第39話 最高級の羊肉の宴と傭兵ガルドの謎【後編】
宴の後、私たちは満ち足りた想いに包まれて、食後酒を楽しんでいた。テーブルの中央には、綺麗に骨だけになった羊肉の残骸が山をなしている。琥珀色のランプの光が、ガルドの横顔に深い陰影を落としていた。
「……昔、戦場でもよく羊を食ったもんだ。食用じゃなくて野生の痩せたやつだけどな」
ガルドが、グラスを揺らしながらぽつりと呟いた。アルコールのせいだろうか、彼の口調はいつもより滑らかで、遠い過去を懐かしむような響きを帯びていた。
そういえば、初めて会った時、彼は自分のことを傭兵だと言っていた。私はそれを信じてはいなかった。無職だったり、無頼漢だったりと、定住せずにふらふらしている人間は大抵は傭兵を名乗るものだし。
「戦場……あなたが傭兵だというのは本当だったのね」
「ああ。北方の『鉄屑峡谷』での戦いでの話だ。ありゃひどいもんだった。補給線が断たれてな、撤退命令も出ないもんだから兵糧も尽きてしまった。戦闘そっちのけで、山に入っては野生の山羊や羊を狩ったもんだ。捌いて焼いて貪り食った。塩をかけるだけの味気ねえ飯だった」
彼の瞳が、細く鋭く眇められる。蘇る記憶は、ここではない何処か、血と硝煙の匂いがする荒野なのか。
「鉄屑峡谷……。ああ、歴史の授業で習ったわ。十年ほど前の『第五次北方戦役』のことね。あの時は確か、補給部隊が雪崩に巻き込まれて大変だったと」
私が相槌を打つと、ガルドは不思議そうな顔をして首を横に振った。
「違う。俺が言ってるのは『第一次』の方だ。あの時は雪崩じゃなくて、敵の焦土作戦で橋を落とされたんだよ」
第一次……? 私はグラスを揺らす手を止めた。
私の記憶が確かならば、第一次北方戦役というのは――。
「……ガルド。第一次北方戦役というのは、今から百年以上も前の話よ。私の曾祖父が生きていた頃か、その前の時代の話だわ」
「そうだったか? いや、間違いねえ。あの時の王は、フレデリック獅子心王だったからな。あいつの号令で、俺たちは何度も突撃したんだ。もっともフレデリック本人は戦死したがな」
フレデリック獅子心王。フレデリック三世のことか。それは、確か百二十年ほど前に北方戦役で亡くなった王の名だった。私は……背中に何かうすら寒いものが走るのを感じた。
ガルドは酔っているのだろうか。それとも、冗談を言っているのだろうか。しかし、彼の語り口には、実体験した者だけが持つ、圧倒的なリアリティがある。
「どうしたんだ、エリス」
「いえ……なんでもないわ」私の声は動揺から上擦った。
「……酔った。外の風に当たってくる」
私の困惑に気づいたのか、あるいは気づかないふりをしたのか、ガルドは椅子を軋ませて立ち上がると、ふらりと店の裏手へと消えていった。
残された私とコリンの間に沈黙が降りた。私はコリンに視線を向けた。彼は見た目こそ少年だが、長命種のエルフで383歳だ。この辺りで最も長く生きているのは間違いなく彼だろう。
「ねえ、コリン。ガルドは酔って、何かの昔話と自分の話を混同しているのかしら」
コリンは、珍しく真剣な表情で首を振った。
「ううん、エリス。旦那はボケてはいないし、嘘もついてないと思うよ。旦那は冗談は言うけど、嘘は言わないしね」
彼は声を潜め、扉の方をちらりと見た。
「実は俺っちも不思議に思ってたんだ。……旦那からは、時折とっても『古い匂い』がするんだよ。普段は隠してるみたいなんだけど」
「古い匂い?」
「うん、土や岩が長い時間をかけて厚い層を作るような、そんな古びた魂の匂いっていうのかな。……たぶんだけど、旦那は俺っちよりも長く生きてるんじゃないかな」
「……嘘」
私は息を呑んだ。ガルドがコリンよりも歳上? そんなことって、ありえるの?
「まさか。そりゃあ、獣人のことはよくわかってないし、私も知らないけど。彼らの寿命は、どんなに長くても二百年ほどと聞いたわ。コリンより上なんて……」
獣人は、人間よりも強靭な肉体と長い寿命を持つが、大抵は百年足らずでエルフには遠く及ばない。それが定説であり、生物学的な常識であるはずだった。
しかし、ガルドが昨日のことのように語った百年前の王の名前。コリンの嗅覚と直感。それらが指し示す事実は、私の知る常識の範囲外に彼がいることを示唆していた。
思えば――私はガルドのことを何も知らない。おそらくは狼の獣人で、伝説の魔獣と呼ばれる「ヴォルガ・ウルフ」。月光をはじく銀狼……なのだと思うけど、これも私が読んだ書物の知識から勝手にそう思っているだけで、彼自身が明言したわけじゃない。
元婚約者のカイニス・アンバーが店に押しかけてきた時は、ガルドは氷の魔法のようなものを使ってカイニスを追い出した。獣人が人間と同じ魔法を使うとは聞いたことがないので、おそらくは彼の持つ特殊能力なのだろうけど……。
相棒なのに何も知らないという事実に、改めて打ちのめされる。
彼はどこから来たのか。なぜ、王都から離れたこの辺境の森に流れ着いたのか。一体「何者」なのか。
しばらくして裏口の扉が開き、夜風と共にガルドが戻ってきた。彼はどこかすっきりした顔で席に戻り、残っていたワインを煽った。
「……なんだよ、二人してジロジロ見やがって。俺の顔にソースでもついてるか?」
黄金の瞳が、無防備に私を見つめる。
私は「何も」と言って微笑んだ。喉まで出かかった疑問は、ワインと共に飲み込んだ。
「……ただ、あなたがいてくれてよかったと思っただけよ」
「なんだよ急に。気持ち悪いな」
「あら、本当にそう思っているのよ」
気にはなるけど、こちらからあれこれ詮索して尋ねるのはやめよう。いつか、彼が自らの来歴を語ってくれる日が来るかもしれない。その時までは、ただ美味しい料理を作り、彼のお腹を満たしてあげよう。
だって、ここは「とわずがたり」だもの。語りたければ語ればいいし、語りたくないことは語らなくていい店なのだから。
「さあ、デザートにしましょうか。簡単にクッキーでも焼くわ。果物も切るわね」
私が立ち上がると、ガルドは嬉しそうに顔を綻ばせた。その様子は、百年前の戦士ではなく、ただの食いしん坊の犬っころのようで……。
謎を抱えた用心棒と、時を止める店主。数百年を生きるエルフの少年。
世界は広いのだから、こういう組み合わせがあってもいいんじゃない?
夜は更け、魔の森の闇はいっそう濃くなる。暖かな店の、ランプの周囲には確かな「現在」が息づいている。




