第1話 婚約破棄、上等です
大広間の中央で、王太子が私を指差して叫んでいる。
「お前のような無能とは、今この場で婚約破棄する!」
――あ、それ、私が三年間ずっと言ってほしかった台詞です。
シャンデリアの光が眩しいほどに降り注ぐ夜会の会場で、私、アリシア・フォンティーヌは、その場に凍りついたように立ち尽くしていた。
……フリをしていた。
周囲の貴族たちが息を呑む音、扇の陰から漏れる囁き、憐れみと嘲りが入り混じった視線。すべてが私に突き刺さる。
だけど、心の中では小さくガッツポーズをしていた。
(やった。やっと終わった)
王太子――ジェラルド殿下の隣には、この断罪劇の主役であるもう一人の令嬢が、勝ち誇ったような顔で佇んでいる。
「殿下、あまりアリシア様を責めては……」
「いや、いいんだ。彼女には、はっきりと言ってやらねば分からない」
ジェラルドは芝居がかった仕草で私に向き直ると、声を張り上げた。
「お前は三年間、婚約者としての役目を何一つ果たさなかった。社交界での立ち回りも、私への献身も、すべてが無能の一言に尽きる。今日をもって、この婚約は破棄させてもらう!」
会場がどよめく。
私は俯いた。
俯いて――笑いを堪えた。
(役目を果たさなかった? 冗談じゃない。あなたのために社交界中を駆けずり回って、あなたの浮気の後始末を三回もして、あなたの評判を守るために自分の評判を犠牲にしてきたのは、いったい誰?)
だけど、それを口にするつもりはなかった。
なぜなら――ここで大人しく罵られておいた方が、圧倒的に得だから。
(このまま婚約破棄されれば、私はフォンティーヌ家のためという名目でこの人に尽くす義務から、完全に解放される)
「……仰る通りでございます、殿下」
私は静かに一礼した。
「至らぬ点、深くお詫び申し上げます」
その言葉に、ジェラルドは満足げに頷く。
「分かればいい。……ふん、これでようやく、真実の愛を貫くことができる」
彼が隣の令嬢の腰を抱き寄せた瞬間、周囲の重鎮たちの間に、何とも言えない微妙な空気が流れたのを、私は見逃さなかった。
(あら。……何か知らないけれど、この人たち、殿下に同情していないみたい)
その理由を深く考える余裕はなかった。今の私には、どうでもいいことだったから。
馬車に揺られながら、私は窓の外を流れる夜景をぼんやりと眺めていた。
隣に座る侍女のマーサが、心配そうに私の顔を覗き込んでくる。
「お嬢様……本当に、よろしかったのですか? あんな大勢の前で、あそこまで言われて」
「せいせいしたわ」
私は正直に答えた。
三年前、フォンティーヌ家の財政を立て直すために、私はジェラルド殿下との婚約を「受け入れさせられた」。家のためだと、笑顔の裏で本音を殺し続けてきた三年間。
感情を出せば「令嬢らしくない」と叱られ、意見を言えば「生意気だ」と疎まれ、いつしか私は「無能」を演じることを覚えた。
――何も感じていないふりをするのが、一番楽だったから。
だから今夜のことは、悲劇でも何でもない。
ようやく、自分の人生を取り戻せる日が来ただけのこと。
「これからは、静かに暮らすわ。誰にも期待されず、誰の期待にも応えなくていい場所で」
そう呟いた矢先だった。
屋敷に到着すると、家令が困惑した様子で私を出迎えた。
「お嬢様……夜分に、レイヴンズ公爵家より使者が」
レイヴンズ公爵家。
「氷の公爵」と呼ばれる、社交界にほとんど姿を見せない謎多き当主が治める家だ。
差し出された封書を開くと、そこには短く、こう記されていた。
『契約結婚を申し込みたい。条件はただひとつ――亡き妻の忘れ形見である娘を、母として愛してほしい』
「……娘、を」
その一文だけが、なぜか妙に胸に引っかかった。
政略結婚への警戒よりも先に、私の頭の中に浮かんだのは、会ったこともない小さな子どもの顔だった。
翌日の朝。
私はほとんど迷うことなく、その申し出を受けることにした。
理由は単純だ。フォンティーヌ家の窮状を救えて、なおかつ「令嬢らしさ」を求められない結婚生活。これ以上の条件はない。
――娘を愛してほしい、という条件さえ除けば。
(愛せなかったら、どうしましょう)
そんな一抹の不安を抱えたまま、私はレイヴンズ公爵邸へと向かう馬車に揺られていた。
窓の外に見えてきた邸宅は、噂に違わぬ威容だった。
白亜の外壁に、まるで氷の彫刻のような幾何学的な尖塔。庭園の緑さえどこか色を失って見えるほど、屋敷全体が張り詰めた静けさをまとっている。
(本当に、人が住んでいるのかしら)
門をくぐり、玄関に立った瞬間――
視界の端で、何かが動いた。
大きな柱の陰。淡い金色の髪が、ちらりと覗いている。
「……」
私が視線を向けると、その影はびくりと震えて、さらに柱の奥に隠れてしまった。
けれど、完全には隠れきれていない。小さな靴の先が、はみ出したままだった。
私は思わず、その場にしゃがみ込んだ。
令嬢としてはあるまじき行儀の悪さだが、今の私は、もう誰かに評価される立場ではない。
「こんにちは。あなたが、この家のお嬢さんかしら?」
できるだけ優しい声で問いかける。
長い沈黙のあと、柱の陰から、小さな顔がおずおずと覗いた。
透き通るような水色の瞳に、涙の膜が張っている。
「……お母様に、なりにきてくれたの……?」
震える声だった。
期待と、諦めが、同じくらいの重さで滲んでいる声。
その瞬間、私の中で、何かがことりと音を立てた。
「ええ。そのために来たのよ」
気づけば、私は両腕を広げていた。
「おいで。よろしくね、これからは、私があなたのお母様よ」
少女――後で「エマ」という名だと知ることになる彼女は、しばらく私の顔をじっと見つめていた。
そして次の瞬間、堰を切ったように、私の胸に飛び込んできた。
「うわああああああん……!」
小さな体を精一杯抱きしめながら、私は思う。
(この子のためなら、私はきっと、心から笑えるかもしれない)
政略結婚のはずだった。義務のはずだった。
けれど、腕の中で泣きじゃくる温かい重みが、その予定調和を静かに壊していく。
エマの背中をあやすようにさすっていた、そのときだった。
「――随分と早く懐かれたな」
背後から、低く冷たい声がした。
振り返ると、いつの間にか、氷のような瞳をした男がすぐ後ろに立っていた。
気配なんて、まったく感じなかったのに。
漆黒の髪、感情の読めない切れ長の目。噂に聞いていた通り、いや、噂以上に、彼の纏う空気は冷たかった。
「レイヴンズ公爵……」
エマを抱いたまま、私は立ち上がって一礼しようとする。
けれど彼は答えず、ただ長い指で、私の顎を軽く持ち上げた。
品定めするような、それでいてどこか熱を帯びた視線が、至近距離で私を射抜く。
「――君の婚約破棄の噂は、随分前から知っていた」
……前から?
この契約結婚の話が来たのは、昨夜のはずなのに。
「まさか……」
背筋を、冷たいものが伝う。
けれどそれは、恐怖だけではない――説明のつかない何かが混じっていた。
男の唇が、初めてわずかに弧を描いた。
「ようやく手に入った」
その一言だけを残して、公爵は――ヴィクター・レイヴンズは、私の顎から手を離し、静かに屋敷の奥へと歩き去っていった。
残された私は、腕の中のエマを抱きしめたまま、しばらくその場から動けずにいた。
(今の言葉は、どういう意味……?)
契約結婚のはずだった。
義務と割り切って、静かに暮らすはずだった。
――なのにどうして、私はこんなにも、心臓が早鐘を打っているのだろう。




