私が精神障害者だと知った日
「躁鬱病ですね」
当時は、新卒で勤め始めてから数ヶ月ほど経った頃だった。
中学生の頃から朝になると体が怠く、学校でも動悸に悩まされた。かと思うと、まるで自分が神になったかのような全能感に包まれることもあった。そういうときは、どんなに酷いことを言われようとされようと平気だった。
しかし、その落差はどんどん大きくなっていっていた。朝起きたときに体が怠いだけではなく、ベッドから動けなくなる日が出てきた。逆に神になったときは、1週間程度なら寝なくても平気だった。
働き始めてから、気分の落差や体の異常が差し支えるようになってきた。出勤しなければならない日も動けない。会社を休む日が増えていく。逆に気が大きくなっているときは、上司に向かって小馬鹿にする発言をしていたようだ。私は働くのに適していない人間なんだと思った。働いていれば、少しだけ社会に近づけたような気がした。社会の一員になっているような気がした。でも、現実はそんなに甘くなかった。私が就職活動をしていたのは好景気といわれていたとき。それなりに待遇が良く、それなりにやりたいような職に就けたのは、ただ求人倍率が高かった、というだけの話だ。筆記試験や面接で私の社会性や将来性を見抜いていたからだとずっと思っていた。実際には私に社会性も将来性も備わっておらず、人事部は本当の私を見抜けなかった。そのことに気付いたとき、体中の力が抜けていくような、そんな気がした。
両親は世間体をとても気にする人間だ。学生時代、私が苦しくて動けなかった日も、「サボるな」と言うだけだった。しかし、会社に行けない日が続くと話が別だったらしい。それまで一言も出てこなかった精神科、という単語を発した。「あんた、精神科に行ってきなさい」と。私は自身が精神疾患を抱えているとは思っていなかった。精神科に行けと言われてすんなりと行かなきゃいけない、と思うことはなかった。だけど、母の言葉は絶対だ。母の言葉に従わないと、私は母の面目を潰すことになる。主体性のない私を不甲斐なく思いながら、母に言われた病院に行くことにした。
問診票を書きながら、私は病気なのではないかと思えてきた。いつかテレビの中で見た、「狂った人」に似た考え方をしていると思ったからだ。診察室に入ると、穏やかに笑った男の先生がいた。いくつか質問をされた後、「躁鬱病ですね」と言われた。躁鬱病と言われてもピンと来なかったが、どうやらローテンションとハイテンションを繰り返す病気らしい。
「その他に、強迫性障害、摂食障害、パニック障害、心的外傷後ストレス障害を抱えている可能性があります」
聞いたことのある病名やない病名が並べられた。
「私は精神病なんですか?狂ってるんですか?」
「精神疾患を抱えているから狂っているというわけではありませんよ。ただ、少し生きづらく感じることがあるかもしれません。今日はよく来てくれましたね。少しずつ、生きやすくしていきましょう」
「ここに通えば全部治るんですか?私が精神病?何で?」
「躁鬱病というのは、双極性障害といって障害なんですよ。鬱病のような病気ではありません。完治するのは、今のところ難しいと言っても良いでしょう。ただ、お薬で症状を和らげていくことは可能ですよ。躁鬱病の症状によって生活に支障を来しているようですし、自立支援手帳や障害者手帳を申請することもできます。手帳なんかは、治療していきながらゆっくりと考えていきましょう。その他に疑われる病気も、ゆっくりと良くしていきましょうね。今日はいくつかお薬を出しておきますので」
先生は始終穏やかに笑っていた。その穏やかな笑みが、ゾッとするほど気持ち悪いと感じた。私は言葉を失いながらも、その気持ち悪さだけを感じていた。
「向沢千景さーん」
「あ、はい」
処方箋をもらって隣にある薬局に行った。名前を呼ばれて出てきたのは、見たことのないような量の薬だった。薬剤師が薬の説明をしていたが、私は上の空だったと思う。その日から私は、大量の薬と共に生活する日々が始まった。
その病院から家に帰るまでには電車で40分かかった。母は私が精神科に行っているということを近所の人に知られたくないのだろう。そんな母が、障害者手帳を持てと言うはずがないとも思った。これから薬を飲みながら、治る見込みがない障害を背負っていくんだ―。つり革を持つ手が痺れてきた。私の脳も痺れている、と思った。