第2話:未完成のワルツと、琥珀色の嘘
深夜時給二千円の労働は、僕の生活を物理的にも精神的にも変え始めていた。
昼間、就職エージェントの担当者から「君、少し雰囲気が変わったね。前より落ち着いているというか、どこか遠くを見ているというか」と怪訝な顔で言われた。
無理もない。僕は昨夜、八十年間の孤独な人生が結晶化した黄金色の石を磨き、それを宇宙へ打ち上げたのだ。狭い面談ブースで語られる「キャリアプラン」や「市場価値」といった言葉が、磨き砂よりも空虚に感じられた。
その日の夜、僕は再び路地裏のビルを訪れた。
二度目の出勤。ドアを開けると、あの焦げた砂糖の香りに混じって、今日は少し「冷たい雨」のような匂いがした。
「遅い。三分。一秒につき一円、時給から引こうかしら」
ステラさんは相変わらず、作業灯の下でルーペを覗き込んでいた。彼女の銀髪には、どこか現実味のない光沢がある。
「すみません。少し大学の用事で……。今日は、どんな『遺品』があるんですか?」
僕が黒いエプロンを締めながら尋ねると、ステラさんは無言で店の隅を指差した。
そこには、昨日のようなゴミの山はなかった。代わりに置かれていたのは、一足の**『赤いハイヒール』**。
一流ブランドのものだろうか。形は美しいが、ヒールの付け根が不自然に折れ、表面には無数の擦り傷がついている。
「……これだけですか?」
「ええ。今日の依頼は『部分整理』よ。持ち主はまだ死んでいないわ」
僕は思わず手を止めた。
「遺品整理なのに、生きてるんですか?」
「死ぬのは肉体だけじゃない。情熱、恋心、夢……人がそれらを完全に捨て去る時、そこには遺品が発生する。それを私たちは『生前遺品』と呼んでいるの」
ステラさんはピンセットでハイヒールの内側を探ると、中から「濁った灰色」の結晶を取り出した。
昨日の黄金色とは対照的な、見ていて不安になるような色だ。
「これは、あるプロダンサーが、事故で足を壊した時に零した『諦め』の結晶。彼女は今日、この店にこれを買い戻しにくるわ」
「えっ、買い戻す? 打ち上げないんですか?」
「本人が『やっぱり捨てられない』と言えば、返却するのがこの店のルール。でも、一度結晶化した想いを心に戻すのは、肉体を裂くよりも痛みを伴うわよ」
ステラさんの言葉が終わるのと同時に、店のベルが鳴った。
入ってきたのは、杖をついた細身の女性だった。三十代半ばだろうか。凛とした顔立ちだが、その瞳には光が宿っていない。
「……私の『赤』は、まだありますか?」
彼女の声は震えていた。
ステラさんは無言で、僕の手元にある灰色の石を示した。
女性はそれを見た瞬間、崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。
「浅野、仕事よ。彼女の目の前で、その石を磨きなさい。汚れを落として、中身を彼女に見せるの」
僕は促されるまま、作業台に向かった。
女性――里中さんは、僕の手元を食い入るように見つめている。
セーム革に研磨液を馴染ませ、灰色の結晶をこする。
――瞬間、僕の脳内に、激しいピアノの旋律が流れ込んできた。
それは、目も眩むような舞台の照明。
拍手喝采。
筋肉の躍動、指先まで神経が行き届いた完璧なターン。
けれど、次の瞬間に聞こえてきたのは、嫌な鈍い音と、観客の悲鳴だった。
「っ……!」
あまりの情報の圧力に、僕は手を止めそうになる。
昨日の老人の石は、穏やかな海のような記憶だった。けれどこれは、煮えたぎるマグマのような、執着と絶望が混ざり合った記憶だ。
「……あの日、私は死んだんです」
里中さんが、消え入りそうな声で語り始めた。
「リハビリをしても、もう以前のようには踊れない。舞台に立てない私なんて、生きていても意味がない。だから、この靴を捨てた。踊りへの想いも全部、捨てたつもりだった。でも……」
彼女は自分の動かない足を、恨めしそうに叩いた。
「捨てたら、心が空っぽになってしまった。悲しみさえ感じない、ただの動く肉塊になったみたいで。……だから、あの痛みを返してほしいんです。絶望でもいいから、私が私であった証を」
僕は必死に布を動かした。
石の表面を覆っている「灰色のくすみ」は、彼女が自分に言い聞かせた『もう無理だ』という嘘の層だ。
それを剥ぎ取っていくと、中から鮮烈な、燃えるような**『真紅』**が現れ始めた。
それは、彼女が初舞台で感じた高揚感。
初めてトゥシューズを履いた時の、足の裏の痛みと喜び。
「……綺麗」
里中さんの瞳に、少しだけ潤いが戻った。
磨き上げられた真紅の結晶は、彼女の折れたヒールと同じ色をしていた。
僕はそれを、恭しく彼女に差し出した。
彼女がその石に触れようとした、その時。
ステラさんが冷酷なまでに鋭い声で制した。
「待ちなさい。それを手に取れば、あなたは一生、踊れない足で踊る夢を見続けることになる。一生、癒えない欠落感を抱えて生きていくことになるのよ。それでもいいの?」
里中さんの手が、空中で止まった。
「……いいわ。何も感じない幸福より、痛みにのたうち回る絶望の方が、私らしいから」
彼女は結晶を、ぎゅっと握りしめた。
その瞬間、結晶は彼女の手のひらの中に吸い込まれるように消えていった。
里中さんは顔を歪め、胸を押さえて喘いだ。結晶化した想いが心に戻る時の、精神的な拒絶反応だろう。
やがて彼女は、杖を頼りに立ち上がった。
その顔は、先ほどよりもずっとやつれて見えた。けれど、その瞳には確かに、呪いのような情熱が再燃していた。
「……ありがとう。お代は、あそこのカウンターに」
彼女が店を出て行く後ろ姿を見送りながら、僕は言いようのない無力感に襲われた。
果たして、これは「いい仕事」だったのだろうか。
彼女を、より深い苦しみに突き戻しただけではないのか。
「……ステラさん。これで、よかったんですか?」
ステラさんは、里中さんが置いていった封筒の中身を確認しながら、淡々と答えた。
「仕事に正解なんてないわ。私たちは依頼人の要望に応えるだけ。彼女は『自分』を選んだ。たとえそれが、地獄への片道切符だとしてもね」
ステラさんは作業台に散らばった銀色の粉を刷毛で払いながら、ふと、僕を見た。
「浅野。あなたは気づいたかしら。あの石の中に、一つだけ『嘘』が混じっていたことに」
「嘘……?」
「彼女は『事故のせいで踊れなくなった』と言った。でも、結晶の核にあったのは、事故が起きる前から彼女の中にあった『限界への恐怖』だった。あの事故は、彼女の心が無意識に引き寄せた『完璧な幕引き』だったのよ」
僕は背筋が凍るのを感じた。
星屑は、本人が自覚していない真実までも映し出してしまう。
僕が磨いていたのは、彼女の純粋な情熱だけではなく、その裏側にあった醜い逃避の跡でもあったのだ。
「……怖い仕事ですね、これ」
「そうよ。だから時給が高いの。人の魂の裏側を覗くには、それなりの対価が必要なのよ」
ステラさんはそう言うと、いつものように自分の首元にある**『赤い結晶』**に指を触れた。
その結晶は、先ほどの里中さんのものよりも、もっと深く、血のような色をしている。
「……ステラさんのその石も、誰かの『嘘』なんですか?」
僕が思い切って尋ねると、ステラさんは一瞬だけ、悲しげな少女のような顔をした。
けれどすぐに冷徹な店主の顔に戻り、僕の鼻先を指で弾いた。
「口が堅いことが条件だって言ったはずよ。……ほら、次の仕事。今度は本当の遺品整理。孤独死した老婦人が隠し持っていた、大量の『ラブレター』の山よ。焦げた砂糖の匂いが強くなってきたわ。気合を入れなさい、新人」
店の中に、再び甘い香りが満ち始める。
僕は、自分の胸のあたりをそっと触ってみた。
もし今、僕が死んだら、どんな色の石が残るだろうか。
五十社の不採用通知という「拒絶の層」に覆われた、小さく濁った石だろうか。
それとも、この店で誰かの人生を磨くことで、少しずつ輝き始めているのだろうか。
答えはまだ、夜の帳の中に隠れている。
僕は再びセーム革を手に取った。
誰かの人生を完結させるために。そして、自分という輪郭をいつか結晶化させるために。
深夜の事務所に、再びシュッ、シュッという研磨の音が響き始めた。
(第2話・了)




