プロローグ 『ひと夏の記録』
ジリジリジリ。どこかで蝉が鳴いている。
青葉の匂いと、適度な湿気と、むせかえるほどの熱気が混ざった初夏の風。
俺は顎からしたたる汗を拭うと靴を脱いで家に上がった。
妹の靴が見当たらない。どうやらまだ帰っていないらしい。危ない場所に率先して首を突っ込みにいくようなタイプではないから大丈夫だとは思うけど。
帰りが遅いとお兄ちゃん心配になっちゃうぞ。
念のため確認の連絡くらいは入れておくか。
ズボンの後ろポケットに入れておいたスマホを取出し、アプリを起動する。直後。ピロリンという通知音と共に「もうすぐ帰るね」の文字が表示された。
さすが兄よりしっかり者と評判の妹だ。「了解」の返事を送ってから、もう一度スマホをズボンのポケットに仕舞う。
これでひと安心だ。さて、部屋に戻ろうかな。
俺は二階の自室まで駆け上がると、後ろ手でドアを閉めパチンと指を鳴らした。
空中に16インチ程度の画面が表示される。
しまった。慌てていたからチャット画面が開きっぱなしになっていた。一応、説明してから離席したはずなんだけど、そこには各異世界の転生者――悪役令嬢や勇者、魔王たちからの「知恵神様!」「大丈夫か」「生きているか」といった心配の声が並んでいる。
ちょっと席を外したくらいで大袈裟だなぁ。大事に思われているっていうのは悪い気はしないけど。
俺は緩む頬を押さえながら、晴れやかに「ただいま」と声をかけた。
これは大学二年目の夏。
俺が転生者たちの知恵神――もとい知恵として活躍した時の記録である。