鎧と兵器
人生というものは、余りにもあっけなく変わってしまうのだと知った。あの日精神科に行ってから、大量の薬を飲みながら仕事に行くという生活を続けた。でもそれには限界があったらしい。薬を飲む量は徐々に増えていった。薬を飲まないと、冷や汗が滲んで手が震えてきた。処方してもらっている薬のはずなのに、非合法な薬物でも摂取している気分だった。「薬が足りないんです」と言うと、医者は薬を増やした。いつしか薬なしでも生きていたことを忘れていった。私は薬に生かされているのだと思った。
薬の量をいくら増やしても、ベッドから動けなくなる日はなくならなかった。ついには月の半分を休むようになり、私は働くことを諦めた。3年にも満たない社会人生活だった。会社を辞めたとき、医者は「ゆっくりと休むことに専念しましょう」と言ったが、それから7年近く経っている。随分長い休暇を取っているものだ。人は、自分たちが付加価値をつけた紙切れを稼ぐのに必死だ。辞めたい、と口にする人もいるだろう。しかし、辞めたいと言いながら働けている人間は気付いていないのだ。この社会では、働いて対価を得るという行為が自尊心に繋がっている。3年も働いていなかったけれど、通帳に振り込まれる20万ちょっとのお金は、そのまま私の価値のように感じた。いや、感じていたと分かった、というのが正解だろう。私にも、当時はそのことが分からなかった。1円も稼げなくなったとき、私は無価値になった。1円も稼げないのにお金はかかり、私はただお金を貪る生き物になった。精神疾患者というレッテルを盾にして。
両親は相変わらず世間体を気にして、障害者手帳を持つことに反対していた。私が働いていないことが近所の人に分からないよう、外出するのは23時以降に限られた。日が昇ると、私は家の近辺をうろついてはいけないことになっている。つまり、深夜のうちに外出して日が昇るまでに帰ってくるか、その翌日などの23時以降に帰ってくるかのどちらかだ。私はまるで存在しなくなった人間かのようだ。
そんな私が生きていると感じられるのがSNSだった。ベッドの上で携帯電話を見つめる。「ロボトミー」と書かれたハンドルネームを見つめ、私は向沢千景ではなくロボトミーという人間なのだ、と確認した。そのハンドルネームは、世界一強い兵器でも防げる鎧のようだ。そして同時に、世界一頑丈な鎧をも砕く兵器のようだ。
『第三次世界大戦でも起これば、私は自由になれる。失うものがある人は可哀想だね』
ロボトミーがそう言った。世界情勢が緊迫していると毎日のようにニュースになるが、それは何年前からの話だったか。実際に戦争が起きた国は大変そうだと感じる。だけど、あまりにも現実感がなかった。今この瞬間、日本から遠く離れた国に爆弾が落とされているなんて、何かのSF小説でも読んでいるようだ。戦争は教科書の中でだけの話だし、どのくらいつらいのかなんて想像もできない。私が今、SNSでしか交流を持てず、お金を稼げないという状況よりも悲惨なのだろうか。死ぬのが怖くて死ねない人間は、死なざるを得ない状況になって死ねるのかもしれない。
『そんなことよく言えるな、ニート』
『戦争を望む前にお前が死ねよ』
『失うものがないなんて、簡単に言わないでください。ロボトミーさんを大切に思っている人もいるんですよ』
『俺には家族がいるんだ。俺の家族を虚仮にするようなことを言うな』
投稿してからあっという間にコメント欄がいっぱいになった。
「家族、ねぇ」
私は1人、呟いた。私にも両親がいる。一緒に暮らしている両親がいる。両親は家族だ。天井を仰ぐと、真っ暗な部屋の中にぼんやりとした灯りが漏れていた。カーテンから街灯が入ってきているのだ。その灯りは、チカチカと不規則に点滅していて、妙に不快だった。不快である理由は、きっと同族嫌悪なのだろう、と思った。
世界一の鎧と世界一の兵器を身に纏ったロボトミーは、どんなことを言われても平気だった。
『生きる価値のない人間が、生きる権利を喚き散らしてる。どうぞ、世界で一番可愛いご自分をご大切に』
そう投稿して、鳴り止まない通知音を聞いていた。