第44話 転移屋の羊肉のラグーパスタと民間に潜む高等魔法【後編】
「な……何が起きたの……?」
私が呆然と呟くと、隣で立ち上がったガルドが盛大に舌打ちをした。
「チッ、やられたな。あの野郎、自分を飛ばしたんじゃない。俺たち二人を、店の外へ転移させやがったんだ。ここは魔の森だ」
「えっ……?」
私は瞬きを繰り返した。テオは飛ばせるのは一人だけだと言っていたではないか。それに、なぜ私たちが?
「急ぐぞ、エリス。俺はともかくアンタは危ない。匂いを嗅ぎつけて魔獣どもが寄ってくる」
「え、ええ……。店も心配だわ。開けっ放しだもの」
ガルドに腕を引かれ、私たちは慌てて森の中を駆け抜けた。泥に足を取られ、茨にドレスを引っ掛けながら、息を切らして森の外を目指す。
十分ほど走って、ようやく森の木々の間に「とわずがたり」の建屋が見えてきた。
私たちは飛び込むようにして店内に入った。中は静寂そのものだった。鍋の余熱が残る厨房。そして、テオの姿はどこにもなかった。
「金庫は無事か?」
ガルドの怒声に弾かれるようにして、私は慌てて厨房の奥に隠してある金庫を確認した。これまでの売上金は手付かずで残っている。ワインも食器も、盗まれた形跡はない。といっても、これらにたいした価値はない。
「……無事よ。何も盗まれてないみたい」
私は安堵の息を吐き、カウンターに目をやった。そこに残されているはずの、テオが支払った五枚の銀貨。それに目を向けた瞬間、私は自らの目を疑った。
銀貨は、ただの丸い石ころになっていた。
これは……もしかして幻影魔法?
最初から貨幣に見せかけていただけで、彼は一銭たりとも支払う気がなかったのか。
「あ、あの男……! ひどい! 食い逃げされたわ!」
私は怒りでワナワナと震え、カウンターを叩いた。私の善意。私の料理への情熱。「人は信じるに足る」という私の哲学。そのすべてが、たかだか一皿のパスタ代をケチるために見事に踏み躙られたのである。
「もうっ、見つけ出したら挽肉にしてやるから……!」
私が怒りのあまり貴族らしからぬ言葉を吐き捨てると、ガルドが低く喉を鳴らして笑い始めた。
「ククッ……ハハハハッ! ここまで来るとあっぱれだな。つーかすげえな、あいつ」
「ガルド! 何がおかしいの! 私たちは騙されたのよ?」
私が睨みつけると、ガルドは涙を拭いながら、面白くてたまらないといった顔で私を見た。
「いや、怒る気も失せるってやつだ。……いいか、エリス。あいつは『一人しか飛ばせない』と言っていた。だが実際は、俺とアンタの二人を同時に、対象だけを転移させたんだ。自分は巻き込まれずにだぞ。これはたぶん神業レベルの空間制御術だぜ」
その言葉に、私はハッとした。確かに、テオの魔法の腕は胡散臭い外見や言動からは想像もつかないほど桁外れに高度なものだった。これほどの力があれば、国の公僕、官僚になって高給取りになることも、あるいは財宝を狙った大泥棒になることも容易なはずだ。人を転移できるのなら、当然物品も飛ばすことができるだろうし。
それなのに彼は、その卓越した魔法を「タダ飯を食うための時間稼ぎ」にしか使わなかった。ここまで来ると、完全に遊ばれているとしか……。
「一キロ以内ってのも怪しいな。本当はもっと遠くまで飛ばせるんじゃないか? どこまで正確性を担保できるのかはわからねえが」
「……本当に。民間にも、優れた魔術師がいるのね。使い道が間違ってるけど」
私は、怒りの矛先を見失い深い疲労と共にため息を吐いた。辺境だからというわけではないだろうが、この辺りには常識など通用しない怪人物がゴロゴロしているのかも……。
「だから言っただろう、エリス。人は裏切るもんだ。性悪説でいけってな。ま、パスタ一皿で済んでよかったじゃないか。これも勉強代だ、勉強代」
ガルドが勝ち誇ったようにニヤリと笑う。その顔はひどく癪に障ったが、今回ばかりは彼の言う通りであったと認めざるを得ない。私の温室育ちの「性善説」は、転移魔法を操る詐欺師と共にもろくも崩れ去ってしまった。
「……ええ、あなたの言う通りだわ、ガルド」
私は銀貨に見えた石を摘み上げ、ゴミ箱へと放り投げた。
「明日からは『前金制』にしようかしら」
私がぽつりとぼやくと、ガルドは再び腹を抱えて大笑いした。
魔の森の夜は更けていく。
世間の風は、私が思っていたよりもずっと冷たく滑稽に吹いているようであった。




