第3話:銀河の栞と、届かなかった推薦状
三度目の出勤日、東京は季節外れの春の嵐に見舞われていた。
叩きつけるような雨がアスファルトを白く染め、ビル風がリクルートスーツの裾を無慈悲に濡らす。
路地裏の古びたドアを開けると、カランという鈴の音と共に、今日は鼻の奥がツンとするような「古い紙」と、どこか懐かしい「金木犀」の香りがした。
「遅かったわね、浅野。外はひどい雨?」
ステラさんはいつもの作業台ではなく、カウンターで古い帳簿をめくっていた。首元で揺れる『血のように赤い結晶』が、雨音に合わせて脈打つように淡く光っている。
「すみません、電車が止まってしまって。……今日は、あの香りがしませんね」
「焦げた砂糖の匂い? ええ、今日の依頼品には『未練』がないからよ。あるのは、ただ静かな『約束』だけ」
ステラさんが顎で示した先には、一冊の古びた、けれど丁寧に扱われてきたことがわかる図鑑が置かれていた。
『世界の星空・決定版』。
子供向けのものだろうか。角は擦り切れ、背表紙は何度も糊で補修されている。
「今日の仕事は、この図鑑に挟まった『栞』の整理よ。依頼人は……浅野、あなたも知っている人物のはずよ」
僕が怪訝な顔で図鑑に近づいたその時、店の奥から一人の老紳士が現れた。
整えられた白髪に、温和そうな目元。僕は息を呑んだ。
「……阿久津、先生?」
「おや、湊くん。ここで君に会えるとは、思わぬ再会だね」
阿久津先生。僕が大学で唯一、本音で話をすることができた文芸学部の名誉教授だ。
就職活動に失敗し続け、大学にも顔を出せなくなった僕を最後まで気にかけてくれていた恩師。けれど、先生は三ヶ月前に末期の癌で余命宣告を受け、大学を去ったと聞いていた。
「先生、どうしてここに? 遺品整理なんて……まだ早すぎます」
「はは、準備は早いに越したことはないよ。私はね、自分の人生という物語の『結び』を、ステラさんに託そうと思っているんだ」
先生は穏やかに笑った。その瞳の奥には、里中さんの時に見たような「嘘」も、昨日の老人のような「孤独」もなかった。ただ、透き通った秋の空のような静寂だけがある。
「浅野、始めて」
ステラさんの冷ややかな声が響く。
「先生の図鑑に挟まった、三つの星屑。それを磨き上げなさい。それは先生が一生をかけて集めた、教え子たちへの『祝福』よ」
僕は震える手で図鑑を開いた。
ページの間には、押し花のように平らになった、三つの異なる色の結晶が挟まっていた。
一つ目は、柔らかな桃色。
二つ目は、鮮やかな若葉色。
そして三つ目は……まだ色が定まらず、乳白色に濁ったままの、小さな石。
「その白い石を、最初に見なさい。それが君に関係するものだ」
ステラさんの言葉に心臓が跳ねる。
僕は乳白色の石を手に取り、セーム革で慎重に拭い始めた。
――瞬間。
頭の中に溢れてきたのは、夕暮れのゼミ室の風景だった。
『湊くん、君の書く文章は、不器用だが誠実だ。言葉の裏側にある痛みを、君は決して見捨てない。それは、社会に出る上で武器にはならないかもしれない。だが、誰かの夜を照らす星にはなれる』
それは、僕が一番欲しかった言葉。
そして、その記憶の裏側に、もう一つの「映像」が見えた。
阿久津先生が、病室のベッドの上で、震える手でペンを走らせている。
宛先は、ある有名な文芸誌の編集部。
『私の最後の手紙として、一人の才能を推薦したい。浅野湊という青年だ。彼はまだ自分の光に気づいていないが……』
しかし、その手紙は、封をされる前に先生の手から滑り落ちた。
先生の病状が悪化し、意識を失ったからだ。
「……先生、これ……」
僕の目から、ボロボロと涙が溢れた。
先生は、僕を見捨ててなどいなかった。僕が「どこからも必要とされていない」と自暴自棄になっていた時、先生は命を削って、僕の未来を繋ごうとしてくれていたんだ。
「その石が濁っていたのは、君が自分を信じていなかったからよ」
ステラさんがいつの間にか僕の横に立ち、結晶を覗き込む。
「想いというのは、受け取る側が拒絶していれば、結晶として完成しない。君の『自己嫌悪』という汚れが、先生の『祝福』を覆い隠していたのよ」
僕は泣きながら、必死に布を動かした。
「ごめんなさい、先生。ごめんなさい……っ」
汚れを落とすたびに、石は少しずつ輝きを増していく。
乳白色のベールが剥がれ、中から現れたのは、夜明け直前の空のような、希望に満ちた『銀色』だった。
磨き終わった三つの石が、作業台の上で寄り添うように光っている。
阿久津先生は、その光を愛おしそうに見つめた。
「ありがとう、湊くん。これで私は、安心して旅立てる。……ステラさん、約束のものを」
ステラさんは頷き、カウンターの奥から「一振りの銀色の鍵」を取り出した。
それは、第1話で僕が見た『星屑射出機』の予備キーのように見えた。
「これは……?」
「先生との契約よ。先生の命が尽きた時、その三つの星屑は、特定の人物――君を含む教え子たちの『夢』の中に打ち上げられる。空の星になるのではなく、誰かの心の中に直接、光を届ける。それが先生の最後の講義」
ステラさんの表情が、初めて少しだけ柔らかくなった。
けれど、彼女はすぐに僕を鋭く睨んだ。
「でもね、浅野。これは特例よ。本来、この店は『終わった命』を整理する場所。生きている人間に、ここまで深く介入するのはルール違反なの」
「どうして、今回だけ特例なんですか?」
僕の問いに、ステラさんは答えなかった。
代わりに、阿久津先生が僕の肩に優しく手を置いた。
「湊くん。ステラさんもね、かつて『届かなかった光』を探しているんだよ。彼女が首に下げているあの赤い石。あれは、彼女がこの店を始めるきっかけとなった、彼女自身の『未練』そのものなんだ」
ステラさんの体が、微かに震えた。
「……余計なことを言わないで、教授。あなたはもう、整理される側の人間よ」
「はは、そうだね。……湊くん、最後にこれを受け取ってくれ」
先生が差し出したのは、図鑑の最後に挟まっていた、もう一つの小さな紙片だった。
それは、あの未完成だった『推薦状』の続き。
そこには、たった一行、力強い筆致でこう書かれていた。
『浅野湊よ。星を磨く者になれ。それが君の、天職だ』
***
雨が上がり、夜空には嘘のように澄んだ月が出ていた。
阿久津先生は「少し、夜風に当たってから帰るよ」と言って、静かに店を去っていった。
それが、僕が生きている先生を見た最後になった。
店の中に静寂が戻る。
僕は作業台に座り、自分の磨いた『銀色の石』を眺めていた。
第1話で打ち上げた老人の黄金色。第2話で里中さんが持ち帰った真紅。そして、この銀色。
「ステラさん」
「……何」
ステラさんは、背を向けたまま赤い石を弄っている。
「先生が言っていたこと……あの赤い石は、ステラさんの『大切な人』のものなんですか?」
長い沈黙。
雨上がりの湿った空気が、開いた窓から入り込む。
ステラさんはゆっくりと振り返った。その瞳には、今まで隠していた『人間らしい痛み』が、ありありと浮かんでいた。
「……私の兄だった人よ」
彼女の声は、夜風に溶けてしまいそうなほど細かった。
「この店を最初に作ったのは、兄だった。彼は人の想いを磨く天才だったけれど、たった一つ、自分自身の『絶望』だけは磨くことができなかった」
ステラさんは赤い石を握りしめる。
「この石は、兄が死んだ時に残した、未完成の星屑。私はね、いつか自分の腕を磨いて、この石を空へ還すために、ここで店を続けているの。……でも、どんなに磨いても、この赤色は濁ったまま。私の技術が足りないのか、それとも、兄がまだ私を許していないのか……」
初めて見る、ステラさんの弱さ。
僕は、自分の指先を見た。
先生が教えてくれた、不器用で誠実な僕の指。
「……僕が、手伝います」
「え?」
「ステラさん一人で磨けないなら、僕も一緒に磨きます。二人で磨けば、いつかその石も、空へ還せるくらい綺麗になるはずです」
ステラさんは目を見開き、僕を凝視した。
それから、ふっと、場違いなほどおかしそうに笑った。
「馬鹿ね。時給二千円のバイトが、店主に説教なんて。……百年早いわよ」
けれど、そう言う彼女の頬を、一筋の光るものが伝った。
彼女は慌てて背を向け、作業灯を消した。
「明日は休み。……でも、明後日は朝から現場よ。阿久津先生が遺した、膨大な蔵書の整理。力仕事になるわよ、覚悟しなさい」
「……はい」
僕は店を出て、夜空を見上げた。
まだ先生の星は昇っていない。けれど、僕の胸の中には、先生が遺してくれた銀色の光が、確かに宿っていた。
僕はもう、履歴書を埋めるための言葉を探さない。
僕が磨くべきは、自分のキャリアではなく、この世界に溢れる、名もなき光たちだ。
路地裏の角を曲がる時、ふと振り返ると。
ビルの窓から、ステラさんが一人、赤い石を磨き続けるシルエットが見えた。
その光景は、どんな宝石よりも、孤独で、そして美しかった。
(第3話・了)




