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吾輩はヒトである

作者: ししおどし

 吾輩はヒトである。名前はもうある。地球の東京で生まれたことは確定的に明らかである。


 なあんて、生まれ故郷で有名だった小説の冒頭になぞらえて自己紹介なんてしてみたけれど、残念ながら私は件の小説をきちんと読んだ事はない。でもまあきっと、私は彼のお猫様とそこまで大きな違いはないんじゃないかなあと思っている、きっと。


 おおよそ体育館くらいありそうな広い広い部屋の中が、今の私のテリトリー。部屋の中をぐるりと一周するだけで結構な運動になるけれど、面倒くさいから大体は部屋の隅っこ、八畳くらいのスペースで生活している。

 ちょうど私の元々暮らしていた家の部屋と同じくらいの広さが一番落ち着くから、その一角はついたてをして囲っていて、中にあるのはふかふかのベッドと、クッションがいっぱい。机や椅子はないけれど、紙と筆記用具はあってぱらぱらと無造作に床に散らばってて、その床には分厚めの毛の長い絨毯が敷かれている。ふかふかで、寝そべるとベッドよりも気持ちがいい。

 生活しているついたての外側にも、いろんなものが置かれてある。本棚もあって中にはぎっしりと本が並んでいて、床に落ちている小さなリモコン型のボタンを押せば、壁一面に大きな映像が写っていろんなものを見ることも出来る。ベッドのある隅っことは反対側にはプールもあって、なみなみと張られた水はいつだって透き通ってて、好きな時に飛び込んで泳いで構わない。お風呂は残りの四隅の一角にあって、残りの一角には衣装棚。

 だけどいろんなものが揃う広い広い部屋の中、生きてゆくには足りないものがある。

 それが何かといえば。


 ぶおん、ぶおん。

 突然、部屋が大きく揺れる気配があって、私は急いで一番近くの壁へと駆け寄り、ぺたりと背中をくっつけて部屋の真ん中を見つめる。

 そうして少しもしないうち、部屋の中心に大きな丸いもさもさした何かが現れた。見た目はマリモに似ているそれは、広い部屋の四分の一ほどの大きさがあって、床にぴたりと着陸するとずしんと微かに足元が揺れたから、重さだってなかなかのものだと思う。

 普通に考えて、近づきたくないもの。うっかり近づいてしまえば、ぺしゃんこにされてしまいそうな、命の危機さえ覚えそうなもの。

 けれど私は、揺れが収まってすぐ、迷いもなくそれに向かって駆け出した。ふかふかの絨毯は部屋いっぱいに広がっていて少し走りにくいけれど、かまわない。可能な限りの速度で駆けて、現れた巨大マリモに近づいて、思いっきりぽすんと抱きついた。

 ふわふわの毛は絨毯より気持ちがよくって、さわさわと動く毛が撫でるように背中を這い回るのも、ちっとも怖くない。だって私はそれが、私にけして危害を加えない事を知っている。

 私の背中をさわさわと撫でていた毛は、しばらくしてから何かを伝えるようにつんつんと私の頬をつついた。私が顔を上げるとすかさず、口の前に何かを差し出すから、躊躇いもなくぱくりと食いつく。すぐに口の中に肉のような味が広がって、もぐもぐと咀嚼をしているうちに次の一口が顔の前に用意されている。


 この部屋にはいろんなものが揃っているけれど、食べ物の類だけは置かれていない。それは毎回このマリモが持ってきてくれて、私に手ずから? 毛ずから? 食べさせてくれるからだ。

 たまに皿に乗せられた状態で持ってきてくれて、自分で食べることもあるけれど、私は巨大マリモに食べさせてもらう方が好きだ。

 だってご主人様にものすごく甘やかされている気になるから。


 そう、ご主人様。そうなのだ。

 現在、私(地球生まれ、メスの19歳)は、ご主人様(推定宇宙人、性別年齢不明)に飼われている。多分。





 最初はそりゃあもう、驚きを通り越して恐怖しかなかった。

 だって私はただの大学生で、たまにサボる事はあったけど基本的には真面目に学生をしてて、怪しいお誘いに乗ることもよく知らない飲み会に顔を出すこともなくて、その日も普通に一人暮らしのアパートに帰って眠った筈だった。

 なのに、だ。

 目が覚めたら知らない、だだっ広い場所にぽつんと一人でいて、しかもすぐそばには得体の知れない巨大マリモがいて、わさわさと毛を揺らしている。驚くなって方が無理だと思う。

 逃げ場はなかった。窓も扉も見当たらない部屋の中、私が出来たのは隅っこに逃げて蹲ることだけ。いやだ、こないで、こわい、帰して。喚きながら震えて涙を流して、みっともなく鼻水まで垂らしてしまった。

 けれど巨大マリモ、ご主人様は優しくって、根気強かった。

 すっかりと恐慌状態に陥った私に無理やり触れようとも近づこうともしない。泣き疲れた私がようやく顔を上げた時には既にその姿はなく、代わりにあったのは水と食料らしきもの。それを食べるのすら怖かったけれど、カラカラに乾いた喉には抗えなくて、少し迷ってから水だけ飲んだ。

 それからも定期的に部屋の中に現れたご主人様は、食料を置いてゆくだけでそれ以上のことはけしてしようとはしなかった。水だけでなく食事にも手をつけるようになったのは割合早い段階で、お腹がいっぱいになってからは少しだけ警戒心も解けた気がする。

 ご主人様はあんまりに大きかったから、言葉を選ばずに言えば得体の知れない化け物にしか見えなかったけれど、化け物にしては随分と私に気を遣ってくれているような気がする。そのやりようが、昔はじめて実家に猫がやって来た時、ケージの中でぴるぴると震えていた彼女を落ち着かせようと私たち家族がしていた事とよく似ているんじゃないかって気づいてからは、一気に思考が好意的な方へと傾いた。

 あんまりに楽観的すぎるかもしれないけれど、ずっと警戒し続けるのは疲れるのだ。ただでさえ何も無い部屋の中、疑ってばかりだと狂ってしまいそうだった。


 だから私は、実家の猫の事を思い出してからは、一気にご主人様との距離を詰めるべく行動に出た。きっとこのマリモは私を悪いようにはしない筈だと信じなければやってられないほどには、いろいろ限界だった。

 手始めに部屋にやってきたご主人様に自分から近づいてみる。ご主人様がちょっと動くだけで私なんてぷちりと潰されてしまいそうだったから、ある意味では賭けだった。それで怒らせて潰されてしまうならそれまで、意味の分からない現状が終わるなら悪くないかもなんて、やけっぱちにもなってた。

 けれどご主人様は私を潰さなかった。ぴきん、とどこか緊張したように微動だにしなくって、おそるおそる手を伸ばして毛に触れても嫌がる素振りはなくされるがままになっていた。大きな体を覆う毛は驚くほど細やかでふわふわで、綿のように柔らかくて気持ちが良い。心地良さに思わずぼふりと顔を埋めてその感触を堪能していれば、そろそろと背中に触れるものがあった。私が驚いてびくんと肩を震わせればすぐに離れていったけれど、埋めた顔を上げずにそのまんまでいればまた、そろそろと触れる気配があって。私がそれを黙って受け入れると、触れた毛の奥がぶるぶると震えて、背に触れる何かが撫でるように何度も何度も上下した。


 あ、大丈夫だ。

 思ったのは、その時。何もかも分からないままだけれど、大丈夫、このヒト、ヒト? マリモは私をけして傷つけない。背に触れる気配の優しさで、確信して力を抜く。たとえ勘違いでも構わない。疑うのはもう疲れてしまった。だったらこのマリモを信じよう。

 一度そう決めてしまえば、マリモ、ご主人様に心を寄せるまではあっという間だった。




 私がご主人様に警戒を解く素振りを見せてから、徐々に部屋の中にいろんなものが増えていった。

 最初に置かれたのは、数十にも及ぼうかという私サイズのベッド。形は多岐に渡っていて、天蓋付きもあれば寝袋みたいなものもあって、どれ一つとして同じものはない。

 いまいち意図は掴めなかったけれど、その中のひとつ、ふかふかで体の沈み具合が一番ちょうどよかったものに三度続けて眠れば、次の日にはそのベッド以外のものは全て取り払われていて、そこでようやく私は好きなものを選べるようにと提示されていた事を知って、ご主人様への好感度が一気に跳ね上がった。

 ベッド以外のものも、初めは沢山種類が持ち込まれて、私が気に入ったものだけが部屋の中に残される。それは私とご主人様の間に、好ましいものを手元に置いておく、或いは選択という可能性について、共通の認識が存在するという事実を示してくれたから、一層ご主人様を身近に感じるのはある意味では当然の事だったと思う。


 だから私は、部屋の中にいろんなものが増えてゆくのに並行して、どうにかご主人様と意思の疎通がはかれないか頑張った。

 だって自分よりもずっと小さくて貧弱な生き物に対する気遣いを見せてくれている以上、ある程度の知性があるのは明らかで、だったらどうにかしてコミュニケーションがとれるのではないかと期待してしまうのは仕方がないことだろう。

 けれどこれが、なかなかに困難を極めた。

 初めのうちは私は、割と楽観視していたのだ。たとえ言葉が通じなくても、ジェスチャーと一緒に言葉を発するうちに、通じるものが増えてゆく筈だと信じて疑いもしていなかった。

 しかし現実は私の思った通りに進まない。

 私がいくらご主人様に喋りかけても、自分を指さして名前を告げても、ご主人様は何も言ってくれない。そういえば彼は一度も音を発してはいなかったと気づいたのはジェスチャーゲームを始めてしばらく経ってからで、ご主人様といる時に限ってたまに、こめかみの辺りにぴりぴりと痺れるような、頭の中を直に震わせるような奇妙な感覚を覚える事に気づいてようやく、私とご主人様の発声や知覚の方法が根本的に違うのではないかということに気がついた。こめかみをぴりりと痺れさせる何かがご主人様からのコンタクトならば、私に彼の言葉を理解するのは絶望的だと思われた。だってそれはにゃあにゃあと鳴く猫の鳴き声よりも、細かなニュアンスがさっぱりと掴めないものだったから。


 けれど私は諦めない。

 声が駄目でも、文字がある。

 だからご主人様がやってくる度に絨毯に指で文字を綴るジェスチャーをして、どうにか私があなたとコミュニケーションをとりたいと望んでいるのだと示し続けた。そんな努力の結果、ご主人様が紙とペン、それに数冊の本を持ってきてくれた時は、小躍りして喜んだ。

 だけど順調だったのはそこまで。持ち込まれた本は見たことも無い言葉で書かれていてちっとも読めなかったし、紙に書いて渡した50音図もアルファベットも、絵をつけた単語帳も、いまいち伝わっている様子がない。


 もしかしてご主人様にとっては、文字すらも遠い昔の進化の過程で不要となったもので、ご主人様の種族、彼らはヒトよりも数十世代進んだ生き物なのかもしれない、と思い始めたのは、そんな文字を綴っては渡す毎日を続けてゆく最中のこと。

 意思疎通の方法がおそらくテレパシーめいたものだっただけではなく、ご主人様は不思議な力を使えたから。ふわふわと宙に浮く事も出来れば、何も無いところから突然物を出すことも出来るし、物に触れずともそれを自由自在に動かす事もできる。それは人間が出来る事を遥かに超えていた。

 多分、私が書いて渡した文字を、ご主人様はある程度は理解している、気がする。だって『だいすきです』と書いた紙を渡した時は、ふるふると震えたあといつもより強めにわしゃわしゃと私を撫でくりまわして、こめかみのぴりぴりがびりりりりり、といつもより激しいように思えたから。

 紙に欲しいものを書いて渡せば、すぐにそれを誂えてももらえる。だからきっと、私からご主人様への一方的な意思の疎通は出来ているんじゃないかと思う。


 それでも私の扱いは変わらなかった。ご飯を与えられて、わしゃわしゃと撫で回されて、部屋の中のものが増えてゆく。とても対等な生き物として見られているようには思えない。

 たとえば、もし。私にとっての猫がにゃあと鳴くその声で、ある程度の機嫌は察知出来ても細かい部分までは分からない、その感覚。私が言葉を尽くして綴った文字が、ご主人様にとってはにゃあ、たったそれだけの鳴き声に等しいものだったとしたら。人にとっては理解出来ない、見えないものまで知覚している存在からしたら、人が操る言葉は猫の鳴き声のごとく、隅々まで理解するには拙い表現にしか映らないんじゃないだろうか。

 長々と綴った物語すら、児戯よりも覚束無い戯れにしか見えないんじゃないだろうか。


 ご主人様へコンタクトを試みるうち、段々とご主人様がとんでもなく進化した生き物だと察する事が多くなって、きっと、途方もない進化の溝が私たちの間には横たわっていることを理解するようになって、ようやく、私は受け止めた。

 ご主人様にとって私はペットのようなもので、彼は私のご主人様なのだということを。


 かくして私は、身も心もご主人様のペットとなった。

 もしかしたら全部私の勘違いなのかもしれない。けれどそれを確かめる術は存在していない。

 だったら私はペットである、そう思った方が気が楽だった。

 よしよしと背中を撫でてくれる毛も、欠かさず与えてくれる食事も、増えてゆく部屋の備品の意味も、だって私はご主人様のペットだから、そう考えれば納得がゆく。


 人が人に与える愛情を、私はいまいち信じてはいなかった。本当に愛しているのか、何か見返りを求められているのではないか、やがて愛想を尽かされるのではないか、疑心が沸いて素直には受け止められない。そういう面倒くさい性質をしている。

 けれど、人がペットに抱く愛情については、そういうものだとすとんと納得してしまえる。だって実家の猫は存在するだけで可愛くって、引っかかれてもつれなくされても、嫌うなんて発想が浮かびもしなかった。猫は猫であるだけでかわいい。それで十分である。


 もしも私も、ご主人様にとってはペットなのだとしたら。私が何をしたってご主人様は、私のことを嫌いにはならない。私がそうだったように、ご主人様も私のことをただあるだけで可愛いと思ってくれる。

 それはひどく甘美で、心底安心して、信じられる愛情だった。

 それにご主人様が、私を傷つけないように慎重に触れるたび、胸がくすぐったくなる。この存在は私をけして害さないと理解するたびご主人様の事が好きになっていって、初めの頃は恐ろしかったその巨体に触れている時が一番、安心する時間になってゆく。

 そんな自分の心の変化を感じるたびに、実家の猫の事を思うのだ。彼女が何を思っていたのかは分からないけれど、気まぐれに膝に乗ってきてくれてゴロゴロと喉を鳴らす時、心底安心してくれていたのなら。言葉は通じずとも、愛情は通じていたのなら。考えるだけで幸せな気持ちになって、じんと胸が暖かくなる。

 だって、こんなにも体格も違って、言葉も通じない恐ろしい存在に、無防備に身体を預ける気になれるのは、ご主人様を心底信頼している結果だと身をもって知ったから。昔と今、ご主人様とペット、二つの立場でしみじみと理解できるのだ。そこには種族を超えた情が確かに存在していることを。

 だから私は、ご主人様のペットである。ペットでありたいと願っている。これからも、ずっと、ずっと。




 吾輩はヒトである。名前は、地球にいた頃のものならあるけれど、ぴりぴりと痺れるこめかみに届くどれかが、ご主人様が与えてくれた名だといいなと思っていて、叶うならばいつか。

 それを認識出来るようになるのが、今の私の望みである。

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