第7話 元家族の来襲
私は、磨き上げたばかりのカウンターの銀器を置き、そっと窓の外へ視線を走らせた。
泥をつけたエルランド郷伯爵家の紋章が、傾きかけた西日に照らされている。
「……来たわね」
扉のベルが鳴った。流れ込んできたのは、辺境の涼やかな空気ではなく、王都の裏通りのような、湿り気を帯びた異臭だった。
「……エリス! エリス・ヴァーミリオン! どこだ、そこにいるのか!」
最初に店内に踏み込んできたのは、父――エルランド郷伯爵だった。
かつてはライオンの如き威厳を誇っていたその顔は、いまや不眠と心労によって土気色に染まり、眼窩は黒々と落ち窪んでいる。纏っている上質な外套も、手入れが行き届かぬせいか綻びが見えた。
その後ろには、かつての婚約者のアンバー子爵が立っていた。カイニス・アンバー。
王都で「麗しき騎士」と持て囃されていたその美貌は、焦燥によって歪み、剥げ落ちた金メッキのような浅ましさを露呈させている。
「あら、これは珍しいお客さま。……いいえ、迷子かしら?」
私は、極上のシルクを滑らせるような貴族の笑みを浮かべた。
カウンター越しに彼らを見据える私の背筋は、伯爵邸で蔑まれていた時よりも、ずっと高く、誇り高く伸びている……はず。
「エリス、あなたは……! こんなところで何を……!」
カイニスが、店内の調度品を見て絶句した。
廃屋同然の外観からは想像もつかない磨き抜かれた石の床、壁にかかった上品な絵画、何よりこの空間を支配する「時を止めたような」完璧な調和。
「カイニスさま、こんなところとはお言葉が過ぎますわ。ここは私の城、私の領地。無作法はおやめくださいませ」
「黙れ エリス、今すぐ屋敷に戻るのだ!」
父が、震える指先で私を指差した。声には、かつての命令する者の権威はなく、溺れる者が藁に縋るような見苦しい執着が混じっている。
「お前がいなくなってから、我が家がどうなったか知っているのか。倉庫の食料は腐り、ワインは酢に変わり、領民は暴動寸前だ……。騎士団からは違約金を請求され、我が家は……我が家は破滅の淵に立たされているのだぞ!」
「ええ、風の便りに伺っておりますわ。随分と賑やかなことになっていらっしゃるようで」
「お前のせいだ! お前が何か呪いをかけたのだろう!」
「とんでもない」
「黙れ。貴様の、あの忌々しい『物を腐らせないだけ』の薄気味悪い魔法を呪いに変えたのだ」
私は思わず、鈴を転がすような高い笑い声を上げた。
「呪い? いいえ、お父さま。私はただ、『私の魔法』を引き上げただけですわ。あなたが『冷蔵庫』と呼んで蔑んだ、あの地味な魔法を。……魔法が解ければ、時は流れる。腐るべきものは腐り、滅びるべきものは滅びる。この世界の至極真っ当な摂理ではございませんこと?」
「エリス……あなたはわかっていないのか」
カイニスが、一歩前に進み出た。
彼は、かつて私が彼の甘い言葉に酔っていたと信じ込んでいる、あの独りよがりの優越感に満ちた瞳で私を見つめる。
「つまり、伯爵はあなたを許すと言っているんだ。私もマリアベルとの婚約は白紙に戻す。君が屋敷に戻り、再びその力で伯爵家を支えるなら、私はあなたを妻に迎える。……どうだ、これ以上の喜びはないだろう?」
私は、目の前の男を、標本箱の中に閉じ込められて干しあがった虫を見るような目で見つめた。
そうね、過去の私はこの男の微笑みに、胸が高鳴らせたこともあったかもしれない。
でも今の私には、安っぽい三流芝居の台詞よりも退屈に響いた。
「喜び? ……滑稽ですわね、カイニスさま。私は、一度逃れた泥舟に、再び乗り込むほど愚かではありません。それに、私の夫となるお方は、少なくとも私を『道具』ではなく『一人の女性』として、そして『この店の主』として尊重してくださる方でなければ」
「な、何だと……! あなたを人並み以上に扱う男など、私を除いているはずが――」
その口元が、凍りついた。
ガルドが、ゆっくりと圧倒的な重圧を伴って、私の隣に立ったからだ。
二メートルを超える巨躯。岩石のような筋肉。人ならざる者の気配を隠そうともしない、黄金の瞳。
彼は私の肩に、大きな手を――保護でもあり、占有の誇示でもあるように見えた――置いた。
「おい、小僧。今、なんて言った?」
地底から響くようなガルドの声に、カイニスは腰を抜かさんばかりに震え、数歩後退った。
「エリスが人並み以下だと言いたいのか? 笑わせるな。この女が握るナイフ一本、作り出す一皿が、どれほどの舌をうならせ、喜ばせているか。貴様らのような腐臭のする連中には一生理解できまい」
「……ま、魔獣……! なぜ、こんな化け物がエリスの傍に……!」
父が絶叫し、逃げ出そうと扉に手をかける。
「お父さま。それが、あなたの言う『役立たず』が手に入れた現実ですわ」
私はカウンターを離れ、彼らの方へゆっくりと歩み寄った。一歩、一歩、私の靴音が床に響くたびに、彼らの顔から血の気が引いていく。
「あなたたちは、私の時間を奪い、私の心を凍らせてきた。……けれど、そのおかげで私は気づけたのです。私の【静止】は、誰かの傲慢な生活を維持するためではなく、おいしい食事と人々の笑顔を守るためにあるのだと」
私は、扉を大きく開け放った。
外には、辺境の厳しい、けれど透明な夕闇が広がっている。
「お帰りください。エルランド郷伯爵とアンバー子爵。ここには、あなたたちのお腹に入るものは、水一杯分たりともございません」
「エリス! 待て、考え直せ! 私を、父を見捨てるというのか!」
「見捨てたのは、あなた方の方ですわ」
私は、彼らを睨みつける。
「さあ、あなた達の腐敗した日常へ。お戻りなさいませ」
父と、プライドを粉々に砕かれたカイニスが、這うようにして店を出て行く。
彼らが乗り込んだ馬車が、逃げるように走り去る音を聞きながら、私は深く溜息を吐いた。
胸の中にあった最後の未練が、秋風に舞う枯葉のように消えていく。
「……終わったな、エリス」
ガルドが、私の背後で呆れたような、けれど彼にしては随分優しい声を出した。
「ええ。最高の気分だわ、ガルド。……ねえ、何だかお腹が空いてしまったわ。あんな連中の相手をしたら、不味いものでも食べたような気分になって」
「ハッ、違いない。よし、俺が森の奥で獲ってきた最高に脂の乗った鹿の心臓を出せ。今夜はそれをつまみに乾杯だ」
「ええ、喜んで」
私は、扉を閉めた。
明日からはまた、おいしい匂いと、笑顔に満ちた日常が始まる。
かつてないほどの充足感に包まれながら、調理場へと向かった。




