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第5話:琥珀色の旋律と、空席の遺品整理士

 その日の朝、事務所のドアに一枚のメモが貼り付けられていた。

『ギルドの定期監査で不在。現場の鍵はポストの中。住所は裏面。一人で完結させなさい。 ステラ』

「……えっ、一人で?」

 僕は呆然と立ち尽くした。バイトを始めてから、現場には必ずステラさんの「冷徹なまでの正確さ」が寄り添っていた。彼女の鼻が想いの匂いを嗅ぎ分け、彼女の目が星屑の在処ありかを射抜く。それがあって初めて、僕はただの「磨き手」として機能していたのだ。

 震える手でメモを裏返す。そこに記されていたのは、都心の高級マンションの一室だった。

 今回の依頼品:『一台のグランドピアノ』。

 マンションの最上階。通されたリビングは、生活感が極限まで削ぎ落とされた、ショールームのような空間だった。中央に鎮座する黒いピアノだけが、重苦しい存在感を放っている。

 依頼主は、亡くなった世界的なピアニストのマネージャーだという男性だった。

「先生は、このピアノの前で倒れられました。……遺言には『星屑遺品整理店に、この音を整理させろ』とだけ。ステラさんはどうされたのです?」

「あ、本日は代理で僕が伺いました。浅野です」

「代理……? 困るな。このピアノには、先生の『最後の未完成曲』が宿っているはずなんだ」

 マネージャーの男性は不信感を露わにしながらも、僕をピアノの前に案内した。

 僕は軍手を外し、静かに鍵盤に触れる。

 ――瞬間。

 喉の奥が焼け付くような「乾燥した砂」の匂い。そして、指先を刺すような「冷たい弦」の感触。

 

 視界が歪む。

 そこに見えたのは、喝采を浴びる華やかなステージではない。暗い部屋で、血が滲むほどに鍵盤を叩き続け、けれど「たった一つの音」が見つからずに絶望している、一人の老音楽家の背中だった。

「……っ」

 強烈な「拒絶」の波動。

 ピアノ自体が、整理されることを拒んでいる。星屑が結晶化せず、楽器の深層でドロドロとした黒いよどみとなって渦巻いているのだ。

「浅野、落ち着け。ステラさんならどうする……」

 僕は自分に言い聞かせた。

 ステラさんは第2話で言っていた。『死ぬのは肉体だけじゃない。情熱や夢が捨て去られる時、そこには遺品が発生する』と。

 このピアノに残っているのは、完成した想いではない。完成できなかったことへの「執着」だ。

 僕は鞄から、ステラさんに内緒で持ち出した『予備の研磨液』を取り出した。しかし、それを鍵盤にかける勇気が出ない。もし失敗すれば、この歴史的な楽器を汚すだけでなく、故人の魂を永遠に迷子にしてしまう。

 その時だった。

 背後で、聞き覚えのない、けれどどこかステラさんに似た雰囲気の「低い笑い声」がした。

「甘いな。そんな安物の研磨剤じゃ、天才の『呪い』は落とせないぜ?」

 振り返ると、そこには使い古された革ジャンを羽織った、片目の隠れた男が立っていた。

 マネージャーが驚いて声を上げる。

「……貴方は、数年前に引退した伝説の整理士……カイさん?」

「カイ……?」

 聞き覚えがある。ステラさんが一度だけ、苦々しそうに口にした名前だ。彼女の兄――そのかつての相棒であり、ステラの兄を「救えなかった」と彼女がなじんでいた男。

 カイと呼ばれた男は、僕を突き飛ばすようにしてピアノの前に座った。

「どきな、新人。ステラはどうした? また兄貴の幻影を追って、ギルドの地下資料室にでも引きこもってんのか?」

「ステラさんは仕事です! 貴方は誰なんですか?」

「誰でもいいさ。ただ、このピアノの『匂い』があまりに酷くてな。近所迷惑なんだよ」

 カイは懐から、煤けた黒い布を取り出した。それはステラさんが使うセーム革とは違い、まるで夜そのものを切り取ったような、不気味な光沢を放っていた。

「見とけ。これが本当の『闇の研磨』だ」

 カイが鍵盤を激しく叩きつける。音楽とは呼べない、不協和音の嵐。

 すると、ピアノの内部から悲鳴のような音が響き、黒い煙のような「星屑の未完成体」が溢れ出してきた。

 カイはその煙を黒い布で強引に絡め取り、凄まじい力で「絞り」始めた。

「待ってください! そんな乱暴にしたら、故人の想いが壊れてしまう!」

「壊して何が悪い? 未練なんてのは、粉々に砕いて土に還すのが一番の救済なんだよ。ステラみたいに綺麗に磨いて空へ還すなんてのは、ただの自己満足だ」

 カイの手の中で、黒い煙が苦しげに形を変える。

 その時、僕は見た。

 煙の核にあるのは、悲しみでも絶望でもなかった。

 それは、たった一度でいいから、愛する人に「ありがとう」と伝えたかったという、不器用で真っ直ぐな、幼子のような祈りだ。

「……違う!」

 僕はカイの手を掴んだ。

「それは、砕いちゃいけない光です! 壊すんじゃなくて、見つけてあげなきゃいけないんだ!」

「……あ?」

 カイの鋭い眼光が僕を射抜く。

「新人が、俺に指図するのか? 命を削って磨く覚悟もないくせに」

「覚悟なら、あります。阿久津先生に教わったんです。言葉の裏側にある痛みを、見捨てちゃいけないって!」

 僕はカイの手を振り切り、溢れ出す黒い煙の中に、素手で飛び込んだ。

 冷たい。指先の感覚が消える。

 けれど僕は、その暗闇の奥深く、最も震えている「音」を探した。

 ――見つけた。

 ピアノの最低音。重く、沈んだ振動。

 僕はその弦を、自分の胸の熱を伝えるように、優しく、けれど力強く弾いた。

 ポーン、と。

 その一音が、部屋の空気を一変させた。

 

 カイが無理やり引きずり出そうとしていた「呪い」が、僕の一音に共鳴し、急速に形を成していく。

 黒い煙は浄化され、透き通った**『琥珀色の結晶』**へと姿を変えた。

 それは、夕暮れ時の音楽室のような、温かくて少し寂しい光を放っていた。

「……チッ。共鳴研磨かよ。ステラの兄貴と同じ、お人好しの極致だな」

 カイは忌々しそうに舌打ちし、黒い布をしまった。

 けれど、その目には一瞬だけ、遠い過去を懐かしむような色が浮かんでいた。

 琥珀色の石は、ピアノの上に静かに転がった。

 マネージャーの男性は、その光を見て、膝をついて泣き始めた。

「……ああ、これだ。先生が最後に探していたのは、この、許しの音だったんだ……」

 ***

 夕暮れ。

 僕はヘトヘトになりながら事務所に戻った。

 ステラさんは既に帰っており、カウンターでコーヒーを飲んでいた。

「……遅かったわね。報告書は?」

「はい。これです……琥珀色の石が取れました。あと、現場にカイという男が来ました」

 ステラさんの手が、ピクリと止まった。

 彼女は無言で報告書を読み、それから僕の真っ赤に腫れた指先を見つめた。

「……あいつに、何か言われた?」

「いえ。……ただ、ステラさんのやり方は自己満足だ、って。でも、僕はそうは思いません」

 僕は、ポケットから小さな包みを出した。

 現場で偶然見つけた、もう一つの「遺品」。それは、ピアノの足元に落ちていた、ステラさんの兄のものと思われる、古い研磨用のブラシだった。カイがわざと落としていったものに違いない。

 ステラさんはそのブラシを見た瞬間、椅子から立ち上がった。

 彼女の瞳に、激しい動揺が走る。

「……カイ。まだ、あんなところで彷徨さまよっているのね」

 彼女はブラシを強く握りしめ、僕に背を向けた。

「浅野。……明日は、店を休みにするわ。私は、行かなきゃいけない場所ができた」

「ステラさん、一人で大丈夫ですか? カイさんは、なんだか危ない感じがしました」

「大丈夫よ。あいつは……私の兄を殺した男であると同時に、世界で一番、兄の『光』を愛していた男でもあるんだから」

 ステラさんの首元で、あの『赤い石』が、今までになく激しく、ドクン、ドクンと脈打った。

 それはまるで、閉じ込められた魂が、外へ出たがって暴れているような、不気味な胎動だった。

「浅野。……あなたが今日磨いた琥珀色は、いつか私の赤い石を救うための、重要な鍵になるかもしれない。……今日は、もう帰りなさい」

 彼女の声は、どこか遠い場所から響いているようだった。

 事務所を出ると、夜空には見慣れた星たちが瞬いていた。

 阿久津先生の銀色、孤独な老人の黄金色。

 僕が磨いた星たちが、少しずつ空を埋めていく。

 けれど、ステラさんの胸にある「赤」が空へ還る日は、まだ見えない。

 僕は自分の手のひらを見つめた。

 カイさんの「闇の研磨」と、僕の「共鳴研磨」。

 どちらが正しいかなんて分からない。

 けれど、あの琥珀色の温かさだけは、僕の指が、確かに覚えている。


(第5話・了)

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