第45話 零落した郷紳の親子と猪肉のハンバーグ煮込み【前編】
魔の森から吹き込む風が店先のランプを揺らしていた。
胡散臭い転移術師の男に、見事なまでに食い逃げをされてから数日が経ったが、私の腹の虫は未だに収まっていなかった。
「……ああ、もう。思い出すだけで腹が立つわ。私の丹精込めたパスタを平らげた挙句、幻影の銀貨を残して逃げるなんて」
私がカウンターを磨きながらこぼすと、床の掃き掃除をしていたコリンが手を止めた。
「でも、旦那が一緒で本当によかったよ。もしあの時、エリスだけが魔の森に飛ばされていたら、今頃どうなっていたか。魔獣に襲われて、大変なことになっていたかも」
コリンの言う通りだった。ガルドが一緒にいて私の手を引いてくれなければ、私はきっと恐ろしい魔の森で迷ってしまっていた。魔獣たちに嗅ぎつけられ、襲われていたかも……。
それでもなお「誠意が踏みにじられた」という事実が、鈍い痛みとなって胸の奥で燻り続けていた。尚も愚痴をこぼす私を、コリンは悠久の時を生きる者特有の静かな瞳で見つめた。
「エリス。人間は本当に弱くて脆い生き物なんだから。何ごとも命あっての物種だよ」
コリンはなんでもないことのように恬淡と続けた。
「人間の寿命なんて、せいぜい数十年ぽっちなんだろ。そんな短い時間を、詐欺だの裏切りだので空費できる気持ちはわかんないなあ。俺っちには不思議でならないよ。エリスも、こんなことを考える時間が勿体ないよ」
エルフたち長命種が持つ、独自の透徹した死生観。それは私のプライドなど、大河に落ちる一滴のようにちっぽけなものだと思い知らせてくれる。
「でもまあ、二百年くらいなら俺っちも魔王になってもいいかな。暴れ回るのは楽しそう。そんな力はないからやらないけどさ」
コリンは茶目っ気たっぷりに笑ってみせた。
「ええ、そうね。……過ぎたことに囚われてもね」
私がようやく元気を取り戻したその時、店の扉が静かに開かれた。
現れたのは、若い男と五、六歳と思しき小さな女の子だった。顔が似ているので親子なのだろう。
「いらっしゃいませ。……お食事でしょうか?」
私が声をかけると、男はビクッと肩を震わせた。身なりは決して悪くない。上質なラシャのコートに、仕立ての良い革靴。しかし、その表情は暗い。彼の全身から立ち上る思い詰めた空気が、周囲の温度を数度下げたように感じられた。傍らに立つ女の子は、父親のコートの裾を固く握りしめ、不安げに私を見上げている。
「あ……いや。その、食事を……させてほしいのですが。実はお恥ずかしながら、手持ちの金がないのです」
男は枯れ葉のようにかすれた声で言い、抱えていた大きな木箱から、金属製の奇妙なものを取り出してカウンターに置いた。精巧な歯車と水晶のシリンダーが組み合わされた、美しい機械だった。
「食事代の代わりに、これを置いていきます」
「……これはなんでしょうか」
「魔力で動く、綿菓子の製造機です。最新式で一度も使っていない新品です。動力となる魔素の属性は選ばないので、魔法さえ使えれば誰でも動かすことができます。……綿菓子を作る専用の砂糖も差し上げます」
添えられた大きなガラス瓶には、淡いピンクや水色に色付けされた粗目糖が詰まっている。
金を持たない客。先日の一件もあって警戒するところだが、男の隣でお腹を空かせてそうな少女の姿を見てしまっては……追い返すことはできそうにない。
「……承知いたしました。この機械と引き換えに、お二人にお食事を供することをお約束します」
私が了承すると、男はホッと安堵の息を漏らし、少女の手を引いてテーブル席に腰を下ろした。
男はキースと名乗った。
「ご注文は、何になさいますか?」
「娘に……亡くなった妻がよく作ってくれたものを、最後に食べさせてやりたいんです。可能ならデミグラスソースの、ハンバーグ煮込みを」
キースのリクエストは、家庭料理の温もりを象徴するような一品だった。
「大丈夫ですよ。ちょうど肉もソースもありますから」
私は厨房に入り、エプロンを締めた。先日、ガルドが森で仕留めてきた大猪の魔獣肉がある。赤身が強く、野性味に溢れたその肉は、叩いて挽肉にすれば極上の旨味を放つはずだ。
挽いた肉に塩、胡椒、ナツメグを振り、炒めた玉ねぎと卵、パン粉を加えて粘りが出るまで手で練り上げる。空気を抜きながら小判型に成形し、熱した鉄フライパンで表面を香ばしく焼き固めた。
そこへ、何日も継ぎ足しながら煮込んでいる、牛骨と香味野菜の漆黒のデミグラスソースをたっぷりと注ぎ込む。
「【静止】」
ソースが沸騰し、肉汁とソースが完璧に融合する一瞬。私は魔法の力で、煮込み料理特有の「時間の経過がもたらす深いコク」を瞬時に引き出した。付け合わせには、バターで艶やかにグラッセした人参と、粉吹き芋を添える。
「お待たせいたしました。『追憶のデミグラスソース、魔の猪肉ハンバーグ煮込み』ですわ」
湯気と共に、香ばしい肉の香りと、赤ワインの酸味がほんのりと香るソースの匂いが広がる。少女の目が、ぱあっと見開かれた。
「パパ、美味しそう……!」
「ああ。……食べなさい、リリィ。よく味わうんだよ」
「うん、ママが作ってくれたものと同じ匂いがするね」
父親に促され、少女はフォークでハンバーグを小さく切り分けた。口に運んだ瞬間、その顔に花が咲いたような笑顔が広がる。
キースもまた、一口食べると感極まったようにポロポロと涙をこぼした。
「美味しい……本当に、美味しいです」と震える声で呟いた。その光景は、一見すると心温まる家族の食事風景だった。お腹が空いていたらしき親子は、あっという間に煮込みハンバーグと付け合わせのパンを完食した。




