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かなり前に書いたもんです。まだまだ、書きたい意欲が制御できてなくて、あれもこれもで詰め込んである感じです。特に、薀蓄部分。

 都会から、程よく離れた田舎街にある、私が管理人になったそのアパートは、少々変わった環境にありました。目の前に小学校と中学校とが並んであるのです。人と自転車としか通れない、交通規制の敷かれた大き目の道路を挟んで、学校が並んでいる。土地に困らない田舎ならではの街づくりで、面白いなとは思うのですが、お陰で少しばっかりこの辺りは騒がしかったりもします。やや小学校よりの位置に建てられている私のアパートの目の前には、小学校の校庭があり、平日の日中ですと、元気にはしゃぐ子供たちの姿が軒先から見えたりもします。

 私のアパートにも小学生は住んでいて、アパートの庭から垣根を越え、フェンスをよじ登り、直接学校に登下校するイタズラ小僧なんかもいたりしました。そんな小学生達の中には妙に人懐っこい子達もいて、顔を合わせる内に気心が知れるようになり、少なからず私は交流を持つようになったのです。そうして交流を持つと、何しろ学校の近くなものですから、友達になった子供達は、他の子供達も連れて来ます。それで、私と子供達との交流の輪はますます広がっていったのでした。

 子供達は時々、私の部屋を訪れました。私の部屋には、漫画なんかの他にも子供が読むにはやや難しい本がたくさん置いてあるのですが、子供達はそういった本を見つけるとパラパラとめくっては、好奇心にまかせて私に様々な質問をしてきました。一体、どういった意味なのか?と。私はそれを尋ねられる度に、一応は子供が納得するまでそれを説明していたのです。そして、そんな事が続く内、何を勘違いされたのか、いつの間にかに私は、近所の物知りおばさんで通るようになっていました。きっと、子供達が家に帰ってから私の話をしていたのだと思います。

 そんな経緯もあってか、ついでに教えてもらうから、という理由で子供達は私の部屋で宿題をやるようになりました。元々、子供達の溜まり場の一つにはなっていたので、不自然な流れではありません。親達も、勉強をするのですから、それを止める訳にもいかず、初めのうちは申し訳なさそうに、徐々に積極的に子供達を私にお願いするようになっていきました。私にとってはどうでもいい事だし、別に自慢する訳じゃありませんが、子供達の成績が上がっていったのだそうです。いえ、すいません。正直に告白するなら、少しは嬉しくもありましたが。

 そんな感じで、私の家は小さな塾のような様相を呈してきたのです。と言っても、私が普通に教える以外にやったのはただ一つ、子供達の勉強への抵抗心をなるべく減らす事のみだったのですが。なるべく叱らないで、色々な話をしてやるんですね。その勉強がどんな風な経緯で生まれて、どんな風に社会で使われているのか。できるだけ興味を抱かせるように。テストで良い点数を取る為の勉強なんて私は教えませんでした。はっきり言うと、嫌いなんです。テストの成績を重要視し過ぎる体制って。競い合わせて、無理矢理に勉強をさせる。意図は分かりますけども、そんなモノの効果は限定的ですし、デメリットもかなり大きい。勝ち負けを意識し過ぎて、子供が勉強を嫌いになったりしますし、点数を重要視するばかりに、本質的な学習の価値が失われて、勉強がただただテストの為だけのものになってしまったりもする。これじゃ、本末転倒です。多くの子供達は、いえ、大人もでしょうか。勉強が実質的に役に立つものである事を知りません。私にはそれがとても不毛に思えるのです。

 塾はしばらくは無料で続けました。いえ、テスト至上主義の教育に反感を抱いている私が、良い成績を取る事を目的にしている親達からお金を貰うのはどうかと思って、断り続けていたのです。その所為もあってか、私の塾には多くの子供達が集まって来るようになりました。ですが、その内、有料で塾を経営している方達から苦情を言われるようになってしまって、結局は、私は塾を有料化したのです。有料化して、正式に塾としてスタートするとなると、やはりある程度はきちんと制度を整えなければなりません。それまでの様に、無計画に子供たちを受け入れ、時間帯も人数も滅茶苦茶な状態を続ける訳にはいかなかったのです。

 そこで私は教える曜日と人数を決める事にしました。人数制限はできるならしたくなかったのですが、能力的にも物理的にも限界があります。なにより、お金を払ってもらっているのだから、後から「教える事はできませんでした」、じゃ済まないでしょう。

 一度に教える事のできる人数は、私の部屋では十人が限度でした。生徒は全員で、三十人程に決まったので、私はこんな感じで生徒たちを分けました。一回の授業は十人。週二日で、月火、水木、金土、と分けて行う。初めの内は、その曜日に誰が来るのかその割り振りはいい加減に決めていたのですが、その内、それじゃ問題がある事に気が付きました。子供達にも社会があったのです。つまり、仲の良いグループの集まりが。何も考えずに決めていたのでは、何処かに孤立する子供が出来てしまうのでした。子供達のその小社会は、ちょうど良く十人前後で分かれていましたから、人数に少々の融通を効かせるのなら、グループ単位で分ける事も可能だったのですが、私は敢えてそれをしませんでした。各曜日に、大体、均等にそれぞれのグループの子供たちを配置し、それぞれの社会、“文化”を混ぜたのです。理由は……、少し不謹慎なのですが、違う文化と接する事によって、子供達にどういった影響が出るのか、それを観察してみたくなったからです。

 観察といっても、私がなんとなく見ているだけですから、そんなにきちんとしたものでもなかったのですが、それでも私はある日に、子供達が妙な口論をしている事に気が付きました。それは、お化け……、妖怪に関する言い争い。近所に、ちょっとした地主さんが住んでいるのですが、その地主さんの土地内、――子供達にとってはどうやら公共の遊び場――、に正体不明の祠のようなものがあるのです。その祠の中には、可愛い日本人形が祀ってあって、“さと様”とそう呼ばれています。子供達の小社会のそれぞれでは、どうやら、そのさと様が何者であるのか決まっていて、そして、その相違がどうやらこの口論の原因であるようでした。

 理由があって証拠がある。だから、これはこうでこうなんだ…… というような、いわゆる、理論的な話し合いなどする能力のない子供達のする口論ですから、それはどうしても水掛け論的なものになってしまって、うまく纏まるような様子は一向にありませんでした。ある子供達は、さと様を夜中に動き出しては髪の毛を伸ばして人を捕らえる妖怪だと言いました。だから、祠に封じ込めてあるのだ、と。ある子供達の言うのはまるで逆で、さと様は人間を助けてくれる神様で、皆の身を護る為に祀られている事になっています。お互いがそれらを強く主張するだけで、子供達は歩み寄る気配を見せません。そして、それに共鳴するように、子供達の小社会もうまく結び付こうとはしないのです。その様子を受けて、面白いな、と私はそう思いました。他愛のない子供の喧嘩だとバカにはできません。現実に、大人の社会でだって、似たような事は実際に起こっているのです。実に些細な事柄を、大人達が真剣になって議論している。宗教がそこに絡んだ場合は、特に根深い問題になっているのじゃないでしょうか。文化と文化の衝突。それによって起こる葛藤…… とでも、表現するべきかもしれません。

 この問題は、或いは時間が経てば、自然と解決に向かうのかもしれませんが、なんとなく、私はその子供達の間で起こっている現象に手を加えてみたくなったのでした。


 ……勉強に対する抵抗心をできるだけ減らそうと思っても、やっぱり遊びたい盛りの子供達ですから、勉強嫌いは中々直りません。それで、不本意ながら私は、勉強をさせる為にこんな方法を執るのです。簡単な方法ですが、効果はあります。それは、問題を何題か出し、全問正解するまで解放をしない。すると、子供達は解放されたがって、嫌でも必死に問題を解きます。カンニングについては無法地帯ですが、報告の時に答えの理由を私が質問して、正しくなければ同じタイプの別の問題を出すので無意味です。もちろん、間違っていれば教えてやるし、ヒントだって出すので、それほど長くはかからないのですが。

 この時間帯は、初めの内は緊張感に包まれているのですが、何人かが全問正解し、帰る準備をし始めると少しずつ緩んだ雰囲気になってきて、やがてはお喋りなんかも始まります。別に厳格に授業をする気はないし、こういう感じは嫌いじゃないので、私はその雰囲気に便乗して、お茶の準備をしたりなんかする時もあるのです。すると、流れによっては、みんな帰ろうとしないでしばらく遊んでいく事もあるのですが、そんな時にタイミングを見計らって私は、お話をするのです。そして、子供達が“さと様”の事で議論していたその頃は、主にこんなお話をしました。その昔、私が塾を始める前、近所に住んでいるお爺ちゃんから聞いたさと様に関する昔話。もちろん、子供達の社会に影響を与えるのを目的にして。

 ――さと様。

 子供達の小文化。それぞれで囁かれているさと様の噂話。たくさんあって話のスタイルも様々なのに、一つだけ共通している事があります。それは“さと様”という名前。どうして、そんな事が起こるのかというと、答えは簡単で、日本人形の台座に名前が書いてあるから。『さと』と。

 正直に言うのなら、そのお爺ちゃんが話してくれた昔話が本当であるのかどうかはまるで分かりません。そのお爺ちゃんも聞いた話なんだそうです。ですから、途絶えそうになっている地元の話…… という事になるかもしれませんが、別の人が同じ話をしているのを聞いた訳じゃありませんから、それも分かりません。子供達が勝手に様々な“さと様”を作り出してしまったのと同じ様に、誰かが勝手に“さと様”の物語を作って、それをお爺ちゃんが聞いただけ、という可能性もあるでしょう。それに、そのお爺ちゃんの昔話はただの昔話じゃなかったのです。何というのか、それは、昔話の裏話でした……。


 (さと様の昔話)


 ――その少年がさと様に会ったのは、地元の大農家の裏庭に迷い込んだ時の事だった。未踏の場所の未知にかられた好奇心を抑えきれず、つい足を踏み入れてしまったその場所で、少年は赤い綺麗なベベを着た可愛い少女に出会ったのだ。

 大農家の大きな庭は、少年にとって別世界だった。その別世界で見た少女の姿は、少年に鮮烈な印象を与えた。少年には、それが人間だとは思えなかったのだ。だから少年は、仲間の子供達にその事を話した。大農家の庭で、子供の姿をした神様を見た、と。

 土地で有名だったその大農家は、近年になってますます大きくなっていた。何故か、領主から優遇される立場にあったのだ。もちろん、妬まれもしたがその白い目を抑える手段を大農家は心得てもいた。他の農家にも、少しずつだが利益を分配していたのだ。祭りの時に酒や飯を用意したり、村の生活の為に井戸を掘ったり、と。しかし、それでも人々の妬みを完全に抑えきれる訳ではない。称賛の言葉は、日が当たらなくなれば容易に陰口に変わる。何かしらの嫌味は必ず吐かれる事になる。そして、そんな状況で、少年が、大農家の家で、まるで神様のような少女を見たという噂が流れたのである。大人の耳にまでそれが届けば、直ぐに大農家の出世と結び付いた。その少女は、大農家の守り神に違いない、と。その神様がいるお陰で、大農家は出世しているのだ、と。それが、カタチを変えた悪口だった事は言うまでもない。だが、強かな大農家は、悪口と分かっていながらもそれを利用した。自分の家には、その話の通りに守り神がいると認めてしまったのだ。そして、その守り神が自分の家ばかりではなく皆の暮らしをも護っていると吹聴した。

 ――さと。

 その守り神の名はさとというのだ、と大農家は村人達に語った。そして、実を言うのなら、その話の半分はある意味では、本当の事だったのだった。


 「――嘘じゃない」


 もちろん、もっと易しく噛み砕いて、ですが、私はそんな話を少しずつ子供達に語っていました。当然、子供達は自分達の間で語られている“さと様”と違っている事に気付き、戸惑います。ですが、敢えて私は子供達の間での“さと様”を否定しませんでした。あなた達の中の“さと様”だって本当なのよ、大切にしない。とそう諭したのです。子供達はそれを聞いて不思議そうな顔をしていましたが、或いは何年後かに、私の言葉の意味に気付いてくれるかもしれない、と思って私はそれを放っておいています。ですが、

 「嘘じゃない」

 ここに一人、それに納得をしてないのがいたりしたのでした。普段は優等生然として感情を滅多に表に出さない娘なのですが、私の前だと遠慮がありません。因みに、彼女は小学生じゃなくて、中学生です。私の塾がまだ正式には塾じゃなかった頃に、アパートに住んでいる他の中学生に連れられて、私を訪ねて来たのです。その時に、彼女はテストを要求してきました。「評判を聞いて、是非とも先生のテストを(“先生”ときた)受けてみたいと思いまして」、と。因みに、その時はとっても礼儀正しい感じでしたが、それでもその裏にある挑戦的な態度は、隠せてはいませんでした。それで、私はちょっとしたイタズラをやる事にしたのです。それは、数学のテストだったのですが、普通に問題を出しても、簡単に解いてしまいそうだったので、こんな問題も付けたのです。

 “この数学が、社会のどんな分野でどんなふうに役に立っているかを述べよ”

 この優等生は、この問題だけは満足に答えられませんでした。因みに、少し考えれば予想ができる範囲の事ではあったはずです。答えられないのはおかしい。抽象概念である数学を抽象概念として学んでいるだけでは、その昔、裕福な立場にいる人間の道楽、或いは好事家の趣味だった頃の数学と、認識はあまり変わらないのかもしれません。いえ、もちろん、彼女一人でそうと決め付けてしまう訳にはいかないのですが。

 そして、その時にその問題に答えられなかったのが、よほど悔しかったのか、その後でこの娘は直ぐに正体を現したのです。

 「こんなの、数学の問題じゃないわ!」

 感情を露にしてそう言いました。

 礼儀正しく大人しそうなその娘の、そんな豹変振りを見て、私はおやおや、とそう思いました。予想通りに我の強い子みたいです。面白い。

 私はそれを受けるとこう答えました。

 「そう? じゃ、なんの問題なの?」

 「社会科なんじゃないですか?」

 「社会科なんだ。社会だと、文系になるわよね。でもね、あなたは中学生だからまだだと思うけど、高校になったら文系と理系に分かれるのよ。で、文系では習わない理系の科目もある訳でしょう? それなのに、文系だけでそれが何処で役に立っているのか教えて意味があると思う? それに、逆に、それが教えられる理系では何処で役に立っているのか教えない事になるわよね。場合によっては」

 それを聞くと、彼女はちょっと止まりました。彼女が答えないでいるので、私は続けて喋ります。

 「もちろん、全く意味がない訳でもないでしょうけども、でも、教えるのと同時にどういう活用方法をされているのか、或いはどういう活用方法ができるのか、その可能性を教えておく事はとっても価値があると私は思うわよ。それこそ、テストに問題として出してもおかしくないくらいに。

 ……勉強が役に立たないってよく聞く言葉だけど、実際はそんな事はないの。それに、発想も少し間違ってる。役に立たない、じゃなくて、積極的に役立たせるものよ、学問っていうものは。自分から活用しなくちゃ、役に立たないのは当たり前でしょう?」

 ……微分積分という数学の分野があります。金融、建築、宇宙開発、農学と、様々な分野で応用されていて、これがなくなれば明日から社会が動かなくなるくらいに重要な概念なのに、それを学んでいる高校生は、その事を知らなくてただの傾きと面積で、全く役に立たないと認識していたりする。つまり、学問から“実”が抜け落ちてしまっているのです。これは、どう考えても問題だと思うのですが、どうやら、世間では問題だと認識している人すら稀のようです。

 その時、この娘はそれからむっすりとした顔でそのまま帰ってしまいました。それで、もう二度と来ないかな?と私は思っていたのですが、何でかそれからも時々顔を出し、無償で私の塾の手伝いをしてくれたりなんかするようになったのです。悪いとも思ったのですが、どうも、彼女なりに色々と考えたみたいなので、私は有難く手伝ってもらう事にしました。

 そんな経緯で彼女は子供達と一緒にいる事も多いのですが、ある日、『さと様』の話を私が子供達に語った後で、自分達の『さと様』も大切にした方がいい、と私が述べると、子供達が帰った後で、彼女は私に向かって「嘘じゃない」と、そう言ったのでした。

 「どうして、そんな嘘を、子供達が大切にした方がいいのか、訳が分からないわ」

 ぶっきらぼうな口調。

 因みに、この娘の他の人がいる時と、いない時の態度のギャップを私は少し気に入ってたりします。面白い… というよりも、なんだか可愛くて。

 私はそれを聞くと、彼女にこう言いました。

 「あら? 嘘に価値がないとは限らない、と私は思うけど」

 それを受けると、少し悔しそうな、でも何かを期待しているような顔をして、彼女は私を見ます。こういう会話の時、大体はそんな表情をこの娘は見せるのです。

 例えば?

 無言で、その目は私にそう問い掛けていました。

 「例えば、法律ってあるわよね。何かしらのルールとか。そういうのって、嘘だと言っちゃえば嘘だと思うわよ。だって、自然の法則でそんなものないもの。でも、役に立っているし、だから、価値があるわ」

 「それ、話がちょっと違うのじゃないの? 嘘だとか、そういう話じゃないわ」

 私は彼女の返答が予想通りだったので、それを聞くとニッコリと笑いました。

 「そうね。話が違う。でも、子供達の噂話だって、もしかしたら、その話が違うのと同類のものかもしれないわよ」

 答えを言ってしまうのならば、これは自然科学的思考と社会科学的思考との違いのお話なのです。自然科学においては、その基準は人間が決定できる範囲の外にある。だから、事実かどうかが重要になってきます。つまり、この話では嘘かどうか、という事が。ところが、社会科学的に考えると、少々事情が異なってきて、ルールを決定している基準は人間自身が持っているのです。だから、嘘かどうかなんて議論に大して意味はない。そして、どんな影響をそれが人間に与えているか、が重要になってくるのです。

 彼女は、この点を考えていません。自然科学的思考の基準で、社会的事柄を考えようとしてしまっている。

 「子供達の噂話。怪談は嘘かもしれない。でも、その嘘が何かしらの役に立っていたら、それには意味があるし、価値があるとしてもいいのじゃない? この場合の“役に立つ”は広い意味で捉えて欲しいのだけど、ね。法律が役に立つからこそ、ルールとして設定されているのと同じ様に」

 私がそれだけを言い終えても、彼女はまだ納得をしていないようでした。

 「でも、やっぱり違う気がする」

 ちょっと自信がなさそうにして、そんな事を言います。だから、私は続けてこんな話を聞かせてみる事にしたのでした。

 「自然科学が成立したのが、どれくらいの時期だと言われているのかって知ってる?」

 突然のその私の言葉に、彼女はやや驚いたような顔をしました。

 「知らないけど」

 「なんと、20世紀の初頭。少しビックリするわよね。科学って誕生して間もない分野だったのよ、実は。もちろん、その前にも自然科学って言葉はあったのだけど、それは哲学と大差のない意味で使われていたの。因みに、ニュートンは、自然哲学って言葉を使っているわ。自然科学って概念がなかったからだけど。今の概念で捉えると、ガリレオとかそういう人達って科学者ってなるのかもしれないけど、当時の基準だとそういう概念がないから、ただ単に学者ってなるのかもしれない。

 因みに、自然科学が成立をするのには、社会的な位置が重要だったらしいわ。それが実質的に役に立つもので、そして公表されるようになって、初めてそこに自然科学というモノが存在できるようになった。当たり前だけど、誰かお金を支払う人がいなければ、社会で職業としては成り立たないから、当然と言えば当然かもしれないけど……」

 そこまでを聞いて、彼女は私の長話に口を挟みました。

 「で、結局、何が言いたいの?」

 突然に自然科学の話をし始めたからには、話し始めたそれなりの理由があるはずだ、とどうも彼女はそう考えたようでした。ならば、さっさとその結論を言え、と。つまりはそう言っているようです。身も蓋もない娘ですが、手間がかからないので楽ではあります。

 「……今までに授業でたくさん、自然科学を学んできたと思うけど、実はね、その習ってきた内容の多くは、覆されているわ。正確には間違っている事が証明されている。つまり、嘘と言っちゃえば嘘なのよね。でも、未だに教えられている。もちろん、それにはステップアップって意味もあるのだけど、それだけじゃない。それは、そのままでも役に立つから。ニュートンの物理学は、アインシュタインの相対性理論の登場で否定された。でも、現実社会では役に立ってるから、それを学ぶ必要性も重要性もあるのよ。例え嘘でもね。これと同じ話は数学でも言えるわよ。不完全性定理って知ってる? 数学が完全である限り、絶対に矛盾がある事を証明してしまった…… つまり、数学が不完全である事を証明してしまった定理なのだけど、それが分かった後でも、数学の重要性が消えてなくなった訳じゃないの。だから数学は、不完全である事を証明された後も教えられているし、利用され続けてもいる……」

 ブスッとした顔で、そこまでを聞くと彼女は言いました。

 「分かったわよ、分かった。つまり、嘘かどうかに価値があるのじゃないって事が言いたいのでしょう?」

 「そうそう。理論でも何でも、社会上に昇っちゃえば事実かどうかよりも、その機能の方に意味が出てくるのよね」

 「機能ねぇ…」

 それから、彼女は頬杖をつくとこう言って来ました。

 「でも、そんな怪談なんかを大切にする事に機能的な意味が本当にあるの?」

 それを聞くと、私は静かにこう言いました。

 「……“文化相対主義”って知ってる?」

 「知らないけど」

 まだ、不機嫌そうにしている彼女に笑顔を送ってから、私は続けます。

 「言葉は知らなくても、考え方自体は普通に言われているから、多分、知ってると思うわよ。“多文化主義”でもいいけど、漢字から分かる通り、絶対的な文化は存在しなくて、文化はそれぞれで価値があるって考え方の事ね。

 自国の文化の絶対性を主張して、他の文化を否定したファシストに対する反省から定着したこの考え方が、今の世界の標準になっているわ。つまりは、それぞれの文化を、それぞれ認めようって話ね」

 私が言い終わると、彼女はやはり不服そうにしながらも、こう言いました。

 「つまり、子供の怪談も、伝わって来た古くからの昔話も等価だって事がいいたいの?

 絶対的な文化はない。それぞれ、同じ価値の文化だって」

 「等価… としてしまっていいかどうかは分からないし、そもそも、価値を比べるって発想では扱えないかもしれない。何かを比べるには基準がなくちゃ無理だから。でも、少なくとも、自分達が育んだそれを、無闇に否定する事はない、とは言えると思うわよ。もしかしたら、そこには何かしらの意味があるのかもしれないし、否定しない事、それ自体に機能的な重要性がある。

 ……それに、そう捉える事によって、文化相対主義の考え方を、知るだけじゃなくて学べるようにも思うし」

 「ふーん……」

 聴き終わると、やはり不機嫌な表情のままで彼女は考え始めました。面白い子です。物事を、浅はかに結論出してはいけない事を知っている。ちょっと素直じゃないけど、根が真面目なのでしょう。納得がいくまで、考えてしまう性分のようです。

 「……文化の機能って、ね」

 考えている彼女の上に、更に被せるようにして私は言いました。

 「安易に判断してしまっていいかどうか分からないものが多いのよ。天狗や河童なんて、どう重要なのか分からないって思うかもしれないけど、でも、そういったものが全くない世界を想像してみると、なんだか不安になったりしない?

 そういうものの背景には、何があって、どういう経緯で生み出されてきたのか。そして、そもそもの、そういったものの本当の正体は何のか? そういうのを考えてみるのも、ちょっと面白いと思うわよ。文化と文化の、境界線ギリギリの相互影響が、そういったものを形成してたりもしている。文化相対主義なんかなかった時代に、異文化に接した人々の反応、とかね」


 (さと様の昔話)


 ――さと様を求めて大農家の家に村人達が集まっていた。理由は簡単である。日照りが続き、不作、しかも領主からの年貢の取り立ても厳しくなっていたからだ。そして、貧窮に耐えかねた村人達が求めたのが、自分達を護ってくれているという大農家の“さと様”だったのだ。

 いや。

 その説明は、半分しか当たってはいないのかもしれない。村人達の全てが、本当に“さと様”を信じ、そして求めていたのかどうかは分からない。村人達が助けを求めていた相手は本当は、大農家自身だったのかもしれない。それが“さと様”というカタチに化けて、噴出していただけなのかもしれない。

 大農家は、祠を建て、そこにさと様を祀る事によって、村人達をなんとか安心させた。だが、本当のさと様は既にいなかったのだ。さと様は死んでいた。しかも、殺されてしまっていた。さと様を殺したのは、他でもない大農家自身だった。

 ――少年。

 さと様を見たあの少年は、その後も、さと様…… 綺麗なべべを着た少女と会っていた。あの日の体験が忘れられなかった少年は、大農家の庭にそれから何度も忍び込んで、そして、少女に会っていたのだ。少女は神様などではなかった。少女は人間の娘だった。そして、その娘の名前は、さと、といった。

 娘は少年に語った。自分は、大農家の娘ではない事。どこか、別の、偉い誰かの娘である事。ここに匿われている事。だから、大農家が自分に親切にしてくれる事。ここには自由がない事。

 ……外で遊びたい。

 何度も会う内に娘は、少年に少しずつそんな事を語っていった。少年が尋ねてくる事を、娘は楽しみにしているようだった。少年は請われるままに、自分達の暮らしの話を語って聞かせた。娘は少年の語るその暮らしに憧れを抱き、少年は娘に憧れた。だが、その交流はある時に終わった。

 さとの噂が広まり、さと様となり、神様だと説明されると、娘への警戒が厳重になってしまったのだ。少年は、もちろん、何度も忍び込んで娘を捜した。しかし、娘は見つからなかった。そして、ある日だった。大きな土蔵の中から、少年は娘の声を見つけたのだ。少年は不思議に思った。娘は何処かの偉い誰かの娘であるはずだった。大切にされているはずだったのではなかったか? なぜ、こんな場所に閉じ込められているのだろう?

 少年が質問をすると、さとは答えた。

 多分、偉い誰かが偉くはなくなったのだ、と。だから、自分は今では厄介者なのだ、と。少年は、君を救いたいと娘に言った。娘は無理だとそう答えた。

 あなたも殺されてしまう、と。

 も?

 少年が驚いた瞬間に、声がした。誰か、他の人の声。娘はとても小さな声で少年にこう言った。

 さよなら。

 見つかりそうになった少年は、大農家の庭から逃げ去った。それから、さとには会っていない。忍び込んで、幾ら捜してもさとは見つからなかった……

 恐らく、彼女はもうその頃には殺されてしまっていたのだ。


 「ちょっと、待ってよ」

 私がさと様の裏の物語を語って聞かせると、彼女は抗議をしてきました。

 「その話の、どこがどう異文化と接しているのよ?」

 「村人にとっても大農家は異文化。隔絶があったのは話からして明らかじゃない? それに、大農家は、娘の事を隠しているから、この点も異文化といえば異文化ね。

 それに、これはただの憶測なのだけど、このさと様は、誰か支配階級にいる人物の娘だったって可能性が高いわ。そして、更にそれが公然とされず、大農家の家に匿われていたって事は、その相手は公にはできない場所に住む人間って事になるかもしれない。これを話してくれたお爺さんは、もしかしたら山人じゃないか?って言ってる」

 「山人?」

 「山奥に住んでいて、通常の日本の歴史には登場しない人達。そういう知られていない部族が、日本にはたくさん住んでいたのだそうよ。で、もしかしたら、このさと様はその山人の誰かとの間の娘かもしれないって、そういう話ね。公にできないから、仕方なしに大農家に匿ってもらった。そして、その代わりに恩恵を大農家は受けていた。まさに、さと様はご利益のある神様だったって訳よ。大農家にとってみれば、ね」

 それを聞くと彼女は眉を顰めました。そして、「なにそれ?」と、そう言います。

 「だったら、なんで殺されたのよ?」

 「権力構造の変化があった…… と、そう想定してみると、うまく説明ができると私は思っているのだけど。

 大農家は、さと様の恩恵に与れなくなり、さと様には匿う価値がなくなった、それどころか、むしろ邪魔な存在になった。それで、大農家はさと様を殺した……」

 「……嫌な話ね」

 「嫌な話よ。作られた物語じゃないもの。まぁ、どんな事情があるかは分からないけど、いずれにしろ、それは異文化だったのよ。

 未知。不思議を感じる。好奇心。畏怖。恐怖。そういうのって人間の心理にとって、非常に大きな影響があると思うの。そして、個々の心理でしかないそういったものが、人々の中で相互影響して、創発され、物語やキャラクターや社会制度、つまり“文化”になる。私は、とっても面白い自己組織化現象の例だと思っているのだけどね、そういうのを」

 自己組織化現象。

 私がその言葉を口にすると、彼女は、またか、という顔をしました。

 「何度も聞くけど、何度聞いても、わたしにはよく理解できないのよね、その自己組織化現象ってのが」

 私は“自己組織化現象”と呼ばれる複雑系科学という分野の概念が好きで、よくこの娘に話をするのです。だけど、この娘はそれをなかなか分かってくれません。もちろん、彼女の理解力が足らないのじゃない。この概念は、人間の脳にとって、理解し難いものらしいのです。

 私はちょっと考えると、こう切り出しました。

 「粘菌って知ってる?」

 実は、最近になって、自己組織化現象を説明するのに分かり易い…… かもしれない話を仕入れたのです。

 「あの、アメーバーっぽいカビみたいなヤツでしょう?」

 「そうそう、それ。その粘菌はね、ほとんど単細胞生物の群れみたいなもんなのだけど、面白い性質があるのよ。そして、その性質には自己組織化現象が絡んでいる。

 粘菌は、環境に応じて、単体で生活したり、群れて生活したりを繰り返す。この現象を、長い間生物学者達は、リーダー細胞が存在していて、その細胞が命令を出して起こしているのだと考えていた。ところが、そんな細胞は見つからなかったのね。どの細胞も同じだった。そして、結局のところ、それは個々の細胞の相互影響によって起こるのだと判明したのよ。因みに、そのモデルを提示したのは、物理博士号を持つ、ケラーという分子生物学者だった。生物学者達が、そのモデルの意味を理解するまでには、随分と時間が必要だったみたい。

 でね。そんな感じの、個々の局所的な振る舞いによって組織化が起こる現象を“自己組織化現象”ってそう呼ぶのよ」

 そこまでの説明を聞くと、「うーん」とうなってから、彼女はこう言って来ました。

 「今までの説明に比べれば、確かに分かり易いけども…… それって、ただ単に集まるかどうかってだけの話でしょう? 組織化なんて大層な名前を聞かせられると、いまいちピンとこないのだけど」

 まぁ、普通はそう思うのかもしれません。それだけでも、実は重大な意味があるのですが。なら、仕方ないと私は続けて説明を始めました。

 「ところが、話はここで終わりじゃないの。このただの単細胞生物の群生であるはずの粘菌は、迷路を解いたりするのよ。餌をゴールに置いておくと、最短ルートで餌まで辿り着いてしまう… 一個、一個は、ただの単細胞生物だから、もちろんそんな能力はないわ。でも、それが集団になって組織化が起こると、そんな知性が創発される。

 こういった現象はね、粘菌だけに起こるのじゃない。例えば、アリの社会。個々のアリは比較的シンプルだけど、これが社会化すると突然に餌を効率良く運んだり、巣作りをしたり、学習したり、と知性が生まれる。しかも、私も長い間勘違いしていたのだけど、女王アリは生殖の役割しか果たさないのよ。つまり、指令は何処からも出されていない。アリ達は個々の局所的な行動と相互影響によって、そんな知的な振る舞いを行っている。

 実はこれは、多細胞生物全般にも言えるのよ。脳だって、細胞一つ一つを観れば高度な演算機能なんて持っていない。だけど、それが集団になり組織化される事によって、そこに知性が創発する。どう? ちょっと面白いって思わない? まだ、興味深い話をしましょうか? 実はこの現象を、人間は既に工学的に応用している。音声識別システムなんかは、この発想を応用しているの。そして、もちろんこういった現象はね、人間の集団でだって起こっているのよ。人間の集団でも、そこに知性が誕生しているし、自己組織化現象も起こっている」

 そこまでを聴くと、手の平をこちらに差し出して、彼女は私の喋りを止めました。それから、こう言います。

 「なんとなく… 分かる。

 アダム・スミスの『神の見えざる手』とかってもしかして、それの事なんじゃないの?誰も、それを支配し命令なんかしていない。それぞれが勝手に自分の利益の為に動いている。それなのに、社会全体としては、経済が巧く運ぶ…」

 私はそれを聞くと感心しました。当にその通りだったからです。アダム・スミスのその考えは、自己組織化現象、負のフィードバックを応用したシステムの代表的な例。

 「凄いじゃない。その通りよ」

 私が褒めると、この優等生は、頬を赤らめて別方向を向きました。この娘は、なんでか、私が褒めるとこんな反応をするのです。

 「別に、最近、アダム・スミスの事を、授業で習ったから直ぐに思い付いただけよ」

 照れて、素直に喜ばない。この子らしいといえばこの子らしい。我が強いけど、感受性が高い。エゴと敏感さの間で、揺れ動いているような子なのかもしれません。

 「エアコンかなんかが、部屋の温度を一定に保つ場合を考えてみてね。例えば、25度に設定して、部屋の気温がそれよりも低ければそれを受け取って、エアコンは温度を上げようと動く。反対に、25度よりも高ければエアコンは温度を下げようと動く。

 結果が原因に影響を与えるプロセスを、フィードバックっていうのだけど、これはそれをシステムに取り入れて応用しているって訳ね。そして、こんな感じで“高ければ低く”って反対の影響を与えるものを、負のフィードバックという。そして、その逆に“高ければ更に高く”って影響を与えるものを、正のフィードバックというの。そして、負のフィードバックを『神の見えざる手』は応用しているのよ。

 役に立つものならば、生産物の需要が高くなって値段が高くなる。あ、もちろん、生産物の供給量が一定だとした場合だけどね。値段が高くなると、需要が低くなり、あまり売れなくなる。

 値段が高くなると、売れなくなる。これは負のフィードバックだわ。生産物が売れれば、更に供給量を増やそうとするけど、増え過ぎれば売れなくなって供給量も減る。これも、負のフィードバック。そんな感じで、経済の状態は良い方向へ自然と導かれる… 経済システムは自己組織化され、そこに良好な状態が創発されるってワケ。

 でもね。実は、この自己組織化現象が上手く働かない場合があるのよ。アダム・スミスが想定した通りには、フィードバックのメカニズムが働かないケースが。

 売買差益によって利益を得る為にあるもの。例えば、土地とか、株とか、そういった資産ね。そういったものには、需給バランスの機能が働かなくなる場合がある。

 株の需要が高くなって、株の価格が上がったとする。高くなり過ぎれば、価格を抑える力が働くと資本主義では想定されているけど、例外的に、価格が上がった事によってますます、株の需要が高くなるケースが存在する。売って利益を出せるから、価格が上がった事で、株への信用が上がる為ね。そうなると、価格を抑える力が働かなくなる。本来は負のフィードバックが起こるはずなのに、正のフィードバックが起こってしまう。そうして、価格は実体を無視して限界まで上がり続け、ある時点に達すると崩壊してしまう。

 まぁ、知ってると思うけど、これが有名なバブル経済って現象よ。資本主義システムのエラーとでも呼ぶべき現象よね。ある意味じゃ、資本主義の原理に反してさえいる。問題がある事は明らかだけど、これを防ぐ為のシステムを人間社会はあまり作り出そうとしないのよね」

 彼女が照れていて、なんとなく気まずそうにしていた事も手伝って、私はそれだけの事を一気に語りました。私が一方的に語る事で彼女が黙っていても、不自然にならない状況を作り出したつもりです。その間で、平静な精神状態を取り戻してもらおうと。

 「どうして、問題を解決しようとしないのよ?」

 聞き終わると、彼女は私に向けて不服そうな様子でそう言いました。

 「もちろん、全く対応しようとしてないってのでもないのだけどね。でも、適切な考えが常に社会に吸い上げられる訳じゃないって要因は確実にあると思う。社会は自己組織化し、知性を創発する。でも、組織化されたそれは最良の状態とは限らない。悪い方向へ、自己組織化されてしまう事もあるのよ。

 それを少なくする為には、メディアって機能が適切に働く必要があるけど…… そんな意識を持った人ってどれくらいいるのかしらね? いえ、個人じゃなくて、これもシステムの問題なのかもしれない。そして、適切なシステムを作り出すには、それ相応のルールがいる。今は、インターネットが、それに影響を与えもする。面白い時代に生まれたわよね、私達。

 どんなルールが必要か、そんな事を考えてみるのも、きっと価値があるわよ」

 私がそう語り終えると、彼女は妙な表情を見せました。

 「まぁ、話は分かる。分かるけどね」

 なんでしょう?

 「どうも私には、そういった話と、『さと様』の話が結び付かないのよね。元々はその話だったはずでしょう? 地域社会で育まれる物語とかそういうのが自己組織化と関係があるのは分かったけどさ」

 「ああ、」

 そう言われて、私は思い出しました。彼女の疑問はもっともです。人間社会の自己組織化と一口に言っても、それは規模によって様々に捉えられるからです。

 「自己組織化現象って言っても、さっきのフィードバックの話なら、プログラミングで表現する事ができるの。つまり、そこに“人間”の存在は必要がない。だから、その原理は、情報を与え合える範囲でならば、直接人が会わなくても適応する事ができる。例えば、物凄い数の人間がインターネットで繋がった世界でだってね。

 ところが、人間の脳はそんな造りにはなっていない。直接接触できる、200人程度の集まりくらいの社会しか設定されていないのよ。一万人とか、一億人とかの規模の社会は想定されていない。だから、人間は社会を200人程度の規模で組織化しようとする行動を執ってしまうし、その感覚もその程度の社会に適応する為に機能してる。ショッキングな死だったらたった一人でも反応するのに、間接的で分かり難い経済が原因の人死にだったら、一万人が死んでいても無視できるのは、だからかもしれないわね。こう考えてみると、その本来の、人間の脳の機能を活かした自己組織化が起これば、そこに、感情や感性といった人間の特性が組み込まれたものが創発されるのじゃないのか? って仮説が立てられるとは思わない?」

 ちょっと考えると、彼女は言いました。

 「要するに、比較的小規模な交流の地域社会で育まれる社会制度とか、キャラクターとか、物語とか、或いは宗教みたいなのとかは、大きな社会の自己組織化とは違って、人間の性質が組み込まれているっていうの?」

 「その通り。

 都市伝説とか、怖い噂とか、情報化社会を迎えた今日でも、そういう怪談みたいなのはいっぱい作られるし、メディア側がそういうのを仕掛ける場合もある。でも、そういうのって河童とか天狗とか、古来の社会が育んできたものとは、なんか違う気がしない?

 集団的知性。

 自己組織化によって創発される知性は、そう呼ぶべきものだわ。そして、古来の怪異は、当にその集団的知性だったのかもしれないって私は思ってる。でも、今現在の都市伝説とか、そういったものは、ただ単に情報が乱反射してるだけって気がしない? 実際、口裂け女とか人面犬とかは、直ぐに消えていってしまった。古来の、お化け達みたいに根付かない。

 学校でも、怪談とか生まれるでしょう? なんとなく、そういったものには、古来の怪異の香りを私は感じるのだけど、学校の人口って何百人規模で、昔の社会のそれに近いように思える。人の移り変わりが激しいから、一つの文化を育む事まではできないかもしれないけどね」

 その話を聴き終わると、彼女は神妙な表情を見せました。

 「集団的知性、ね。

 なんとなく分かったわよ。どうして、あなたが子供達の間の、嘘っぱちな『さと様』の怪談を大切にした方がいいと言ったのか」

 私はそれを聞いて、少し驚きました。のみ込みの早い子です。

 「もちろん、私が語ったことは仮説に過ぎないわよ。でも、そこに私達には分からない“価値”がある、少なくとも、その可能性はあるのよ。

 科学的な事柄も、社会上で扱う場合は機能的な面が重要になってくるって先に説明したでしょう? 科学も一つのイデオロギーに過ぎない、他の社会制度と同じものと見なすべきだと主張したファイヤアーベントっていう哲学者がいるわ。実際、科学研究所が、文化人類学のフィールドワークの対象になってもいるのだけどね。この考えは、もちろん科学を純粋に合理的なものだと考える多くの人に反対されている。でも、科学も一つの文化である事は確実だと思う。そして、そこに文化相対主義の概念を適応すると、このファイヤアーベントの考え方がよく分かるって言っている人もいるのよ。

 どう? さっきまでの話を聴いてからこれを考えてみると、ちょっと違ったものが見えてくるような気がしない? あなたの意見が聴いてみたいわ」

 私がそんな質問をしたのは、彼女の意見が本当に聞いてみたかったからでした。教える立場でそれを言ったつもりはありません。彼女の理解力を認めた上で、彼女の見解に興味が沸いたのです。すると、彼女にもどうやらそれが伝わったのでしょう。真顔になると、こう真摯に答えてきました。いつものような、捻くれた態度がない。

 「文化相対主義の話を聴いた時、わたし納得がいかなかった事があるの」

 「なに?」

 「それぞれの文化の価値を認めるって言っても、文化は接触をするものでしょう? ぶつかり合うわ。そうすれば、相対主義だなんて言ってられなくなるのじゃない? 実際、子供達だって言い争っていた。つまり、文化相対主義だけじゃ、どうしても上手くいかない壁があるはず…

 機能って言ったわよね? 社会上でそれを考える場合は、機能が重要になってくるって。文化と文化の衝突は、機能を前提とする事で解決できると思わない? 機能を重要視した点を論じて水掛け論を防ぐの。これを、その科学が一つのイデオロギーだって話にも適応する。つまり、機能を考えて優れているのならば、それを採用する… 単純な正しさだけを強調するのじゃなくて、社会的な事柄も踏まえて考えるのね」

 なるほど、ね。よく考えています。

 「いい考えだと思うわよ。それだと、科学を持たない文化、でも、仕合せに暮らせている社会の、その価値をすんなりと認められる気がするし、科学を社会で利用する際の問題点も指摘され易くなる。でもね、これは、そんなにシンプルな話じゃないわ。

 機能って言っても、どんな価値観を基準にするか、どういった考え方をするかで捉え方は全然変わってくるもの。もちろん、何にも考えないで、水掛け論を繰り返すよりはマシかもしれないけどね。それに、ほとんどの人は自分が分かっていない事を分かっていない。多くの人が、傲慢さを捨て、理論的事実を受け容れる事ができたなら、世の中はもっと良くなるわ。でも、それを人間はできない。一目瞭然の事実を無視して、暴走して、殺し合ったり失敗したりをして、苦しみ、悲劇を生み出してる。小さな子供すらも犠牲にして。多分ね、本当にそれは、人間にはできない事なのよ。人間という動物には、その能力がないの。自分を否定できない。だから、自分の考えの誤りを観ない。何回だって同じ過ちを繰り返す。先のバブル経済の話だってそうだけど、何万人が死んだって問題を解決しようとする人はほんのわずか…… バブルってね歴史上何回も起こってるのよ」

 「つまり、理屈で人間を諭すのには限界があるって事?」

 「まぁね」

 問題は、そんなに簡単には解決をしません。だから、人は、人々は苦しみ続けます。いつの時代だって。

 (くそったれな、この世界)

 「じゃ、どうすればいいのよ?」

 私の返答が気に入らなかったのか、彼女はやや不服そうにそう言って来ました。私は一言。

 「自己組織化現象」

 そう返します。

 「なによ?」

 「人間の能力に、限界があるのは確か。人間、個人の主体性や理性に期待をしたって無理だと私は思う。でも、自己組織化現象を応用した社会システムなら、或いは未来があるかもしれない」

 「それって、理屈で人を諭すのとどう違うの?」

 「この方法ならね、社会システムにそれを組み込んでしまえば、その理屈を完全に個人が知る必要はないの。市場原理の本質を理解してない人がほとんどでも、経済が上手く動く、みたいな感じでね。……でも、それでも、やっぱりそれを伝えるには、個人個人の力を頼るしかないのかもしれないけど…」

 その個人の力が、とても弱い。

 ……しばらく、私達二人は黙りました。それから、ふと彼女が口を開きます。

 「ねぇ」

 「なに?」

 「さと様の物語。やっぱり、あれじゃ、私は嫌だな。ハッピーエンドにしましょうよ」

 「何言ってるのよ?」

 「嘘にも価値があるって言ったわ」

 少しイタズラっぽい表情で、彼女は私を見ました。一呼吸の間の後で、私は訊きます。

 「そうね。でも、どんな物語にするの?」

 「さと様は、殺される前に少年に助け出されるのよ。そして、少年と共に逃げる」

 「何処へ?」

 「山」

 山?

 もしかして。

 「もしかして、山人のところ?」

 「そう。山人の世界なら、支配階級も農村も関係ないでしょう? だから、その世界で少年と少女は仕合せに暮らすのよ。そういう事にしましょうよ…」

 実際には、恐らく山人の社会だって余所者を疎んじたり、辛い事はたくさんあるのだと思います。そんなハッピーエンドはないでしょう。でも、

 「そうね。そんな終わりもいいかもしれない」

 ――そう、私は答えました。

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