑炊の熱さをものともせずパクパクと匙を動かしている。
「姐さんの神通力でどうにかなりませんかい?泡ガエル仕留めたの、姐さんでしょう」
「匙でこっちを指すな」
行儀の悪さを咎めたが、稼吉の指摘はもっともだ。
土門含めた霊山三合目に住まう五行一門は、優秀な巫術師だがそうそう人里に降りてこない。基本的には神事に注力する一門のため、助力は被害が相応の規模にならないと見込めないのだ。
浪人や歩き巫――旅する無所属の巫術師のこと――の中には五行を使える者もいるが「泡ガエルに有効な土の神通力を得意とする者」と限定した場合どれほど該当する者がいるだろうか。
その点サトは土門一門の血を引く、土行を得意とする巫術師の端くれ。難点とすれば――。
「……実戦経験がレンを見つけたときの一回きり、だからなぁ」
サトの肩が丸まり、二人と視線が合わなくなった。
「嘘でしょ、そんな無茶したの?」
「俺にあんな立派に“何かあれば神通力がある”って言っておいて?」
「う、煩いな……」
当時は勢い任せの部分が六割以上を占めていたので仕方ない。改めて指摘されるとどうにも面映ゆく、視線はどこへともない方に泳ぐのだった。
サトの心境はどうあれ、土の神通力が役立つだろうというのはその通りだ。ただしサトが術一発で泡ガエル一匹を仕留めることができなかったのも事実。繁殖中の戦場で広範囲に使用した場合、相応に術の威力が落ちる可能性も大いにある。無責任に任せておけとは言い難い。
こんなことをくどくどと早口でまくし立てた。言い訳じみた説明だったが、不確定要素に頼られても良いことはないだろうと語れば、二人は最終的に頷いた。
「まあ、そうそう旨い話もないもんで」
「そうね。もし実力があったとして、浪人でもない年下の子に戦場を手伝えなんて言わないわ。……あ、もし良い案があったら教えて頂戴ね」
「それは、勿論」
八雲と揉めた一件を知っているレンだ。サトが土門一門に助力を願う伝手が使えないことも承知しているのだろう。あっさりと告げられた戦力外通告は当然のものである。
「――」
当然なのだが、サトの平たい胸の奥をちくりと刺すものがあるのも、また確かだった。
サトはようやく自分の雑炊をよそい、刺さったものを抑え込めないものかと、たいして冷まさず食道に流し込んだ。




