第40話 妊婦のための大地の黄金リゾットと不思議な縁【前編】
魔の森が、低く垂れ込めた鉛色の雲に押しつぶされそうなっている午後のことだった。
「とわずがたり」の窓ガラスを、予兆のない驟雨が激しく叩き始めた時、その扉は悲鳴のような音を立てて開かれた。
飛び込んできたのは、若い女性だった。ずぶ濡れの亜麻色の髪が頬に張り付き、その顔色は死人のように蒼白だ。何より目を引いたのは、彼女の腹部が大きく隆起していることだった。臨月を迎えた妊婦であることは誰の目にも明らかだった。
彼女は肩で息をしながら、濡れた床に膝をついた。
「お願い……! アデルを止めて……!」
彼女の悲痛な叫びが、店内の穏やかな空気を一変させる。私はカウンターを越えると、彼女の体を支えた。触れた肩は氷のように冷たく、極度の疲労で小刻みに震えている。
「落ち着いて。まずは呼吸を整えてください。……一体、何があったのです?」
温かいタオルで彼女の体を包みながら、私は優しく問いかけた。リラと名乗ったその女性は、しゃくり上げるような声で、途切れ途切れに話し始めた。
「夫が……アデルが、魔の森へ入ってしまったの! お腹の子が逆子で……このままでは難産になると言われて。逆子を治すための薬、材料になる『月の揺り籠』という薬草を採りに行ってしまったの……!」
「魔の森に? 一人で?」
「そうなの。私は止めたのに聞いてくれなくて」
「旦那さまは、武芸の心得でもあるのですか?」
リラは力なく首を振った。
「全然。ただの農夫よ。剣だって握ったことはないわ」
店の奥でワインを煽っていたガルドが、呆れたように鼻を鳴らした。
「ハッ、狂気の沙汰だな。魔の森は武装した熟練の冒険者でさえ、五体満足で帰ってこられれば御の字な場所だぞ。死傷者もザラだしな。それを、剣も持たない素人が丸腰で入っただと? 今頃は魔獣の胃袋の中だろうよ」
ガルドの言葉は残酷なまでに正論であり、それゆえに鋭利な刃となってリラの胸を抉った。
彼女は「ああっ」と短く悲鳴を上げ、その場に泣き崩れた。
コリンもまた困ったように眉を下げ、リラが持ってきた夫のものだという帽子を手に取った。
「旦那の言う通りだね。『月の揺り籠』は、森の奥深く、幻惑の霧が出る場所にしか生えない希少な草だ。鼻の利くエルフや獣人でさえ見つけるのは困難だよ。普通の人間が迷い込めば、二度と出てこられない」
「そんな……!」
絶望的な事実に、リラは過呼吸を起こしかけていた。大きなお腹を抱えて泣き伏す姿は、あまりにも痛々しく、見ているこちらの胸が締め付けられる。このままでは母体に障る。彼女自身もお腹の子も危ないのではないか。
私はガルドに言った。
「ガルド。ちょっと来て」
私たちはいったん二階に移動した。リラには聞こえないことを確認した上で私は言った。
「お願い、ガルド。アデルを探しに行って」
ガルドは露骨に嫌そうな顔をした。
「おいおい、エリス。俺はアンタの用心棒だ。今来たばかりの見ず知らずの他人の、しかも魔の森に飛び込むような馬鹿の尻拭いをする義理はねえだろ」
「でもこのままじゃ……リラさんがどうなるか。あのお腹を見たでしょ? いつ産気づいてもおかしくない大きさよ。それも逆子。ここで産むことになったらと思うと……ゾッとするわ。助かるものも助からないわよ」
ここは辺境中の辺境。放棄された宿場町、すなわち廃墟。ゴーストタウンなのだ。
森への人の出入りはそこそこあるけど、(人間であるという意味での)住人は私だけ。近くには医者どころか産婆だっていない。早く旦那を見つけて、そこそこ大きな街に行ってもらった方がはるかに安全だ。
「身重の妻を置いていったアデルにも問題があるけど、彼も気が動転していたんじゃないかしら。魔の森のことも、たぶん知らなかったのよ」
「無知もそれによる災難も、自業自得だと思うがなあ」
ガルドは数秒間、私を見つめ――やがて、盛大なため息を吐いた。
「……チッ。わかったよ。行けばいいんだろ、行けば。……ただし、死体の一部しか見つからなくても文句は言うなよ」
彼は悪態をつきながらも、勢いよく階段を降りていった。
階下のコリンから、アデルの帽子を受け取った。
「これの匂いを辿るしかねえな」
コリンほどではないけど、ガルドの嗅覚も鋭い。持ち主の匂いを辿ることができる。
「旦那……微かだけど、男の汗と安タバコの匂いが染み付いてる。俺っちにはうっすらと流れが見える。行ったのは森の東側、『嘆きの湿地』の方じゃないかな」
コリンは、森に向かって東の方向をはっきり指差した。
「フン、お前の鼻も大概だな。どっちが獣人だかわかりゃしねえ。……行ってくる」
そう言うと、ガルドは外套を身にまとい、風のように店を飛び出していった。雨の森へと姿を消した。
残された店内で、私は依然として震え続けるリラに向き直った。夫の安否も心配だが、今は彼女の体力が限界に近づいているような気がする。冷え切った体を、内側から温めるものが必要なのではないか。
「リラさん。泣いていては、身体に障りますわ。帰りを待つ間、何かお腹に入れましょう」
「……はい」
リラは泣き濡れながらも、こくりと頷いた。
私は厨房へと入った。妊婦でも安心して食べられて消化に良く、それでいて爆発的な栄養価を持つもの。選んだのは、コリンが持ってきた「太陽の恵み」という雑穀と、滋養強壮に効く根菜類だ。
鍋にバターを溶かし、細かく刻んだ根菜を炒める。そこへ雑穀と、私の魔法で「採れたての生命力」を固定したまま保存していた鶏のブイヨンを注ぐ。コトコトと煮込む音が、雨音に混じって優しいリズムを刻む。
「【静止】」
私は仕上げに魔法をかけた。雑穀が水分を吸い、最もふっくらとした瞬間。野菜の甘みがスープに溶け出し、熱が食材の芯まで浸透したその刹那を固定する。これによって、食べた瞬間に熱と栄養が爆発的に体に吸収される「魔法の流動食」となるのだ。
「どうぞ。『母なる大地の黄金リゾット』ですわ」
湯気の立つ皿を前に、リラは涙に濡れた顔を上げた。一口、口に運ぶ。
「温かい。……お腹の底から温まる。沸々と力が湧いてくるみたい……」
彼女はお腹をさすりながら、夢中でリゾットを平らげた。私はその横顔を見つめながら、窓の外の闇に祈った。どうか、間に合って。
夜の帳が完全に下り、不安が頂点に達した頃。バンッ! と扉が荒々しく開かれた。
「ほらよ! 重くて敵わねえ!」
ガルドが、泥だらけの男を肩に担いで帰ってきた。
男――アデルは、足を引きずり、体中に擦り傷を作っていたが、確かに生きていた。
「アデル……! アデルッ!」
リラが駆け寄る。二人は泥も血も構わずに抱き合い、互いの無事を確かめ合って泣き崩れた。ガルドは濡れた髪を手でかき分けながら、私に向かってニヤリと笑った。
「湿地の入り口でへばってやがった。魔獣に食われる寸前だったがな。……まったく、世話の焼ける夫婦だぜ」
「ありがとう、ガルド。本当に助かったわ」
私は安堵の息を吐き、ガルドに最高のワインと、とびきりの肉料理を用意するために厨房へと戻った。
外の雨は、いつしか止んでいた。




