①
見渡す限り広大な海。視界を遮るものは何もない。そんな大海原にぽつんと一つ、どの国の地図にも載っていない小さな島がある。
航路から大きく外れているため、船に乗る者達ですらこの島の存在を知っている者は、皆無に近い。
周囲を険しい岸壁に囲まれ、さらにコンクリートの壁で護岸整備されたこの島は、まるで海に浮かぶ要塞のようで、崖かコンクリートの壁を登らない限り、この島に上がることはできない。もちろん船を乗り付ける桟橋もない。外部からの接触は皆無というより、外部からの接触を完全に遮断している。
その島の東側には、無機質なコンクリートでできた2階建ての建物が2棟、その屋上にはヘリポートがあり、ここが外部との唯一の窓口となっている。
亜熱帯に属するのか、島には広葉樹の間にシダや椰子の木が見られる。海洋性独特の、ねっとりとした暑さが島全体を覆っていた。だが、可用性亜熱帯の島々らしい独特のゆったりした雰囲気は一切ない。むしろ、何か張り詰めたような異常な緊迫感が漂っていた。
「一番遅い者は、三日間飯抜きだ!それが嫌なら、周りの者を蹴落としてでも、一番を狙え!」
男の大声が崖に当たり、周りに響いた。
この島の西側の岸壁の上に、高さ15mほどもある崖がある。傾斜角度は60度だが、ほとんど垂直のようにそそり立っている。自然にできたこの崖に、最小限のハーケンが埋め込まれるなど人の手が加えられていた。
そこに、20名ほどの人間が登っている。ロッククライミングに必要な命綱や装備を一切持たないで、わずかなくぼみや打ち込まれたハーケンを使って登っていく。その20名はまだ十代とみられる少年少女たち。
誰一人、口を開かない。黙々と、だが、通常では考えられないほどのスピードで登っていく。まるで、はしごをするすると登っているかのようなスピードで。どこに何があるのか、瞬時に見極め、躊躇なく登っていく。協力することもなく、己の肉体のみで上へ上へと登っていく。
それを見ているのは、右手にベレッタを持ち、左手に杖を持って体を支える男ただ一人。強い日差しを遮るもののない場所で、顔の半分を覆い隠すようなサングラスをかけ、男は微動だにせず崖の方へ顔を上げている。顔や腕には無数の傷跡があり、男が平坦な人生を歩んできたわけではないことがうかがえる。
男の声が響くと、少年少女たちは腕に力を込め、更にスピードを上げて登っていく。爪が割れ、指先からは血が出ていても、誰も泣き言を言わない。ただ黙々と崖の頂上を目指していた。
「……くっ!」
上から降ってきた小石が一番小柄な少女の顔面に当たり、少女の体勢が崩れた。つかまっていた石から手が外れ、滑るように落ちていく。でも、誰も気に留めない。
少女はどこに持っていたのか、ロープを投げて、近くの木の枝にひっかけ、地面との激突は免れた。
だが、その少女が木にぶら下がったのとほぼ同時に、崖の上には一人の青年が到達していた。
「よし、一番はNo.2だな。いいだろう。」
男は銃口を木にぶら下がっていた少女に向ける。
パンッと乾いた音が辺りに響いた。瞬間的に身を翻し、少女は木の中に身を隠した。
「最後はNo.5だ。三日間飯抜き。」
ベレッタを腰のホルスターに戻す。と同時に少女が木から降りていた。
何の感情も見えない、淡々とした声で言い放たれ、「No.5」と呼ばれた少女は少しうなだれていた。
頂上に立つNo.2と呼ばれた青年は、喜ぶでもなく無表情なままだ。
他の者はNo.2のこともNo.5のことも気にせず、ただ黙々と崖を登り続けていた。そして、次々と頂上に立つ。だが、誰も達成感を味わうわけでもなく、そのまま崖を降りていった。
島の東側のコンクリートの建物のうち、島の中央よりにある棟を生活棟と呼び、崖を登っていた20数名の少年少女たちはここで生活をしていた。
生活棟の一階はさまざまな講義を受ける教室。二階はベッドと小さなチェストが一つずつある殺風景な小さな部屋がひとりひとりにあり、北側に男子区域、南側に女子区域と分かれていた。
「おなか、すいたな……。」
大きな音で腹の虫が鳴いていた。
No.5はベッドで横向きで丸くなっていた。年の頃は12、3歳くらい。日に焼けて浅黒い肌に、髪の毛を掴んでナイフで一気に切ったザンバラな髪。痩せてはいるものの、日頃の訓練のせいで引き締まった身体をしている。だが、今は空腹のため、身体に生気がなく、みすぼらしく見える。
No.5は、おなかに手を置いた。いつも以上におなかが凹んでいる気がする。
くりくりとした大きな目の横には、昨日の小石が当たったせいで、赤黒いアザが小さくできていた。
昨日言い渡された三日間の飯抜きで、水以外何も口にしていない。しかし、訓練などは免除されていない。
「ちくしょう!ホンダのやつ!いつかぶっ殺してやる!」
怒りの言葉を口にするも、声には力がなかった。代わりに、腹の虫が元気に鳴いていた。
その時、部屋の外に人の気配がした。他人の部屋には立ち入りが許されていない。来るとしたら、教官か、あるいは昨日の男―ホンダ―か。少女は一瞬身体を硬直させた。
「カリン、入るよ。」
控えめな声が部屋の外から聞こえて、ひとりの少女が音も立てず、するりと入ってきた。
「ユイ。」
相手の姿を確認し、身体の緊張を解く。
少女より5歳ほど年上の少女―ユイ―は、赤茶の髪を揺らし、自分の背後に気を配りながら少女に近寄った。
「カリン、今日はこれを食べな。」
ユイと呼ばれた少女が、No.5―カリン―にこぶし大のパンを渡す。
「ユイ!これ、ユイの夕飯じゃ?」
食事は必要最低限の栄養とカロリーしか与えられていない。だから、いつもカリン達はお腹を空かせている。例え小さなパンであっても、他人に分け与えることは並大抵のことではない。しかも、食事時まで監視付きで、和気あいあいとした食事風景ではない。私語は一切禁止。食事時間もかなり短く、ただ栄養を摂取するのみ。もちろん、食事を持ち出すことも監視の目をくぐり抜けなければならない。もとより足りないのだから、余ることもないのだが。
ユイは何も言わず、ただ微笑んでパンをカリンに渡す。
「ユイ。ありがと!」
カリンはユイから受け取ったパンを見ると、一気にかぶりつく。
「っぐ!……!」
胸を拳でどんどんと叩くカリンに、
「ああ、もう!一気に頬張るから!」
背中をさすりながら、チェストの上の水を差し出した。
ひったくるように水を受け取り、一気に飲み干す。
「……っはあ~。死ぬかと思った。」
「大げさだな~。カリンは。」
顔を見合わせて笑う。声は出さないように、笑いを抑えながら。
その時、
『No.19、第7講義室に至急!』
館内放送が入る。ユイの顔色が一気に青ざめた。
「ユイ。まさか、パンのこと、バレたんじゃ。」
「ううん。多分違う。パンじゃない。きっと。」
血の気がひいたまま、カリンに薄く微笑んだ。
「じゃ、行ってくる。」
「……うん。」
大丈夫と聞こうとしてやめた。ユイが無理して笑っている時点で、大丈夫じゃないのは分かっているから。
「ねぇ、カリン。」
ドアノブに手をかけるのを一瞬ためらい、振り返る。
「なに?」
「カリンはそのままでいてね。」
「ユイ?」
ユイの台詞の意味が分からず、カリンは首をかしげた。そんなカリンの仕草に、ユイは泣き出しそうな笑顔を向けて、何か言いかけたカリンを置き去りにドアから出て行った。
「どうしたんだろう、ユイ。」
去り際の様子に不安を抱いたが、確かめることも出来ず、カリンはそのまま黙ってしまった。
ユイが出て行った後、カリンは布団をかぶり、じっとしていた。ユイの去り際の表情が気に掛かり、身動き出来ないでいた。
その時、部屋の外に人の顔気配がして、再びドアがノックされた。
「ユイ?」
「……カリン、僕だ。」
辺りを警戒して声を潜めた男の声。カリンはその声を聞いた瞬間に、かぶっていた布団を跳ね飛ばし、ドアへ駆け寄る。
「エイジ!」
音を立てないように、でも、急いでドアを開けるカリン。
ドアの外にはNo.2―エイジ―が、辺りをうかがうように柱の影に身をひそませて立っていた。
「エイジ。」
音を立てないようにそっとドアを開ける。足音一つたてずにエイジはカリンのいる部屋に滑りこんだ。
カリンよりも7,8歳年上だろうか。少年というより青年と言った方が適切だろう。長身痩躯という言葉がぴったりだった。
「……カリン、大丈夫か?」
「うん。大丈夫。」
心配そうに顔をのぞきこむエイジに、カリンは満面の笑みで答えた。
「やっぱりアザになっちゃったね。」
「大丈夫だよ。痛くないし。」
カリンの顔をじっと見つめ、エイジは唇を噛み締め、カリンの頭をぽんぽんとたたいた。頭をぽんぽんされて喜ぶカリンに、
「おなか、減ってるんじゃないかと思って。」
懐の中から携行食を1箱出して、カリンに手渡した。
「え!エイジ。」
「この前はごめん!」
「エイジ?」
「昨日のクライミング訓練で、小石を落としてしまったのは僕かもしれない!」
「ああ、そんなことか。」
へへっと笑ったカリンに、エイジは長身を小さく折りたたむように頭を下げた。
「ごめん、カリン。」
「もう良いよ。だって」
頭を下げ続けるエイジの髪をぐしゃぐしゃにして
「見つかったら懲罰房行きなのに、危険を冒して食料倉庫に忍びこんで持って来てくれたじゃん。」
再びカリンがへへっと笑うと、エイジはすまなそうに顔を上げて、薄く微笑んだ。
「わざとじゃないんだし、小石を避けれなかった私も悪いんだし。」
耳たぶを触りながらカリンはエイジを見上げた。
「エイジが悪いんじゃないよ。悪いのは……。」
無邪気な微笑みから一変した。
「悪いのは、アイツ!ホンダ!アイツ、いつかぶっ殺してやる!」
憎しみと怒りの形相でドアの向こう、ホンダの部屋がある方向を睨みつけた。
「ああ、ホンダ。……僕も殺してやりたい。」
ゾクリとするほど冷淡な声でエイジも言う。
その時、
ジリリリリ
警戒態勢を伝えるベルが鳴り響いた。瞬間的に二人はドアに近い壁に張り付き、周囲の音を聞く。
「……マ、ママ……!」
遠くから微かに、女の子の泣き叫ぶ声が聞こえる。
足音が二つ、男子区域に向かっている。
エイジとカリンは顔を見合わせた。
「タイミングが悪いな……。」
「うん。」
タイミングが悪い。他の教官達が今、カリンの部屋を開けて、エイジがいることがバレたら、二人共懲罰房行きだ。それで済めばまだマシかもしれない。
「どうしよう……。」
だが考え込んでいる猶予はない。
カリンは意を決してエイジを見る。
「エイジ、私が引き付ける。その隙に部屋を出て。」
「カリン?」
「良い?エイジ。」
「でも……。」
引き止めようするエイジに、カリンはウインクしてみせた。
「大丈夫!私に考えがある。素早さならエイジより自信があるし。それに……。」
「それに?」
「それに、食べ物を持ってきてくれた恩義がある。『一宿一飯の恩義』がね。」
カリンの言葉に、緊迫した状況であるにも関わらず、エイジは吹き出した。言い出したカリンは誰にも止められないのだ。
「分かった。」
小さく微笑み、エイジはカリンの頭をまたぽんぽんとたたいた。
「でも、無理はするなよ。」
無駄と分かっていがらも、言わずにはいられなかった。返事の代わりに、カリンはエイジの胸をポンとたたいて、エイジの脇をするりと抜け、次の瞬間にはドアを開けて部屋を出ていた。
部屋を出ると、まず柱に身体を滑り込ませた。そこから二人の警備が男子区域に向かっていて、こちら側は完全な死角になっていた。カリンは声のする方へ音を立てずに壁伝いに歩いて行く。
「探せ!」
少し離れたところから、大人の男の声がした。瞬時に柱の影に身を潜ませ、カリンはじっと足音を聞いた。ばたばたと走り回る音が聞こえる。
(三人……いや、四人。ツーマンセルで動いているなら二組。)
足音から人数を割り出す。さらに音を聞き分けようと、自分の呼吸を深くゆっくりさせる。
(一組は教官棟の渡り廊下の方へ。もう一組は……食堂の方か。)
足音の反射音から、行き先を推察する。
(でも、そっちじゃないね。恐らく……。)
カリンは渡り廊下へ向かう廊下を反対に走った。その廊下の突き当たりには小さな倉庫がある。泣き声の主はきっとそこにいる。
躊躇わず、カリンは倉庫のドアノブに手をかけ、音を立てないようにゆっくりとドアノブを回す。
ここはいつも鍵が掛かっていない。ドアノブはなんの抵抗もなくゆっくり回った。ゆっくりドアを引き、隙間ができるとカリンはするりと中へ入っていった。
真っ暗闇の中、小さな息遣いが聞こえた。カリンは音を立てず、気配を消して近付いていく。天井は低く、身をかがめて、慎重に歩を進める。
闇の中で、小さな影が身体を震わせているのが分かった。
息遣いがはっきり聞こえるところまで進み、耳を澄ます。反射音から、ちょうどカリンに背を向けているのが分かった。
一気に近付き、声の主を羽交い締めにし、即座に口を塞ぐ。
「!!」
驚きと恐怖で身体がすくんでいたが、次にはパニックになって身体をバタつかせていた。
(7,8歳くらいか……。)
唇を噛み締め、全身の力を使って子どもの動きを封じる。
「シッ!静かに。痛いことはしないから。」
子どもの耳に小声で話す。それでも子どもは何とかカリンから離れようともがく。
「ここで暴れると、外の怖いおじさんたちに痛いことされるよ?いいの?」
カリンの言葉を聞き、急に大人しくなった。
「いい?離れるけれど、暴れたり逃げたら、外のおじさんたちを大声で呼ぶからね。」
小さくコクンと頷いたのを確認して、カリンはようやく身体の拘束を解いた。
「アンタ、日本人ね?私の言っていることが分かるってことは。」
カリンはできるだけ穏やかに、そして低い声でゆっくり聞いた。
「……うん。」
弱々しく答える子どもの声は、今にも泣き出しそうなのを必死で堪えているのが分かった。
「名前は?」
「二ノ宮美優|。」
「そう。ミユね。」
言いながら、幼い少女はカリンの方を向こうとしていた。カリンはその身体を押しとどめ、自分の方を向かせないようにする。
「ここへはどうして?誘拐されたの?それとも、親から売られた?」
カリンの言葉に、少女の身体が小さく震えた。
「拐われたんだね。」
少女がまたコクンと頷いた。
少女の様子に、カリンは唇を噛み、小さく、少女に聞こえないほど小さく舌打ちした。
「学校の帰り道で、急に何かを被せられて……。」
「で、車に乗せられて、急に眠くなって、で、気付いたらここにいた?」
「え?」
少女の言葉を継いだカリンに、少女は驚いたようにカリンの方を向こうとした。と同時に、カリンは少女から背を向ける。
「私も同じ。私は6歳だった。小学校入学式の翌日。学校から帰って、家の近所の公園で遊んでいたときだった。そばには大人もいた。だけど、誰も助けてくれなかった。気付いたときにはここにいた。アンタと同じ。」
カリンの話に、ミユがしくしくと泣き出した。誘拐された時を思い出して恐怖が蘇ったのか、母親を思い出して恋しくなったのか、それとも、同じ境遇のカリンに同情したのか。
ミユが泣いているのを止めなかった。声が外に漏れるほど大きくなかったからだ。
(さて、時間がない。)
カリンは目を瞑り、ゆっくり息を吐いた。心の中で揺らぐ決心を、もう一度立て直す。
カリンはミユの方に向き直った。そしておもむろにミユの口を塞いだ。
「ここにいるのは、アンタと同じか、もしくはもっとひどいかのどちらか。みんな、誘拐されたか、実の親に売られたか。だけど、ここの生活の方がもっとひどい。」
カリンの言葉に、ミユはあからさまに身体を硬直させた。
「逃げたくなっても逃げられない。この島の周囲には船も通らないし、近くに島もない。ここから出られるのは二通りしかない。」
ミユには分からないように、一瞬、奥歯を噛み締めた。
「一つは『出荷』されること。私たちはここでスパイとしても暗殺者としても一流になるよう養成されている。需要があればここを出て、雇用主のために働くことになる。」
幼いミユにどれほど伝わっているか分からない。むしろ伝わっていなくてもいい。しかし、ミユの身体は小刻みに震え出したことからすると、カリンの言葉をかなり理解しているのだろう。
(やはり、ここに連れてこられただけはある。能力の低い者は連れてこられない。常人より能力が高い者だけがここにいるんだから。)
いつかホンダに言われたことを思い出した。『お前たちは選ばれた者だ。』と。選ばれてここで死ぬ思いをさせられているのだ。
「……もう一つは、死を覚悟して、海に飛び込む。周りは見渡す限りの海原で、助けは来ない。99.9%死ぬ。でも、ここの訓練で死ぬよりはるかにマシ。ここでの訓練で死んだ人を私たちは何人も見ている。海で死ぬか、島で死ぬか。死ぬことでここから出られる。」
カリンの手のひらの下で、ミユが息を飲んだ。
「いずれにしても、もうママに会うことはできない!」
思わず、声に力がこもった。ミユに言いながら、自分にも言い聞かせていた。もうママには会えないんだ、二度と。
ミユの口を塞いでいたカリンの手が少し緩んだ。そのタイミングで、ミユはカリンを突き飛ばし、ドアへ向かう。
「いやだ!そんなの!」
ドアノブに手をかけた瞬間、ミユは再びカリンに拘束される。だが、今度は口を塞がず、身体を抱き抱え、倉庫のドアノブを回し、外に出た。
「いやだ、離して!おうちに帰るの!」
泣き叫び、ミユは暴れる。しかしカリンは一言も発せず、真っ直ぐにある場所に向かって行く。
「やだ!離して!ママ!助けて!ママ~!!」
心が張り裂けそうだった。ミユの気持ちはよく分かる。カリンも辿って来た道だった。そして、これからのミユの処遇もよく知っている。
「やだ!やだ!ばかばか!離して!離して!」
カリンの身体のあちこちを殴り蹴り、噛み付き引っ掻きして、なんとかカリンの拘束から離れようとするが、カリンは奥歯を噛み締めたまま、歩を進める。身体の痛みより、心の方が痛かった。
ミユの泣き叫ぶ声が施設中に響き、警備の足音がカリンたちに向かっていた。
(エイジならこの機を逃すはずない。きっとこの機に乗じて戻れているはず!)
それがカリンの望みだった。そのために、ミユに会ったのだ。そして、わざとミユを泣かせているのだ。自分たちに視線を集中させるために。
「No.5!」
警備がようやく追いついた。カリンとミユの姿を認める。ミユは逃げられないことを悟ったのか、カリンの腕の中で急に動かなくなった。
「司令官のところへ行くわ。」
先ほどまでとは違い、流暢な英語だが感情も一切の抑揚もない機械じみたカリンの声。表情も淡々としていた。
「お前ごときがこんな時間に司令官の前に立てると思っているのか?」
若い方の警備が銃口をカリンに向ける。カリンはミユを抱えたまま、その銃口の真正面に立ち、感情の一切見えない瞳を警備に向けた。
「この子を捕まえたのは私。だから、最後まで面倒を見るわ。司令官に送り届けるのが筋でしょ?」
構えた銃口が自分の左胸に当たるよう、更に一歩近付き言い放った。
「っ!この!」
顔を紅潮させ、トリガーにかけている指に力を入れる。涼しい顔をして立っているカリンとは違い、警備の男は顔を真っ赤にして指が震えている。
「そのくらいにしておけ。」
それまで静観していたもう一人が、そっと銃身に手を乗せ、下ろさせた。
「今ここでNo.5を殺したら、お前もただでは済まないぞ。」
その言葉で、若い男は銃を持ったままだらりと腕を下げた。
年上の男はカリンを一瞥して、
「No.5、お前が何を企んでいるのか知らないが、これ以上無茶をするな。俺たちを愚弄したって、何の得にもならん。そうだろ?」
下卑た笑いを含んだ瞳を向けるが、カリンは表情も姿勢も崩さず、じっと若い男を見ていた。
「司令官のところへ行くわ。」
感情の一切ない声で、再度言う。年上の男は肩をすくめて、
「いいだろう。連れて行こう。」
顎をしゃくってカリンを促し、年上の男が先導して行く。カリンはそれに続き、その後に若い男が続いた。
渡り廊下を通り、カリンたちの生活棟とは向かいの教官棟へ向かう。こちら側へはカリン達は入ることを許されていない。カリン自身、こちらの棟に入るのは2度目だ。
棟の外観は同じだが、中の雰囲気は違っていた。英語は元より、中国語、フランス語、アラビア語など様々な言語があちこちから聞こえていた。色んな国のニュースやラジオが流れ、または色んな国の人間と電話で会話しているようだ。
(主に軍の動向の話か。)
聞こえてくる言語は全て理解できていた。話の内容までは聞き取れないが、単語から推察することは容易だった。
話し声やテレビ、ラジオの音などそれぞれは小さいはずだが、普段から小さい音を聞き取る訓練をしているカリンにはなんてことなかった。
カリンに拘束されて引きずられているミユは、声もなくただただ涙を流していた。その涙が時々、カリンの腕を濡らした。その度に、表情には一切出さないものの、カリンの心に染み込み、冷たく暗い影が広がっていた。
一階の廊下を歩いていく。進むにつれて、音がどんどん減っていき、代わりに自分たちの足音が異様に響いていた。
奥に部屋が年上の男はそこで止まった。部屋の前には二人の警備が銃を構え、物々しい雰囲気で立っている。
「止まれ。」
年上の男がこちらを見ずに言う。カリンとミユ、そして後ろの若い男はその指示に従い、黙って立ち止まった。
それを確認した後、年上の男は部屋の前まで行き、
「ホンダ司令官。No.25を連れてきました。」
と、敬礼をして大声で言う。若い男も気を付けの姿勢をとってから敬礼する。
「……入れ。」
低い声が中から聞こえる。その声に、カリンは思わず奥歯を噛み締めた。だが、次の瞬間には能面のような無表情に戻っていた。
年上の男がこちらを見て、目配せをする。それを合図に、カリンは前へ進む。異様な雰囲気に、ミユが小さく悲鳴を上げた。だが、それには一切構わず、腕に力を込めてミユを引きずり、部屋の前へ行く。
部屋の前の警備二人が、ジロジロと上から下までカリンとミユを見る。それからゆっくりと部屋のドアを開けた。
その部屋はさほど広くなかった。殺風景なほど何もなかった。あるのは、部屋の中央に大きな机と大きな椅子。その椅子に深く腰掛けた男がホンダだった。
「No.5.お前か。」
普段はサングラスをかけていて見ることはないが、ホンダの左眉には大きな傷跡がある。その眉を少しだけ上げて、カリンを見ていた。
「脱走したNo.25をNo.5が捕えました。No.5が直接ホンダ司令官に届けたいと申し出ましたので、連れて参りました。」
年上の警備が緊張した面持ちで敬礼をしたまま言う。声が少し震えていた。
「……そうか。」
威圧感のある声に、カリンは小さく喉を鳴らした。肌を焼け付くようなひりひりとした痛みを感じた。周囲の誰もが緊張していた。だが、それを悟られまいと、カリンは必死に無表情に徹していた。
「入れ。」
その声に引っ張られるように、年上の警備がロボットのように前に一歩出て部屋に入った。
「いや、お前はいい。No.5とNo.25だけ入れ。」
視線をカリンから一切離さずホンダが言うと、飛び上がらんばかりに一歩下がり、警備の男は部屋から出て行った。
緊張で喉が張り付きそうだった。カリンは小さく唾を飲み込み、ミユを引きずって部屋へ入った。
「No.5、なぜお前が?」
威圧的なホンダの問いに、一瞬ひるんだが、
「泣き声が聞こえたので。」
と答えた。顔は真正面にホンダを見据えて。
カリンの言葉に、ホンダは小さく鼻で笑った。
「お前がか。」
何かを見透かされているような物言いに、カリンは腕に力を込め、今まで拘束していたミユをホンダに向かって投げるように突き飛ばした。
「ぎゃ!」
突然のことにミユは叫び声をあげ、カリンの背後では警備四人が色めきだつ。部屋の警備をしていた二人は慌てて銃口をカリンに向ける。だが、カリンは無表情のまま、微動だにしなかった。
ミユは声も出なくなり、パニックからひきつけを起こした。口をパクパクさせているミユをうるさそうに見て、
「懲罰房に連れて行け。」
と顎をしゃくり、目でカリン達を連れて来た警備二人に命じた。突然スイッチが入ったかのように二人は慌てて動き出し、ミユを二人で抱き抱え、ばたばたと大きな足音を立ててその場を離れ、廊下を走って行った。
二人が出て行って、ようやくまた静寂が戻り、ホンダはあからさまに「やれやれ」といった表情を浮かべた。
「で、何が目的だ?」
足を組み、大きな椅子にふんぞり返るように座り、ホンダはカリンを見る。口元には薄く笑いを浮かべているが、目は全く笑っていない。
隠しきれず、カリンは喉を鳴らして唾を飲み込んだ。さっきからとめどなく冷や汗が背中を伝っていた。
「そういや、お前も一緒だったな。」
おもむろに話を変え、ホンダは右の口の端を少し上げた。
「は……。」
冷や汗が額に浮かぶ。
「七年前だったか。お前が初めてここに来た日だ。」
カリンの心の動揺を見抜いているのか、にやりと笑いながらホンダが言う。
「お前も、No.25と同じようにここに着いたと同時に逃げ出したよな。」
「っは!」
喉が貼り付いたようになって、絞り出した声はこれが精一杯だった。
「お前はなかなか見つからず、四日位隠れていたんだったけな。」
「はっ!」
「お前、四日もどこにいたんだ?あの時。」
口元の笑みを一瞬で消し、詰問するような鋭い声で、だがゆっくりとカリンに問う。
ゴクリと喉を鳴らした後、
「生活棟二階の奥の倉庫です。あそこは鍵が掛かっていないし、狭いし、天井が低いので子どもなら簡単に隠れることができたので。」
「ほう。」
ホンダがまたにやりと笑う。額の冷や汗が止まらず、顔に流れた。だが、身体を動かすことも出来ず、カリンは流れるままにしていた。
「警備が来て探しましたが、物陰に潜んでいたので見つからず、そのまま……。」
「で、腹が減って食い物を探して出てきたところを見つかったわけか。」
「はっ!」
くっくっと笑いながら可笑しそうにホンダが言う。だがカリンは、蛇に睨まれた蛙のように全く動くことが出来なかった。
「No.25も同じところに?」
「はい!」
汗がぽたりと床に落ちた。背中はびしょびしょになっていた。口内はカラカラだった。
「お前だからNo.25を見つけられたと、そういうことか?」
ギロリと鋭い眼光を向けてカリンを見つめるホンダに、カリンは口を開く。でも、声が出なかった。口を閉じ、無理やり唾を作って飲み込み、搾り出すように返事をした。
「それで?お前は何が望みだ?」
再度聞くホンダに、
「いえ……、何も……。」
これが精一杯だった。
ホンダはカリンを見て、フンと鼻を鳴らした。そしてにやりとまた笑った。
「そういや、No.5、お前は飯抜きだったな。今日の働きに免じて、取り消してやろう。」
「あ……ありがとうございます。」
敬礼してカリンは礼を言う。
「もういい。戻れ。」
「はい!」
再度敬礼してから、カリンは踵を返して部屋を出よう歩き出した。あと少しで部屋を出るというところになって、
「No.25も、お前と同じように懲罰房だ。あの、な。」
意味ありげにホンダの言葉がカリンの背中に刺さった。だが、カリンは歩みを止めず、ホンダの言葉にも答えず、そのまま部屋を後にした。
カリンが部屋を出た途端、警備の二人がドアを締め、そのままカリンを先導した。
カリンは俯いて歩いた。
ここへ来た目的は、騒ぎを起こしてエイジを逃がすためと、もう一つの目的もあった。だが、その両方をホンダに見透かされているような不安で身体が震えそうだった。
(これがバレたら、懲罰房ではすまない。あの懲罰房ですら生易しいものになる。)
拳を強く握り締めた。懲罰房の恐怖も蘇ってきた。七年前のあの恐怖が。
窓一つなく暗い部屋。かなり狭くて横になることもできない。寝るときは足を抱えて座って寝なくてはならず、眠りは浅くなる。外の音も遮断されている。自分の呼吸音が大きく響くように聞こえ、やがて身体を動かす筋肉の音まで聞こえるようにまでなる。発狂する寸前まで閉じ込められたあの懲罰房。
その懲罰房へミユを送り込んだ。自分が見つけなくても恐らく懲罰房行きだっただろうが、カリンはミユを死刑執行の判を押したような気分にもなっていた。
警備に前後を挟まれたまま、自室まで連れてこられ、カリンは無言でドアを開け、中へ入る。案の定、エイジの姿はなかった。
後ろ手でドアを閉めると、そのままズルズルとその場に力なく座り込んだ。
ただ涙が溢れ、こぼれていった。
目的のために、自分と同じ境遇の幼い子を利用した。自分の分身とも言えるあの子に。
カリンにとって、エイジが無事に自室に戻っていることだけが唯一の救いだった。