第1章 第1話 引きこもり
小学校で友だちを作り、中学校で恋をし、高校で失恋を経験し、大学で四年間遊び、就職して数年で結婚し、子どもを作って出世して家を建てて定年まで働き、静かな老後を過ごし、そして穏やかに死んでいく。それこそが誰もが想像する普通の人生だ。
だが最近強く思う。そんな普通の人生を歩める人は、どれだけ特別な人間なのかと。
一度の失敗も許されず、ドロップアウトしてしまえば二度と戻ることのできない王道。それは決して普通ではなく、努力と運に恵まれたエリートしか歩めない道。だから……少しくらい道を外れても仕方がない。
まぁ所詮、良く言えば浪人生。悪く言えば無職の現実逃避のわけだが。
「……というわけで北条正義くん。娘の家庭教師をお願いできないかな」
そんな現実逃避を続けていた俺に、両親が頭を軽く下げてくる。幼馴染、織田信音の両親が。
「……本当に僕でいいんですか。何の実績もない、ただの浪人生ですけど」
「有名大学に合格するために浪人するなんて当たり前だよ」
有名大学……ねぇ……。建前上はそうなっているが、正直そう思っているのは入試前と後の数ヶ月だけ。五月にもなれば勉強する気なんて毛ほども残っていない。やらなきゃいけないという焦燥感とやりたくないという倦怠感が同席しているだけのただの無職だ。もう20歳になったっていうのにな……。
「何より。信音の心を溶かせるのは幼馴染の正義くんだけだ」
父親がリビングに面する信音さんの部屋の扉に目を向ける。織田信音、高校二年生。彼女は学校でいじめに遭い、四月から学校に通えていないらしい。
「日給一万円でどうかな。基本はこの家で自分の勉強をしてくれていればいい。家庭教師的なことは無理にしなくてもいいんだ。……一番怖いのは信音がこのまま自殺しちゃうことだから」
さすが、数年で財を成した成金は金払いがいいな。毎日いたら月給30万。そもそも仕事が忙しいからという理由で娘を高級マンションの一室で一人暮らしさせている富豪っぷり。金銭感覚がおかしくなっているようだ。
「もちろん協力しますよ、信音さんのためですから。お金なんていらないくらいです」
こんな好条件のバイトなんて早々ない。適当にそれっぽいことを言って引き受けると、両親は安心した顔で家を出ていった。
「……薄情だよな。自分たちが娘を見捨てるひどい親だって認めたくないから。娘より仕事の方が大事だから俺に丸投げしてるんだ。本当に心配なら自分が向き合えって話だ」
両親がいなくなったのでずっと言いたかったことを口にする。
「そもそも俺と君が仲良かったのは小学校まで。それ以降は会ってもいないのに、わざわざ家にまで押しかけて来たんだよ。小学生で時が止まってるんだ」
リビングから声をかけるも、返ってくる言葉はない。そりゃそうだ。昔は仲良かったとはいえ、今ではほとんど他人なんだから。
「じゃあ俺はリビングで適当に勉強してるか動画見てるかゲームしてるか……たぶん動画見てるから。邪魔なら出ていくから言って」
正直な話、信音さんがどうなろうがどうだっていい。ほとんど他人だし……何より一度ドロップアウトしたんだ。どれだけがんばろうが、もうまともな人生は歩めない。……と諦めていると、扉の向こうから弱弱しい声が聞こえてきた。
「……そんな人だったっけ。もっと明るい人だったはずだけど。おにぃ……、えと……まさ……うん、まさみちさんって」
「惜しい、まさよしだ。別に昔みたいにおにぃって呼んでくれていいけど。……そりゃ二浪中だからさ。二浪もしてるのに明るかったらおかしいだろ。もっと申し訳なくしろって思うだろ」
「……じゃあわざと暗いこと言ってるんだ」
「いやまぁ……暗いのは性分だけど。信音さんも昔はもっと明るかったよね」
「昔みたいにコトでいいよ。……引きこもりで明るかったら怒られるでしょ。ううん……元々暗いけど……」
「まぁ、最後に会ってから八年だもんな。性格も変わるか。とりあえず話せるようでよかったよ。俺も人と話したの数日ぶりだからお互い」
そう……昔はいつもこんな風に毎日楽しく話せていた。家が隣同士だったから、遊ぶ時も学校行く時も一緒で……。でもいつからだろうな。何となく女子と一緒に遊ぶことが恥ずかしくなって、気づいたら事業が軌道に乗った織田家が引っ越していって……連絡先は知ってるけど別に連絡を取る必要もなくて……お互い道を踏み外してしまった。
「……無理に勉強させようとしない?」
「しないしない。俺も勉強したくないから」
「無理に学校行かせようとしない?」
「今さら学校に行ったところで元には戻れないだろ。しないよ」
「……じゃあ、入ってもいいよ」
部屋の鍵がガチャリと開く音がした。一応女子の部屋だし、慎重に扉を開けて中に入る。
「……うわ」
二重の意味で声が出てしまった。まず汚い。広い部屋中にゴミ袋やカップラーメンの空き箱が散乱しており、ベッドの上は空のペットボトルで埋め尽くされている。そのくせテーブルの上にはモニターが三つもあり、質のよさげなゲーミングパソコンとゲーミングチェアが鎮座している。お手本のような引きこもり部屋だ。
そして二つ目の意味。ひさしぶりに会った幼馴染は、引きこもりでありながら美少女になっていた。目は眠そうに垂れているがそれでも大きくくりっとしており、たぶん美容院に行くのがめんどくさいから伸ばしっぱなしになっている長い髪は美しい宝石のよう。引きこもり特有の肌の白さは傍から見れば美白だし、不健康な栄養は胸に行っているようで無駄にスタイルがいい。親の趣味で買い与えられたであろう薄いピンク色のネグリジェも相まり、見てくれだけはかわいいお嬢様のようだ。それが汚部屋にいるんだ。声だって出てしまう。
「……引きこもって何やってんの?」
「何もやってない。でも夢はある」
優れた容姿を台無しにする引きこもりらしい無表情で、コトはこう言った。
「ビッグになって、幸せになりたい」
道を踏み外し、何の努力もしていない奴が。そんな大層で曖昧な夢を叶えられるはずがない。そういう人間になれるのは、道を外れることなくコツコツと努力を重ね、そして運もある特別な人間だけだ。そんなことわかっているのに。
「……俺もそうなりたい」
社会不適合者の俺たちは、分不相応にも幸せになりたいと願ってしまうのだ。