なべの底と孤独について2
町の裏通りにある「綾糸」という飲み屋と携帯ショップにはさまれてサラの店はある。
「ねえ、先月の言葉、あれは本気なの?」
サラは言った。宝石のちりばめられた指輪を頬のくぼみにうずめながら、カウンターに片肘をついて。
店内に客はいなかった。それもそのはずで、サラの店にはカウンターしかない。
まるで新築したばかりの店のようだ。しかし、サラの店は少なくとも十年前から存在する。お金と物を交換するような、単純な店ではないのだ。
「最近視力が下がってきた。いずれミスをするのは目に見えている。そうなる前に終っておきたい」
私はパキラの下の拳銃をサラに差し出した。サラは一瞬目を見開かせたが、すぐに平生落ち着いた。
「いいえ。それはまだあなたが持つべきなのよ。少なくともほとぼりが冷めるまでは。今度来た時には必ず受け取るから。ねえ、もう、一度だって仕事はしないつもり? そう。でも、もったいないわね。あなたほど信頼のおける人はいなかったのに」
サラは残念そうにため息をついた。良質な人材が慢性的に不足しているのだ。私は拳銃を袖に戻した。
「そういってもらえるだけありがたい」
私が不器用な、曲がりなりの笑顔を見せると、じゃああなたはこれから奥さんと幸せに平和に暮らすことになるのね、とサラは物悲しそうな顔をした。
「そうなればいいと思っている」
「あなたにできるかしら。平和とは対極の位置に存在したあなたが」
「対極に位置するからこそ、平和については誰よりも精通しておこうと努力はしていた」
「あなたのいいそうなことだわね」
サラはお手上げという感じだった。
「なあサラ、私の中には何があるだろうか」
私は尋ねてみた。君にしかこんなことを聞けるような相手はいないんだ、と一言添えて。
サラは笑った。
「あなたの中に何があるかですって? 冗談を言わないでよ。あらごめんなさい、でも、それは私が責められうるべき指摘じゃないはずね。だってあなたこそが、私は空っぽなんですって、ご自身で暴露し続けてきたんじゃないですか」
「そうだったかもしれない。そして、それは、今現在も変わってはいないものだろうか」
「人間、部屋を移動するだけでは別の人格になれないものよ。あなたそんなこともしらなくって?」
私はうなずいた。サラはタバコに一本火をつけて、ガマのような大きな口にくわえた。
「でもいいじゃありませんか、自分の中になにがあろうとなにも無かろうと、あなたはあなたですもの」
サラが大きく吐息をつくと、煙草の煙はサラの店の換気扇に飲み込まれていった。
「そんな陳腐な台詞は聞き飽きた」
「陳腐だろうと、テクニカルだろうと、変わりようのないものなのだから仕方がないわ。もしあなたが何かを求めようとしているのなら、まずは私から始めなさいよ」
ニイとサラは笑った。気の聞いた冗談を言うのが好きなのだ。
「考えとこう」
私はサラとサラの店を後にした。一つの命題を残したまま。
帰ると妻の気配はなかった。息子はアニメを見終えて、ソファの上で寝息を立てていた。
私はキッチンに行って、何か適当なものを作ろうと思いたった。
キッチンは妻の丹精こめた掃除によって整理され、すみずみまで清潔に保たれていた。
片付けられた食器や調理器具の中に、昨日の献立のカレーに使用された深底なべの姿を見つけた。とってがパステルカラーの黄色の、真鍮製の立派ななべだった。
なべにはカレーのわずかなにおいすら見つけることができなかった。これを友人に見せ、きのうは大根の煮物をした、といったとしても、うまく騙し通すことができるだろう。
もっとも、夕食のメニューをごまかさなければいけない状況など極めて稀有なものだが。
私は一つ息をついてから再びなべを眺めてみた。なべの底は光り輝いていた。その輝きはキレイだった。
なにかがただ光っているだけのことで「キレイだ」なんて感想を得たのは初めての快挙かもしれない。おそらく。
昔、なべについての詩をサラからサラの店で聞かされたことがある。
サラの店は、言ってしまえば言葉を切り売りする商いをしているので、その類については腐るほど取り揃えてあるらしい。
私は最後まで耳を傾けただけのことで、別段、覚えようと意識していたわけでもない。
それなのにも関わらず、どういうわけか、妻のなべを見た瞬間、私はその詩を一字一句間違えることなく思い出すことができた。
サラの言葉には、そういう魔力のようなものが働いている。
夜の更けたころなべは洗われてしまう
洗剤泡たて
底の細かなしみまでキレイさっぱりと
彼には過去がある
冷たい肌にも思い返す権利のある列記とした過去が
ジャガイモとにんじんがこすれあった日のこと
ネギを味噌で包みこんだ日のこと
すべてが洗い流されてしまっている
なべのそこには孤独が積もる
私には何ができただろうか
私は一体何をあたためられただろうか
白い布巾の上で逆さになって
なべは泥のようなやんわりした思いを馳せる
「それでもまだなべはいい」
私は思う。いかほど孤独を抱えようと、いかほど感情を冷めさせられようと、彼の過去は本物だった。
野菜や肉類をあたためた厳然たる事実を持っている。
細い一本道を闊歩してきた私にとって、その種の事実性を手にすることはできなかった。
「これで私とあなたとの間に楔が打たれたわ」
詩を諳んじた後、サラはいった。私がこの詩を思い出したということは、サラとの楔が途切れていないということだ。おそらく。
私は妻のなべを使ってポトフを作ることにした。
沸騰した湯の中に輪切りにした人参と、湯剥きしたトマトを入れる。玉ねぎを丸ごと一玉いれ、あく抜きをして一口大に切った茄子を入れる。コンソメキューブを二つ入れ、上からキャベツでふたをする。あとは獲物を待ち構えるように身を時間に任すだけ。一つの命題のように。
私の抱える問題はごたごたしていて、手を加えることが難しい。いまさら取り返しのつかないことだっていくつかある。
けれども私は妻のことが好きなのだ。息子のことだって大好きだ。
息子が世界を救ってきたというならば、ありったけの感謝をささげよう。妻が包み隠さず話をしてほしいなら、私は秘密を打ち明けよう。
それほどほめられた私ではないけれど、ものごとが悲観から始まるようにつくられたわけではないはずだ。決して。
この後を戦闘シーンなど入れられるといいのにな、と思います。




