第9話 請求書は高くつき
窓辺に置かれたクリスタルの花瓶が、朝陽を浴びて虹色の光彩を放つ。
その煌めきの中に、昨夜の証拠品――アンバー子爵のサファイヤの指輪が転がっていた。
私は羽ペンをインクに浸し、上質な羊皮紙の上に、流麗な文字を躍らせる。
愛の告白でもなければ、絶縁の呪詛でもない。極めて理知的で、冷徹で完膚なきまでに相手を破滅させるための――「請求書」だった。
「……十年間、一日二十四時間。エルランド郷伯爵邸の地下倉庫、ワインセラー、および厨房全域にわたる常時【静止】の維持。魔力供給に対する基本料金、ならびに深夜早朝の緊急対応費。……さらに、精神的苦痛に伴う慰謝料を上乗せして、と」
私が計算を終えた数字は、地方の小さな領地が一つ買えるほどの法外な金額になった。これは正当な対価だ。 私の魔法は「便利」などという安っぽい言葉で片付けられるものではない。腐敗という世界の理に抗い、鮮度という名の「奇跡」を維持し続けた技術料なのだから。
「エリス、小難しい顔をして何を書いている。そんな紙切れよりも、このドラゴン肉の解体法を教えろ。この部位は、火を通しすぎると固くなるようだぞ」
ガルドが巨大な肉塊と格闘しながら声をかけてきた。彼は昨夜、あれほどの覇気を放った存在だとは思えないほど、今はただの「食にうるさい相棒」に戻っている。その切り替えの早さが、今の私にはこの上なく心地よかった。
「これは『お片付け』のための書類よ、ガルド。……不法に占有されていた私の時間を、金銭という形に変換して取り戻すためのね」
「フン、人間は面倒なことをする。俺なら、あいつらごと食い尽くして終わらせるがな」
「お腹を壊すからやめた方がいいわ。それに暴力は最後の手段よ。……最も残酷な報復は、彼らが最も執着している『地位』や『財産』を、合法的に削り取ること」
不意に、店の入り口に、規律正しい馬蹄の音が響いた。
現れたのは、白銀の鎧を纏ったレオンハルト騎士団長だった。
彼は店内に漂う、昨夜の乱闘の残り香――微かな血の匂いと、ガルドが放った冷気の残滓を敏感に感じ取ったようだった。アイスブルーの瞳が、一瞬だけ鋭く細められる。
「……昨夜、ここで何かあったようだな。エリス殿」
「ええ。少々、行儀の悪い害虫が迷い込みましたので。私の相棒が追い払ってくれましたわ」
私は平然と答え、書き上げたばかりの羊皮紙と、サファイヤの指輪をレオンハルトの前に差し出した。
「騎士団長閣下。常連客としての『貸し』を、一つお願いしてもよろしいかしら?」
「……私への依頼か。内容によっては、王命に等しい重みを持つが」
「極めて私的な、事務手続きの代理人ですわ。この請求書を、私の実家であるエルランド郷伯爵家へ届けていただきたいの。……そして、もし支払いが滞るようであれば、騎士団との契約不履行に関する『査察』を、正式に開始していただきたいのです」
レオンハルトは請求書の数字を一目見て、僅かに眉を動かした。
彼は軍人だ。兵站、すなわち食糧の鮮度維持がいかに莫大な予算を食うかを知っている。
「……なるほど。これは請求書ではなく、もはや死刑宣告だな」
「あら、ただの商取引ですわ。彼らは私の技術を買い、代金を支払わずに享受し続けてきた。……私は今、その未払い分を回収するだけ」
私は微笑んだ。かつて父が私に向けた、冷酷な「追放」の微笑みを、百倍の優雅さで上書きするように。
「サファイヤの指輪は、アンバー子爵が昨夜、我が店を襲撃した際の証拠品です。貴族による店舗への不当な暴力。……これを騎士団が公にすれば、エルランド郷伯爵家とアンバー子爵家の名声は、地の底に落ちるでしょう。それを避けるための、唯一の和解条件がこの金額の支払いです」
レオンハルトは、しばらく私を見つめていた。
「承知した。この書状は、私が責任を持って伯爵の手元に届けよう。……君の言う通り、時間は決してタダではない。それを教えるのは、法と剣の役割だ」
レオンハルトは指輪と羊皮紙を預かり、店を出ていった。
彼の背中を見送りながら、私はふうと息をつき、椅子に身を預けた。
数日後。
王都から届いた報せは、一つの時代の終わりを告げるものだった。
エルランド郷伯爵家は、私が出した法外な請求額と、騎士団による査察の脅しに屈し、家財のほとんどを売り払って支払いを行ったという。
だが、金銭的な破綻は序章に過ぎなかった。
「娘の功績を隠蔽し、不当に酷使していた」という醜聞は、騎士団の口から社交界へと瞬く間に広がり、彼らと関わりを持とうとする貴族は誰一人いなくなった。
カイニス子爵も、爵位剥奪に近い謹慎処分を受けた。妹のマリアベルは、困窮する生活に耐えられず、家を飛び出したとも、修道院に送られたとも……。
実家という名の巨大な伽藍は、魔法という柱を失い、自らの重みに耐えきれずに自壊したのだ。
「……終わったわね」
私は、店裏のテラスに出て、辺境の広大な森を眺めた。
風が、新しい季節の香りを運んでくる。
私の胸を塞いでいた、重い鉛のような過去は、もうどこにもない。
「エリス。ぼーっとするな! 腹が減りすぎて、俺の胃袋が反乱を起こしているぞ!」
店の中から、ガルドの野太い声が響く。
私は苦笑し、温かな厨房へと足を進めた。
「今行くわよ。……今日は、これからの自由を祝して、とっておきの『最高の一皿』を作ってあげる」
請求書によって得た大金など、私には必要なかった。
ただ、自分の価値を認めさせ、奪われた時間への決別を果たすこと。 それだけで、私の魔法は真の意味で完成したのだ。
明日は何を止め、何を輝かせようか。




