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第7話:春の星図と、名前のない職業

 阿久津先生が遺した言葉通り、東京に本格的な春が訪れた。

 路地裏のビルへ続く階段には、どこからか飛んできた桜の花びらが、薄桃色の雪のように積もっている。

 僕がこの店で働き始めて、三ヶ月。

 履歴書の「職歴」欄は相変わらず空白のままだが、僕の指先には、もうリクルートスーツの埃を払うような躊躇ためらいはなかった。

「浅野、いつまで外を眺めてるの。次の現場の資料、目を通した?」

 店内に、いつもの「焦げた砂糖」の匂いが満ちる。

 ステラさんは、新しく新調したばかりのルーペを片手に、カウンターで古い星図を広げていた。

「見てますよ。……でも、今日の依頼、少し不思議ですね。場所が、ただの『空き地』になってますけど」

「そこは、かつて小さな遊園地があった場所よ。建物はすべて壊されたけれど、地面の下にはまだ、当時の子供たちが埋めた『タイムカプセル』が眠っている。今回の依頼人は、その中の一つを『整理』してほしいそうよ」

 僕は資料をめくる。

 依頼人の名は、もうすぐ九十歳になるという女性。

 彼女が六十年前、タイムカプセルに預けた「自分への手紙」が、今になって『星屑』として発火し始めているのだという。

「建物がなくても、想いは地層のように積み重なる。それを掘り起こし、完結させる。……これが私たちの、今日の『仕事』よ」

 ***

 現場の空き地は、再開発を待つ沈黙の中にあった。

 かつての賑わいを感じさせるものは何もない。ただ、春の陽光が、雑草の芽吹く地面を平等に照らしているだけだ。

「浅野、今回はあなたに『初動ファースト・コンタクト』を任せるわ。鼻を研ぎ澄ませて、地中に眠る『音』を聴きなさい」

 ステラさんの指示に、僕は頷いた。

 僕は軍手を外し、冷たい土に直接手を触れる。

 ――瞬間、脳裏を震わせる「錆びた鉄の匂い」と、それとは対照的な「バニラアイスのような甘い記憶」。

 

 第6話で『特級遺品保管庫プライベート・サンクチュアリ』の呪いを鎮めてから、僕の五感はさらに鋭敏になっていた。

 地層の奥深く、何十年もの間、誰にも触れられずに圧縮されてきた「少女の期待」が、微かな振動となって僕の掌を打つ。

「……見つけました。ここです」

 僕はシャベルを取り、慎重に土を掘り進めた。

 数十分後、地中から現れたのは、ひどく錆びついた金属の筒だった。

 その蓋に触れた瞬間、パチリ、と青い火花が散った。

「っ……!」

「離さないで、浅野! それが、彼女が捨てきれなかった『明日への希望』よ。今の彼女にとっては、それが毒(未練)になっている。あなたがその『くすみ』を吸い出すのよ!」

 僕は踏みとどまった。

 かつてなら、この負のエネルギーに飲み込まれていただろう。

 けれど今の僕には、阿久津先生から授かった『銀色の祝福』と、ステラさんの兄・シオンから引き継いだ『共鳴研磨レゾナンス・ポリッシュ』の技術がある。

 僕は筒を抱きしめるようにして、自分の心拍を金属に伝えた。

 ――大丈夫だ。

 ――あなたの夢は、無駄じゃなかった。

 

 筒の中から、ドロリとした「黒い泥」が溢れ出す。それは、夢を叶えられなかった老女の絶望。

 僕はそれを拒絶せず、自らの熱で蒸発させていく。

 やがて、錆びた筒の中から、ひときわ鮮やかな**『若草色の結晶』**が、ポロリと手のひらに転がり落ちた。

 それは、春の風そのものを閉じ込めたような、瑞々しい輝きを放っていた。

「……綺麗だ」

 僕が呟くと、背後から静かな足音が近づいてきた。

 依頼人の老婦人だった。彼女は、僕の手の中にある光を見て、シワの刻まれた顔を震わせた。

「……ああ、私の『春』が、まだこんなに綺麗に笑っている」

 彼女は結晶にそっと触れた。

 その瞬間、若草色の光は、彼女の身体を優しく包み込み、そして静かに、空へと溶けていった。

 それは『打ち上げ』ではない。持ち主の心へと還る、『和解』という名の整理だった。

「ありがとう、お兄さん。これで私は、安心して次の春へ行けますわ」

 老婦人は、晴れやかな笑顔で去っていった。

 その背中は、第1話で見た孤独な老人や、第2話の絶望したダンサーとは違う、確かな「完結」の重みがあった。

 ***

 夕暮れ。

 事務所へ戻る道中、僕はステラさんに尋ねた。

「ステラさん。僕たちの仕事って、結局なんて呼べばいいんでしょうか。遺品整理士……でも、今日みたいに生きてる人の心も整理しますよね」

 ステラさんは、軽ワゴンのハンドルを握りながら、少しだけ考え込むような顔をした。

「そうね。ギルドでは『星屑の剪定師』とか『魂の研磨職人』とか、格好いい名前をつけてる連中もいるけれど……」

 彼女は信号待ちで止まり、助手席の僕を真っ直ぐに見た。

「私は、ただの『翻訳家』だと思ってる。亡くなった人や、過去の自分が、言葉にできずに遺していった光を、今の世界が理解できる形に翻訳してあげる。……それだけでいいのよ」

「翻訳家……。いいですね、それ」

 事務所に戻ると、ポストに一通の封筒が入っていた。

 差出人は、あの『カイ』だった。

 中には、一枚の古い写真。そこには、若き日のステラと、彼女の兄・シオン、そして不器用に笑うカイの姿があった。

 写真の裏には、走り書きでこうあった。

『シオンの茜色の星、昨日、南の空に見えたぜ。……あの新人に伝えとけ。次こそは、俺が一番星を磨いてやるってな』

 ステラさんはその写真を、大切そうに作業台の脇に飾った。

「……負けてられないわね、浅野」

「ええ、もちろん」

 僕は自分のデスクに向かった。

 そこには、昨日の現場で拾った、名もなき「想い出の欠片」が並んでいる。

 僕は新しいセーム革を手に取り、研磨剤を一滴落とした。

 シュッ、シュッという音が、静かな夜の事務所に響き始める。

 

 窓の外には、東京の夜景が広がっている。

 かつては冷たく、自分を拒絶しているように見えた街の灯り。

 けれど今の僕にはわかる。あの光の一つ一つの下に、誰かが大切に磨き続けている「人生」という名の星屑があるのだと。

 僕は履歴書の空白を、もう恐れない。

 僕の職業は、まだどこにも名前のない、けれど世界で一番美しいお仕事。

 

 ――『星屑遺品整理店』。

 

 今夜も、誰かの「完結」を手伝うために。

 僕は、目の前の小さな光を、心を込めて磨き続ける。

「ステラさん。次の依頼、もう一件ありますよね。……今度は、どんな匂いがしますか?」

 ステラさんは、銀髪を揺らして微笑んだ。

「そうね。……今度は、少し甘酸っぱい『初恋のソーダ』の匂いかしら」

 春の夜風が、桜の花びらを事務所の奥へと運んでくる。

 僕たちの新しい物語は、今、始まったばかりだ。


(第7話・完結)

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