第1話:星屑を磨く、深夜時給二千円の労働
二十二歳の春、僕の履歴書は、ただの「白い紙の束」に成り果てていた。
地下鉄の窓に映る自分の顔は、ひどく泥のように淀んでいる。リクルートスーツの肩に積もった薄い埃さえ、払う気力が湧かない。
浅野湊。二十二歳。地方大学の文学部。
趣味は特になし。特技、強み、自己PR――そんな項目を埋めるたびに、自分の輪郭が薄くなっていく気がした。五十社以上の不採用通知、いわゆる「お祈りメール」を受け取った今の僕にとって、社会は巨大な拒絶の壁だった。
「……時給二千円。交通費全給。未経験可。ただし、口が堅いこと」
スマートフォンの画面を指でなぞる。
深夜の求人サイトの隅っこ、怪しげなフォントで書かれたその募集要項が、今の僕には唯一の希望に見えた。
職種:遺品整理業。
会社名:『星屑遺品整理店』。
住所を頼りに辿り着いたのは、下町の路地裏、錆びた鉄階段の先にある古びたビルの一室だった。
看板には「遺品整理」の四文字よりも、その横に描かれた小さな星のマークの方が目立っている。
意を決してドアを叩く。
「……失礼します。アルバイトの面接に伺った、浅野です」
返事はない。代わりに、ツンと鼻を突く「焦げた砂糖」のような甘い香りと、金属を研磨する嫌な音が聞こえてきた。
おそるおそる中へ足を踏み入れる。
そこは事務所というより、時計屋と骨董品屋を混ぜてかき回したような、混沌とした空間だった。山積みの段ボール、色褪せた写真立て、動かなくなった古いラジオ。その奥、デスクに突っ伏すようにして作業をしている人物がいた。
「動かないで。今、一番繊細な層を剥離してるところ」
凛とした、けれどどこか世俗を離れたような声。
作業灯に照らされていたのは、透き通るような白い肌を持つ女性だった。銀色に近いブロンドを無造作にまとめ、黒いエプロンには銀色の粉がキラキラと付着している。
「……あ、はい。すみません」
「浅野、湊。二十二歳ね。履歴書はそこに置いて。……よし、取れた」
彼女がピンセットで持ち上げたのは、小さな、本当に米粒ほどの大きさの**『青い結晶』**だった。
それは彼女が手に持っていた古い万年筆のペン先から、無理やり引き剥がされたように見えた。
「それが、遺品整理……ですか?」
「そうよ。この店の『整理』は、ゴミを捨てることじゃない。遺された物の中から、故人が宇宙へ持ち帰り損ねた『純度の高い想い』を救い出すこと。私は店主のステラ。よろしく、新人」
彼女は顔を上げ、冷ややかな、けれど深い星空のような瞳で僕を見た。
面接らしい質問は何一つなかった。ただ、彼女は僕の手をじっと見つめ、「指が長いわね、磨き仕事に向いてる」とだけ言った。
「今日から働いてもらうわ。現場はすぐそこよ」
――こうして、僕の奇妙なお仕事体験が始まった。
***
現場は、築四十年の木造アパートの一室だった。
住んでいたのは、一週間前に孤独死したという八十歳の男性。
親族はおらず、役所からの依頼だという。
部屋の中は、お世辞にも綺麗とは言えなかった。
埃が積もった古い畳、読み古された新聞紙の山。けれど、不思議と嫌な臭いはしなかった。代わりに、あの店で嗅いだ「焦げた砂糖」の香りが、部屋の隅々に漂っている。
「浅野、あなたはこっちの押し入れにある段ボールを整理して。中身を全部出して、一点ずつ手に取って確認すること。軍手は外して」
「素手でですか? 怪我をするかも……」
「いいから。……感じなさい。ただのゴミと、そうじゃないものの違いを」
ステラさんはテキパキと、部屋の中央で何やら特殊な液体を霧吹きで撒き始めた。
僕は言われるがまま、押し入れの段ボールを開ける。中に入っていたのは、古ぼけた編みかけのセーターや、色褪せた映画の半券、それから大量の「白紙の原稿用紙」だった。
「……何もない。ただの紙だ」
一つずつ手に取る。指先に触れる紙の感触。
不採用通知を受け取り続けていた自分と、この孤独死した老人が重なる。
この人も、何かを成し遂げたかったんだろうか。でも、何も書けなかった。何も残せなかった。僕と同じように、社会の片隅で静かに消えていったんだ。
胸の奥がチリりと痛んだ、その時だった。
一番底にあった、一冊の小さなノートに触れた瞬間。
指先に、熱い振動が伝わってきた。
静電気のような心地よい痺れ。
「っ、これ……」
ノートを引っ張り出すと、その表紙から、ボロボロと砂のような光の粒が溢れ出した。
それは暗い部屋の中で、まるで蛍のように淡く、けれど力強く明滅している。
「見つけたみたいね。それが今回の『星屑』よ」
いつの間にか背後に立っていたステラさんが、ノートを覗き込む。
ノートの中身は、日記だった。
ただし、書かれていたのは日々の出来事ではない。
『今日の夕焼けは、昨日より三秒長く輝いていた気がする』
『隣の家の猫が、今日は僕にだけ挨拶をしてくれた』
『コンビニの店員の女の子が、お釣りを渡すときに少しだけ微笑んだ。それだけで、明日も生きていけると思った』
そこには、世界に対する切実なまでの「感謝」と、ささやかな「幸福」が、震える文字で綴られていた。
「この人はね、作家になりたかったわけじゃないの。ただ、世界がどれほど美しいかを自分だけに証明し続けようとした。その純粋な執着が、死後、こうして結晶化する」
ステラさんがノートの背表紙を軽く叩くと、中から親指ほどの大きさの、透明な琥珀色の結晶がポロリと転がり落ちた。
それは驚くほど重く、そして温かい。
「これを店に持ち帰って磨く。それが私たちの仕事。磨ききった星屑は、宇宙の質量の一部として空へ還る。そうすることで、彼の人生は初めて『完結』するのよ」
「完結……」
「ええ。人生の価値は、年収や地位や、誰に看取られたかで決まるんじゃない。最後にどれだけ純粋な想いを残せたか。……でも、今のままじゃこの石は曇りすぎてる。彼の後悔が、表面にこびりついてるから」
ステラさんは結晶を僕に預け、真剣な表情で言った。
「浅野、これを店まで運んで。落としたら承知しないわよ。それは、一人の人間の八十年間の重みなんだから」
***
店に戻った僕を待っていたのは、過酷な「研磨作業」だった。
ステラさんから渡されたのは、セーム革のような柔らかな布と、青い小瓶に入った不思議な液体。
「これで、表面の『くすみ』だけを拭き取って。力を入れすぎると、中にある想い出が壊れる。優しく、けれど確実に汚れだけを落とすの」
僕は作業台に向かい、一心不乱に結晶を磨いた。
時給二千円。なんて割のいいバイトだと思っていたけれど、実際は精神を削るような作業だ。
布を滑らせるたびに、頭の中に断片的な映像が流れ込んでくる。
――雨の日の駅のホーム。
――誰にも褒められなかった、一生懸命な仕事。
――帰り道に買った、一個の林檎の甘さ。
それは、この老人が生きていた証。
誰にも知られず、評価もされなかった、けれど確かにそこに存在した「命の輝き」。
「……ああ、そうか」
自然と涙が溢れた。
不採用通知に怯え、自分には価値がないと嘆いていた自分の矮小さが恥ずかしくなった。
この老人は、誰にも認められなくても、自分の世界を愛していた。その愛が、今、僕の手の中で輝こうとしている。
「ステラさん……これ、綺麗になりました」
数時間の作業の後。
曇っていた琥珀色の結晶は、まるで内側に太陽を閉じ込めたような、透き通った黄金色に輝いていた。
ステラさんはそれを受け取ると、満足げに頷いた。
「合格よ。いい筋をしてるわ」
彼女は店の裏口へ向かった。
そこには、天体望遠鏡のような形をした、巨大な真鍮製の装置が設置されていた。
「星屑射出機。これで、想いを宇宙の座へ戻す」
彼女が結晶を装置の底へセットし、レバーを引く。
静かな、けれど心臓に響くような駆動音。
次の瞬間、黄金色の光の筋が、深夜の東京の空へと真っ直ぐに伸びていった。
その光は高層ビルを抜け、雲を割り、星の見えない都会の夜空に、たった一つだけ、新しい星を刻んだ。
「……あ」
僕は空を見上げたまま、言葉を失った。
あんなに孤独だった老人の人生が、今、何百万光年の先まで届く光になった。
「仕事っていうのはね、浅野。誰かの欠けた場所を埋めることだけじゃないの」
ステラさんは、夜風に銀髪をなびかせながら言った。
「この世界にある、目に見えない価値に名前をつけて、あるべき場所に届けること。それも立派なお仕事よ」
彼女は僕に、千円札二枚を差し出した。
「初日の給料。……明日も来る?」
僕は、自分の手のひらを見た。
結晶を磨いた感触が、まだ指先に残っている。
履歴書を汚していた「無価値」という文字が、少しだけ薄くなった気がした。
「……はい。お願いします」
こうして、僕の「星屑遺品整理士」としての、不思議で切ない日々が始まった。
まだ誰も知らない、けれど世界で一番大切な、お仕事の話。
その時の僕はまだ気づいていなかった。
ステラさんが時折、自分の胸元に下げた「ひときわ赤く輝く、未完成の結晶」を悲しそうに見つめている理由を。
そして、この店に迷い込む客たちが、生きた人間だけではないということを――。
(第1話・了)




