第5話 常連客に崇拝されても
辺境の夜は、ビロードのようになめらかで深い闇に満ちている。かつて王都の伯爵邸で眺めていた夜空は、街の灯りに遮られ、どこか色褪せて見えたものだけれど。
この「とわずがたり」から見上げる星々は、まるで神々が零したダイヤモンドの粉のように残酷なまでに美しく瞬いている。
開店から数ヶ月。
私の生活は、かつての閉塞感が嘘のように、色彩豊かな活気に満ち溢れていた。
朝は、ガルドが森から持ち帰る新鮮な、あまりにも新鮮すぎる食材(時には地響きと共にドラゴンの尾が届くことすらある)を吟味し、昼は遠路はるばるやってくる冒険者や騎士たちの胃袋を満たす。
そして夜は、自らの魔力と真剣に対話し、新たなる一皿の構想に耽る。
今やこの店は、辺境の単なる飲食店ではない。
「死にたくなければ、あの魔女の飯を食え」
どこか物騒でこの上なく光栄な噂が、冒険者たちの間で聖書の一節のように語り継がれているらしい。
「……エリス。客だ。また、あの騒々しい連中が来たぞ」
厨房の奥で、ガルドが肉の塊を解体しながら、鬱陶しそうに耳を動かした。
扉が開かれると同時に、熱狂的な歓喜の渦が流れ込んでくる。
「聖女さま! 今日も命を繋ぎに参りましたぞ!」
「ああ、この香りを嗅ぐだけで、呪いが浄化される気分だ……!」
入ってきたのは、この辺境を根城にする高ランク冒険者パーティ「銀翼の鷹」の面々だった。
彼らは席に着くなり、私に向かって祈りを捧げるかのような敬虔な眼差しを向けてくる。
聖女? 呪いの浄化?
私は思わず、手元のワイングラスを拭く手を止めて苦笑した。
「皆さま、大袈裟ですわ。私はただのごはん屋の店主。聖女など、どこにもおりません」
「いいえ。お嬢さんの料理は、もはや奇跡の領域だ!」
リーダーの騎士が、身を乗り出して力説する。
「先日のことだが。うちの魔術師が毒沼で致命的な衰弱に陥ったんだ。だが、あんたが持たせてくれた『凍結ドライフルーツ』を一口食わせただけで……一気に回復した。あれは命の輝きそのものだった!」
彼らが私を崇める理由は、単に「おいしいから」だけではない。
私の【静止】によって最高の鮮度と栄養素が固定された食事は、身体の魔力回路を活性化させ、極限状態にある者の精神をも癒やす。
彼らにとって、私の店は戦場(森)における唯一の聖域であり、私はその女神というわけだ。
だが、私自身の心は、彼らの熱狂から一段引いた冷静さを保っていた。
崇拝。それは時に、愛よりも重く、憎しみよりも厄介な鎖になり得ることを、私は貴族社会で嫌というほど見てきたから。
「女神さま、今日のおすすめは何かしら?」
女魔術師が、夢見るような瞳で私に問いかける。
「今日は……そうね。ガルドが仕留めてきた大猪の心臓を、新鮮な香草とバルサミコで煮込んだものがございますわ。肉が最も弾力を持つ瞬間に時を止めてありますから、噛みしめるたびに森の息吹が溢れ出す、そんな料理ですよ」
「ああ……聞いているだけで、魂が震えるわ……」
彼女たちは、供された皿を前に、高貴な儀式に臨む騎士のように居住まいを正した。
一口。瞬間、店内の空気が一変する。
恍惚。陶酔。彼らは言葉を失い、ただただ私の魔法が封じ込めた「一瞬の永遠」を咀嚼し、嚥下し、自らの血肉へと変えていく。
その光景は、端から見れば異様だったかもしれない。
廃墟を改装した店内で、屈強な冒険者たちが一人の若い女――エプロンを纏っただけの私――を囲み、供物を捧げる信者のように食事をしているのだから。
ふと視線を感じて振り返ると、ガルドがカウンターの隅で、冷めたような、同時にどこか愉快そうな目でこちらを見ていた。
「人気者だなあ、エリス。王都の王様も、これほどの忠誠心は得られまいよ」
「茶化さないで、ガルド。私はおいしいものをおいしいままに出したいだけよ」
「その『だけ』が、この世で最も難しく価値のあることだってのを、あの連中は本能で悟ってるんだ。……まあ、俺にとっては、アンタが俺の飯を作ってくれる限り、奴らが拝もうが踊ろうがどうでもいいがな」
ガルドはそう言うと、退屈そうにあくびをした。
彼だけは違う。 彼は私を聖女とも女神とも思っていない。
「極上の飯を作る女」であり、自分と等価の契約を結んだ相棒だと思っている。
恋愛感情とも、崇拝とも違う、剥き出しの生存本能に基づいた信頼。
大男が私の隣で平然と肉を喰らう姿。その遠慮の欠片もない光景こそが、今の私にとって最大の救いであり、癒やしだった。
「お嬢さん、一つ頼みがある」
食後の余韻に浸っていたリーダーの騎士が、改まった声で言った。
「あんたの料理を、もっと多くの……せめて、この辺境の砦で傷ついた兵士たちにも分け与えてもらえないだろうか。金なら、我々や冒険者組合が保証する」
私は、静かに首を振った。
「お断りします。私は、私の手の届く範囲でしか、魔法を使いたくないので」
「だが、あんたの力があれば、救える命が――」
「救える命があれば、奪われる命もあります。私はかつて『便利だから』という理由で、私の時間を、人生を奪われ続けました」
私の声は、冬の月光のように冷たく、凛として響いた。
「私はもう、誰かのための救世主になるつもりはありません。私は私のために料理を作り、それを喜んでくれる方だけに提供します。それが私の、幸せだから」
私の言葉に含まれた、抜き身の剣のような鋭さに冒険者たちは息を呑んだ。
彼らはようやく気づいたのかもしれない。 目の前にいるのは、慈悲深い聖女などではない。
自らの自由を何よりも愛し、それを守るためなら世界をも突き放す、一人の傲慢な魔女であることを。
深い沈黙。だが、それは拒絶の沈黙ではなかった。
「……それでこそ、我らの女神だ」
誰かがポツリと漏らした。
彼らの瞳に宿ったのは、先ほどよりもさらに深い、もはや信仰に近い敬意だった。
「参ったな。……ますます、あんたに惚れちまいそうだ。もちろん、女としてじゃねえ。一人の人間としてな」
騎士が豪快に笑い、銀貨をテーブルに残して立ち上がった。
他の者たちも満足げな、ついでに少し背筋を正したような表情で店を後にする。
嵐が去った後のような静けさの中、私は残された皿を片付け始めた。
「……惚れちまう、か」
ガルドが、皿を洗う私の背中に声をかけた。
「人気者は辛いな、エリス。そのうち、王都から軍勢でも攻めてくるんじゃないか? 『我らの女神を奪還せよ』ってな」
「あら、その時はあなたが追い返してくれるんでしょう? 私のボディーガードさま」
「フン。デザートが豪華なら、考えてやってもいい」
私は振り返り、獰猛に笑う巨漢に微笑みを返した。
外ではまた、風が森のざわめきを運んできている。
崇められ、求められ、けれど誰にも所有されない。 この辺境の廃屋で築き上げた、私の小さな王国。
私はグラスを光に透かし、透明度を確認する。
明日は、どんなお客様が来るかしら。
あの銀髪の騎士団長が、また気難しい顔をして現れるのかしら。
どちらにせよ、私の【静止】した世界は、今日も最高の鮮度を保っている。




