第6話 実家の崩壊
幸福、平穏という名の果実が、これほどまでに脆く、腐りやすいものだとは。
かつて私が素材の「時間」を支えていた白亜の屋敷――エルランド郷伯爵邸。いまやその回廊を支配しているのは、薔薇の香水ではなく、胃の腑を逆なでするような甘ったるい腐敗臭だった。
王都から届く風の噂は、私の想像を遥かに超えていた。
私が屋敷を去って、わずか数ヶ月。伯爵家の繁栄を支えていた土台は、まるで砂の城が波にさらわれるように、無残に崩れ去りつつあるという。
「……汚らわしい。 この肉、腐っているわ! 誰か、誰か早く片付けなさい!」
かつての食卓で、異母妹のマリアベルが金切り声を上げている姿が目に浮かぶようだ。
彼女が誇った「爆炎」のスキルは、敵や魔物を焼き殺すことはできても、その命を繋ぐことはできない。破壊の力は、日常の積み重ねの前では、あまりにも無力で、野蛮な火遊びに過ぎない。
父も妹も、あまりにも無知だった。私が毎日、目立たぬように屋敷中を歩き回り、地下の食料庫、ワインセラー、あるいは厨房の隅々に至るまで【静止】の魔力を編み込んでいたことを。
領地の特産物で誇りでもあった「季節外れの最高級食材」も、「数十年変わらぬ色香を放つヴィンテージワイン」も。それは私の魔力が作り出した、美しき停滞の産物だったのだ。
私が魔法を解いたその瞬間から、屋敷の時間は狂ったように加速を始めた。
まず異変が起きたのは、自慢のワインセラーだったという。 伯爵家が数世代にわたって蒐集してきた、王室御用達の銘酒たち。私の【静止】によって酸化を免れ、完璧な熟成状態で「固定」されていたそれらは、魔法の消失と共に、溜め込んでいた歳月を一気に爆発させた。
栓を抜けば、芳醇な香りの代わりに、鼻を突く葡萄酢の刺激臭が噴き上がる。数百本の黄金の液体は、一夜にしてただのまずい水へと変わり果てた。
次に襲ったのは、兵站の崩壊だ。 ヴァーミリオン家が王都の騎士団に納めていた「数ヶ月は腐らない携行食」。その魔法の秘密が私の指先にあったことを、父は失念していたらしい。
演習に出向いた兵士たちが袋を開けた時、そこにあったのはカビに覆われたパンの残骸と、糸を引く肉だった。
「不潔な管理体制」の果ての産物。これは「契約の不履行」に他ならず。誇り高き騎士団からの糾弾の声は、伯爵家の信用を失墜させた。
「……あいつだ。あの出来損ないの女が、何か細工をしたに違いない!」
父、エルランド郷伯爵が、広間で髪を振り乱して咆哮しているという。
鏡を見れば、そこにはかつての威厳など微塵もない、没落の影に怯える矮小な男が映っていることだろう。
彼は気づいたのだ。「冷蔵庫」と蔑み、いつでも代わりがいると信じていたその道具こそが、屋敷の心臓であり、血管であったことに。
一方、私の営む「とわずがたり」には、今日も清浄な風が吹き抜けている。
「エリス。王都のほうで、ヴァーミリオンとかいう名の伯爵家が、えらい騒ぎになってるらしいぜ」
カウンターで、ガルドが仕留めてきたばかりの獲物を解体しながら無造作に言った。
彼は、血に濡れたナイフを光に透かし、私の方をチラリと見る。
「なんでも、領地の食料がことごとく腐って、飢えた領民たちが暴動を起こしかけてるって話だ。騎士団も契約を打ち切って、多額の違約金を請求したとか……。おい、そこはアンタのいた家だよな?」
「……ええ。私の、かつての『職場』だった場所ね」
私は、磨き上げたばかりの銀のシュガーポットに、一粒の角砂糖を落とした。
カラン、という澄んだ音が、店内に優しく響く。
「馬鹿な連中だ。アンタという宝を、文字通り腐らせちまったんだからな」
「あら、私は腐っていませんわよ、ガルド。ご覧の通り、今が一番『食べ頃』ではなくて?」
私が冗談めかして微笑むと、ガルドはフンと鼻を鳴らした。
「ああ、そうだな。アンタの作る飯を食うたびに、俺は自分が、世界で一番の美食家に思えてくる」
彼のその言葉だけで、私には十分だった。
かつての家族が、どれほどの絶望に沈もうと。
豪華絢爛なシャンデリアの下で、腐敗した料理を前に絶叫しようともうどうでもいい。
私の【静止】を拒絶し、私の価値を零に等しいと断じた彼らが、自ら選んだ未来なのだ。
私は、窓辺に置いた花瓶に挿した薔薇に触れた。
一週間前にガルドが森から摘んできた、名もなき野薔薇。
普通の薔薇ならば、とうに花弁を散らし、黒ずんでいるはず。
私の指先が触れた瞬間から、薔薇は「世界で最も美しく咲き誇った瞬間」を維持し続けている。
(……時を止めることは、残酷なことかもしれない)
一瞬、そんな思いが頭をよぎる。 でもこうも考えてみよう。
流れる時の中で、何一つ守れず、全てを汚し、朽ちさせていく彼らの生き方よりは、ずっと誠実ではないかしら。
ふと、店へと続く街道の方から、複数の馬の蹄の音が聞こえてきた。
常連の冒険者たちの軽快なリズムではない。重く、焦燥に駆られた、金属的な音。
「ガルド」
私は、視線を上げずに呼びかけた。
ガルドは即座にナイフを置き、獰猛な笑みを浮かべて立ち上がる。
「わかってるさ、エリス。追い返せばいいんだろ」
「いいえ。追い返すのは私がしますわ。あなたは、最高のお肉を焼く準備をしていてちょうだい」
私はエプロンを整え、ゆっくりと扉へと歩み寄った。
扉の向こう側で、誰かが必死に、そして傲慢にノックを繰り返している。
かつての私なら、その音に怯え、跪いたことだろう。
「さあ……お望みの『冷蔵庫』は、もうどこにもいないことを、教えてあげなくてはね」
私は扉の取っ手に手をかけ、艶やかに唇を吊り上げた。




