向沢千景という人間
「いじめた方は軽い気持ちでやっていても、いじめられた方はずっとそのことを忘れられないのよ」
小学校4年生のとき、新しく女性の担任がやってきた。高見先生だったか、赤井先生だったか、名前は思い出せない。だけど、その先生が初めてクラスに立ったとき、こういったことを言っていたのは覚えている。そのときの私には、その意味が分からなかった。いわゆる熱血漢タイプの先生っぽくて、面倒くさいなあという印象だった。
「あなたたちと同じ、4年生のときだったわ。同じクラスの男の子が、カエルを持って教室に入ってきたのね。そのカエルを先生に向かって投げたの。今考えると、軽いちょっかいのつもりだったと思うのね。だけど、そのとき先生、すごく泣いちゃって。その男の子のことが今でも嫌いなわけじゃないけど、そういう出来事があったことは今でも覚えてるの。4年生は、10歳になる年よ。二十歳の半分の、めでたい年なの。だからね、この年は先生と一緒に良い年にしましょう。『これくらいしても大丈夫だろう』じゃなくって、きちんと相手の気持ちになって動きましょうね。そうしたら、きっと良い1年になるはずよ」
この言葉がどのくらいの生徒の心を、どのくらい動かしたのかは分からない。結果的に先生は、クラスの中心的人物と仲良くなって、私はマンツーマンで喋った記憶がほとんどない。だけど、名前すら覚えていないその先生の最初の言葉を32歳になった今でもこうして覚えているんだから、もしかしたら私の心は動かされていたのかもしれない。あのとき意味が分からなかった言葉も、月日を経て分かるようになるということがあるんだと知った。だけど彼女は、その言葉を本当に必要としていた生徒を救えることができたのだろうか―。
最近は晩婚化が進んでいるし、結婚をしないという選択をする人も増えてきた。私にとって、それは救いだったのかもしれない。結婚しない人が増えている割に、結婚しない人を結婚できない人と見る風潮もある。私はどちらかというと結婚できない人に見られるのかもしれない。そういった世間体がウザったかった。内情も知らずに、「負け組」だとか「負け犬の遠吠え」だとか、そうやって言う人もいる。それでも、「私は結婚しないんだ」と強く思うことで、世間体に立ち向かっていける気がした。
32歳で結婚どころか恋人もいない女。それだけなら「私は結婚しないんだ」だけで済むんだけど、私には親しい友人もいない。そして無職だ。実家に住んでいるからなんとかなっているけれど、両親が死んだら私はどうやって生きていけば良いのだろう。その術すらも知らない。
人間は、生きているだけでお金がかかる。紙切れに大きな価値を意味付けしたのは人間だ。人間が滅亡したならば、何千枚もの札束だって無価値になるだろう。その紙切れのために必死で働いて、多くの時間を費やして。紙切れをどのくらい多く持っているか、ということもその人間の付加価値となる。私はその紙切れを生み出すことができない。そういった面において、私は無力だ。そしてそういった人間は得てして迫害される。生きている価値がない、と。
私は死ぬのが怖かった。私が生きている意味などどこにもないのかもしれない。私が生きているだけで、無駄なお金がかかるのだ。両親は私のことをどう思っているのだろう。可哀想?生んだ義務?生きる屍?無駄遣い?もう、どれでも良いのかもしれない。他人に迫害されようと、両親にどう思われようと、死ぬのが怖いのだけは確かだ。私が生きている理由はそこにしかないように思える。
友人も恋人もおらず、家族とも気を許せない私が逃げていた先はSNSだった。パソコンや携帯電話にかじりつく毎日。私の本名も顔も知らない人たちと、ネット上で会話できるのはありがたかった。人間は、あまりにも孤独だと死んでしまうのではないかと思う。私はSNSで本名も顔も知らない人たちと交流をしている。本名も顔も知らないけれど、彼らも生きているという事実があった。彼らがどういう生活をしているのかは分からない。だけど、生きている人たちと交流を持つことで、私は孤独を感じずに済む。リアルな世界で交流を持つことができなくても、ネット上で交流を持つことができる。SNSが普及している時代で良かったと心底思う。私の人間として足りない部分を補ってくれているように感じるのだ。
そして私は、今日もベッドの上で携帯電話とにらめっこを始める。