第49話 腐臭の侵入者と仕組まれた簒奪、宿場町領主への道【前編】
魔の森が、ねっとりとした湿気を帯びた薄霧に包まれていた午後のことである。
陽光は分厚い雲に遮られ、店内を照らすアンティークランプの灯りだけが、私と「とわずがたり」の空間を照らし出している。ガルドは店の裏手で薪割りに精を出し、コリンは森の浅瀬へ薬草を摘みに出かけていた。私一人が店番をしていたその時、軋むような音を立てて扉が開かれた。
「いらっしゃいませ……」
入ってきた客は背の高い、ひどく陰気な男だった。落ち窪んだ眼窩の奥には、爬虫類を思わせる冷たく粘着質な光が宿っており、血の気の失せた薄い唇が不愉快そうに歪んでいる。
身に纏っているのは上質な黒天鵞絨の外套で、指先には大粒の宝石をあしらった指輪が光っていた。金払いは悪くなさそうだが、その全身から立ち上る得体の知れない気配が、私の肌を粟立たせた。
「……飯を頼む。適当にある食材で構わん。早くしろ」
男は横柄な口調で言い捨てると、一番奥の薄暗いテーブル席に腰を下ろした。
「承知いたしました。少々お待ちくださいませ」
私は厨房へと身を翻した。適当な食材で、と言われたものの料理人としての矜持が手抜きを許さない。
昨日、ガルドが仕留めてきたばかりの若き魔獣――『森角鹿』のロース肉が保冷庫にある。私は肉の塊から分厚い一枚を切り出し、肉叩きで繊維を丁寧にほぐした。塩と挽きたての黒胡椒で下味をつけ、小麦粉、卵、細かく砕いたパン粉をたっぷりと纏わせる。
鉄のフライパンに黄金色のラードを熱し、そこへ衣をつけた肉を滑り込ませた。ジュウウウッ、という心地よい音と共に、香ばしい油の匂いが厨房に満ちる。
表面がきつね色に色づき、中の肉汁が最高潮に達したその一瞬を逃さず、私は固有魔法【静止】をかけた。生命の躍動を永遠に閉じ込める魔法。これで肉は最も柔らかく、決して劣化することのない至高の存在となる。付け合わせには、バターでソテーした森のキノコと緑の葉野菜を添え、自家製の黒パン、コンソメスープと共に木盆に載せた。
「お待たせいたしました。『森角鹿のカツレツ葉野菜ソテー添え、黒パンとスープ』でございます」
私がテーブルに料理を並べると、男は無言のままフォークとナイフを手に取った。サクッ、と衣が弾ける軽快な音が響く。男は肉の一切れを口に運び、黙々と咀嚼を始めた。私はホッと息をつき、カウンターの中へ戻った。
「……なんだ、これは!」
しばらくして突然、鼓膜を突くような怒声が店内に轟いた。振り返ると、男が顔を真っ赤にして立ち上がっていた。手にしていた銀のフォークを床に叩きつける。
「貴様、俺を殺す気か! こんな腐った料理を客に出すとは、とんでもない店だ!」
「腐っている……? 何を仰いますの。そんなはずはありませんわ」
私は驚き、男と皿を交互に見比べた。
【静止】の魔法をかけているのだ。食材の時間は完全に止まっており、腐敗の進行など物理的にも魔術的にも絶対に起こらない。
「嘘をつけ! 嗅いでみろ、この酷い悪臭を! 肉は腐って溶けかかり、スープからは酸っぱい匂いがしているじゃないか!」
私はテーブルへ駆け寄った。男が叫ぶ通り、あんなに美しかったカツレツの断面がどす黒く変色し、見るも無残な粘液を滲ませている。辺りには、先ほどまでの香ばしい匂いが嘘のように鼻をつく腐臭が立ち込めていた。
「そんな……馬鹿な!」
「俺はこれを半分ほど食べてしまった! 胃が焼けちぎれるように痛い! 慰謝料として、金貨百枚を今すぐ支払え! さもなくば、衛兵を呼んで貴様を牢にぶち込んでやる!」
男は目を血走らせ、私へと詰め寄ってきた。金貨百枚。とんでもない金額である。辺境の小さな食堂が払えるものではない。
「うちには、そのような大金はありませんわ。それに料理が突然腐るなんておかしいです。何かの間違いです!」
私が気丈に言い返すと、男の唇の端が三日月のように吊り上がった。それは、罠にかかった獲物を弄るような底意地の悪い嘲笑だった。
「金がないなら仕方ない。だったら、慰謝料の代わりにこの店を寄こせ。いや、こんな今にも崩れそうな店じゃ二束三文にもならん。ゴーストタウンと化した街の権利書ごと、すべて俺に譲渡しろ。そうすれば、この件は内密にしておいてやる」
男の言葉に、私はハッとした。おそらく慰謝料なんて、最初から求めてはいなかったのだ。
この男の真の目的は……因縁をつけてこの店や私が持つ権利をむしり取ること。恐怖と屈辱が、足元から這い上がってくる。女一人で店を切り盛りしているのをいいことに、この男は私を侮り、力ずくですべてを奪い取ろうとしているのだ。
「お断りしますわ! この店も土地も私の大切な……!」
「黙れ! 文書はこちらで用意してやるからおとなしく署名しろ! このクソ売女が!」
男が身を乗り出し、私の腕を乱暴に掴もうとした。その手が、私のドレスの袖に触れる寸前――。
「……おい。何してんだよ」
地を這うような低い声が、薄暗い店内に響き渡った。裏口の扉が開き、そこに立っていたのは、巨大な薪割り斧を肩に担いだガルドであった。彼の黄金の瞳は、剥き出しの殺意を湛えて爛々と輝いている。獣人特有の圧倒的な威圧感が、嵐の前の雷雲のように店内に満ちた。
「な、なんだお前は……! なぜ、こんなところに獣人が……」
男は怯えに顔を引き攣らせ、後ずさった。先ほどまでの横柄な態度は見る影もなく、声が哀れなほどに震えている。
「俺はここの用心棒だ。……てめえはずいぶんと威勢よく吠えてたな。外まで聞こえてきたぞ。俺の獲ってきた肉にケチをつけて、挙句の果てに店を乗っ取ろうってか?」
ガルドが一歩、また一歩と距離を詰める。床板がミシリと重々しい音を立てた。
その隙に、私は腐臭を放つ皿をじっと見つめた。視界に魔力を集中させる。すると、黒ずんだ肉の表面から、まるで泥水のような澱んだ色の魔素が陽炎のように立ち上っているのが見えた。私のものではない、外から強制的に付与された魔力。
「……【腐敗】の魔法」
私は怒りに震えた。この男は、食事をするふりをして密かに腐敗魔法を料理にかけ、言いがかりをつけていたのだ。私から店と土地を騙し取るための、卑劣極まりない狂言。
「あなた、自分で魔法をかけて料理を腐らせたのですね。ひどい。恥を知りなさい!」
私が鋭く糾弾すると、男は痛いところを突かれたように顔を歪めた。
「ち、ちがう! 俺は何も……! ひっ!」
弁解しようとした男の鼻先に、ガルドの振るった巨大な斧の刃が突きつけられた。刃の冷たい輝きが、男の喉笛から僅か数ミリの距離でピタリと止まる。
「……次にごちゃごちゃ抜かしたら、てめえの首を胴体から切り離してやる。二度とここに近づくんじゃねえ」
ガルドの地獄の底から響くような声に、男は腰を抜かしそうになりながら、転がるようにして店から飛び出していった。バタン、と扉が閉まる音と共に店内には重苦しい沈黙が降りた。
「……怪我はねえか、エリス」
ガルドが斧を下ろし、いつものぶっきらぼうな口調で尋ねる。私は気丈に振る舞おうとしたが、張り詰めていた糸が切れ、膝から崩れ落ちそうになった。それを、彼が太い腕でしっかりと支えてくれた。
「ありがとう、ガルド。あなたがいてくれなかったら、私……どうなっていたか」
さらわれて権利書に無理矢理署名させられてた? 用済みになったら殺されていた?
女一人というだけで、こんなにも容易く踏み躙られそうになる。自分の無力さと、悪意に対する怒りで目の前が真っ赤になる。
せめて……強力な魔法が使えれば。マリアベルのような爆炎魔法、祖母のような重力魔法、母のような氷結魔法を操れれば、戦って撃退できたのに……! どうして、私はこんなにも非力なの……。
打ちひしがれながらも、なんとか椅子に腰かけ、背もたれにぐったりと寄りかかる。
「大丈夫か? 水でも飲むか?」
「ええ、お願い」
ガルドが持ってきてくれたコップの水を一気に呷ると、ようやく落ち着いた。
……それにしても、解せないわ。なぜ彼はこの店と土地を奪おうとしたのだろう。町は廃墟だし、住民は一人もいない。近所にあるのはコリンが住む家だけ。手に入れたところで何の価値もないのに……。
その答えがもたらされたのは、数日後のことだった。




