第4話:硝子の遺言と、泥を穿つ研磨剤
阿久津先生が亡くなって一週間。葬儀を終えたばかりの四十九日を待たずして、遺品整理の現場は動く。それがこの仕事の「非情さ」であり「誠実さ」でもあった。
降り注ぐ陽光は春の温かさを帯びているのに、先生の自宅だった古い洋館の空気は、氷のように張り詰めていた。
「……浅野、今日は軍手を二重にしなさい。心も、二重にね」
軽ワゴンの助手席から降りたステラさんは、いつになく低い声で言った。彼女の鼻先は、不快そうに微かに動いている。
今日の現場には、焦げた砂糖の匂いはなかった。代わりに立ち込めていたのは、むせ返るような「酸っぱい腐敗臭」と、ひりつくような「鉄錆」の匂い。
それは死臭ではない。生きた人間たちが撒き散らす、欲望と憎悪が混ざり合った感情の匂いだった。
「先生、お父様の蔵書はすべて換金しますからね。一冊も漏らさずリストアップしてください」
「わかっているよ。あの古い図鑑だって、初版なら価値があるはずだ」
玄関を開けると、そこには喪服を着た男女が、阿久津先生の書斎で無遠慮に段ボールを広げていた。先生の息子夫婦だ。彼らは恩師が息を引き取った瞬間に、「悲しみ」よりも先に「遺産の計算」を始めたのだという。
「……ステラさん、これ……」
「無視しなさい。私たちの仕事は、あの人たちの相手をすることじゃない。先生の『想い』を救い出すことよ」
ステラさんは息子夫婦の罵声に近い指示を柳に風と受け流し、真っ直ぐに書斎の奥、あの『世界の星空・決定版』が置かれていた棚へと向かった。
しかし、棚は空だった。
「おや、整理業者さん。あの図鑑なら、もう古書店に売る束に入れましたよ。あんなボロボロの子供向け、価値なんてないでしょう?」
息子が、足元に積み上げられた雑誌の山を指差す。
僕は思わず叫びそうになった。あの図鑑には、先生が教え子たちに遺した『銀色の星屑』が宿っているはずなのだ。
「待ってください! あれは……!」
「浅野、黙って」
ステラさんの手が、僕の腕を強く掴んだ。その指先は驚くほど冷たい。
「……阿久津様。私たちは契約に基づき、故人が『個人的に大切にされていた品』の優先的な選別権を持っています。図鑑はこちらで引き取ります」
「はあ? 勝手なことを。金になるならこっちの取り分だ」
息子が図鑑を奪い取ろうとした、その時だった。
図鑑の表紙から、バチバチと静電気のような音が響き、不快な「鉄錆の匂い」が爆発的に膨れ上がった。
「うわっ! なんだ、この静電気! 痛いな!」
息子が図鑑を放り出す。床に落ちた図鑑から、どろりとした「黒い油のような液体」が染み出してきた。それは物理的な汚れではない。生きた人間たちの強欲が、先生の純粋な祝福に触れ、拒絶反応を起こしているのだ。
「浅野、今よ! 素手で押さえて!」
「えっ、でも……!」
「二重の軍手の上からでいい! 先生の想いが、あの泥に飲み込まれて消えてしまう!」
僕は反射的に床に飛び込み、図鑑を両手で押さえ込んだ。
その瞬間、手首から肩にかけて、万力で締め付けられるような激痛が走った。
――汚い。
――奪われる。
――私の言葉が、ただの数字に変えられていく。
脳内に流れ込んできたのは、阿久津先生の絶望だった。
教え子たちを愛し、知性を愛した先生が、最期に直面した「身内の無理解」。
銀色に輝いていたはずの星屑が、息子たちの放つ『鉄錆の匂い』に侵食され、ドス黒い硝子のような塊に変貌しようとしていた。
「先生……やめてください、先生!」
僕は必死に、図鑑に宿る想いに語りかけた。
泥のような汚れが、僕の腕を伝って心臓へと這い上がってくる。視界が真っ暗になり、自分が何のために働いているのかさえ分からなくなりそうになる。
『湊くん、星を磨く者になれ』
あの推薦状の言葉が、闇の中で一閃の光を放った。
そうだ。僕は、この汚れを「なかったこと」にするためにここにいるんじゃない。この汚れの下にある、本当の価値を証明するために、今日この場所に立っているんだ。
「ステラさん! 研磨剤を! 一番強いやつを!」
「……わかったわ。受け取りなさい!」
ステラさんが投げ渡したのは、小さな銀色の小瓶。
中に入っていたのは、彼女が自分の兄の石を磨くために秘蔵していた、特殊な『ダイヤモンド粉末入りの涙液』だった。
僕はそれを図鑑の表面に振りかけ、力の限り、掌でこすり合わせた。
摩擦で熱が生じ、皮膚が焼けるような感覚。けれど僕は止めなかった。
――消えろ。
――先生の人生を、汚い金の話で終わらせるな。
シュッ、シュッという音が、書斎に響き渡る。
息子夫婦が呆気に取られて見守る中、僕の掌の下から、凄まじい光が溢れ出した。
それは第3話で見た銀色よりも、もっと鋭く、もっと強固な、プラチナのような輝き。
バリンッ、と何かが割れるような音がした。
図鑑にこびりついていた黒い泥が、一瞬にして乾き、砂となって霧散していく。
後に残ったのは、一点の曇りもない、神々しいまでに輝く三つの結晶。
「……バカな。なんなんだ、今の光は」
息子が腰を抜かして後ずさる。
ステラさんは悠然と歩み寄り、図鑑を拾い上げた。
「これが、先生の本当の『遺産』よ。あなたたちには一円の価値もないけれど、この世界にとっては、何物にも代えがたい宝物」
彼女は僕に歩み寄り、震える僕の肩を抱いた。
「……よくやったわ、浅野。今の研磨、プロでも至難の業よ」
***
店に戻った僕たちの前には、あの三つの『銀河の栞』が並んでいた。
僕の両手は摩擦で赤く腫れ、ヒリヒリと痛む。けれど、不思議と心は軽かった。
「ステラさん……僕、怖かったです。人間の欲望があんなに汚い匂いがするなんて」
「そうね。死んだ人よりも、生きている人間の方がよっぽど残酷よ。でも、浅野。あなたは今日、その残酷さを跳ね除けて、価値を守り抜いた。それは、単なる『バイト』の域を超えているわ」
ステラさんは、自分の首元にある『赤い結晶』をそっと外した。
そして、初めてそれを僕の目の前に置いた。
「私の兄はね、今日のあなたのように、誰かのために自分の命を削りすぎてしまったの。……磨ききれない汚れに自分自身を食われて、最後に残ったのが、この濁った赤色」
彼女の指が、赤い石をなぞる。
「私は、兄を救えなかった。だから、この仕事を続けている。兄が信じた『想いの価値』が、間違いじゃなかったと証明するために」
ステラさんは僕の腫れた手を取り、冷たい薬を塗ってくれた。
その手は、第1話で会った時よりも、ずっと「生きて」いるように感じられた。
「浅野。あなたの指には、兄が持っていたのと同じ『誠実な熱』がある。……いつか、この赤い石を、あなたと一緒に磨ける日が来るかもしれないわね」
窓の外では、夜の風が吹いている。
阿久津先生の三つの星屑は、今夜、予定通りそれぞれの教え子の元へと放たれるだろう。
一人は、挫折しかけている若き研究者。
一人は、孤独な育児に疲れた母親。
そして最後の一つは――。
僕は、自分の胸元に宿った微かな熱を感じた。
それは、先生が僕に託した「銀色の勇気」。
仕事とは、単に生活を支える手段ではない。
誰かの人生が遺した『輝き』を、次の誰かへと繋ぐための、祈りのようなリレーなのだ。
「……ステラさん。僕、もっと磨くのが上手くなりたいです」
「ええ。まずはその腫れを治すことからね。明日は……そうね。特別に高級なショートケーキでも買ってきなさい。経費で落としてあげるから」
ステラさんは少しだけ悪戯っぽく笑い、再び作業灯の下へと戻っていった。
研磨の音が、子守唄のように夜の事務所に響く。
僕の履歴書に書かれることのない、けれど僕の人生を最も深く肯定してくれる「仕事」が、そこにはあった。
(第4話・了)




