第37話 還暦姉妹の祝いのキャロットケーキとマリアベルの思い出【後編】
夜の帳が完全に降りると「とわずがたり」は深い静寂に包まれた。
私は自分用のグラスに少量の赤ワインを注ぎ、カウンターの隅に座った。ガルドとコリンも今日の仕事を終え、それぞれのカップを手に寛いでいる。アルコールのせいだろうか、それとも昼間来た双子の姉妹のせいだろうか。普段なら心の奥底に沈殿させている記憶が、澱のように舞い上がってくる。
「……私にもね、妹がいるのよ」
グラスを揺らしながら私が呟くと、ガルドは片眉を上げ、コリンは興味深そうに身を乗り出した。
「へえ、エリスに?」
「コリンに話すのは初めてね。……マリアベルというの。母親は違うのだけれど」
その名を口にするだけで、舌の上に苦いチョコレートのような味が広がる。
「私の母、クラウディアが亡くなったのは、私が三歳の時だったわ。父は、まあそういう人だから今更とやかく言う気はないけど、喪が明けるのも待たずに再婚したの」
当時、父は領地経営の一環として、新たな鉱山の採掘権獲得に躍起になっていた。その共同事業者の妹こそが、私の継母となった女性だった。典型的な政略結婚。貴族の婚姻に、愛などという不確かなものが入り込む余地はどこにもない。
「翌年、マリアベルが産まれたわ。……継母は、なんと言うか、掴みどころのない霞のような人だった」
継母を悪くいうつもりはない。童話や物語に出てくるような、前妻の子を虐める悪辣な継母ではなかった。彼女は、淡白な性格で感情の起伏が乏しかった。元々、子供自体があまり好きではないようだった。
自分が腹を痛めて産んだマリアベルに対してさえ、義務的に接するのみで……ましてや、血の繋がらない私に対しては、部屋の隅に置かれた花瓶のように無関心だった。マリアベルだけを贔屓して可愛がっていたわけではないので、そのことに関して恨む気持ちはない。そういう人だった、としか言えない。
「私はね、マリアベルが可愛かったの。小さくて、柔らかくて。私たちは広い屋敷の中で、寄り添うようにして遊んだわ」
私の後ろを、よちよちとついてくるマリアベル。「お姉さま、お姉さま」と健気に慕う無垢な声。
あの頃の私たちは、今日のローザとミネリのように、二人で一つの世界を作っていた。
父母と妹の四人家族。その世界はあまりにもあっけなく崩れ去った。
「マリアベルが五歳になった年のことよ。父の鉱山事業が失敗したの」
共同事業者との間で深刻な対立が起き、採掘計画は頓挫した。金の切れ目が縁の切れ目とはよく言ったもので、利害関係のみで結ばれていた夫婦は瞬く間に断ち切られた。
「離婚が決まった翌日、屋敷の前には一台の馬車が停まっていたわ。実家へ戻る継母のものだった」
私はその日の光景を、今でも鮮明に覚えている。曇天の空の下、継母は一切の未練を見せず、旅装に身を包んで立っていた。彼女の前には状況が飲み込めず、ただ不安げに母のスカートを掴むマリアベルがいた。
「継母は……マリアベルを連れて行かなかったの。自分の子なのに」
彼女は、結婚生活そのものに辟易していたのだろうか。あるいは再婚の際の枷になると、娘を連れ帰ることを実家が許さなかったのか。継母は、泣きすがるマリアベルの頭を一度だけ撫でると、冷ややかな声で言った。
「お父さまと、姉さまと一緒にいなさい。その方が、貴女のためよ」
そして継母は一人で馬車に乗り込み、扉を閉ざした。無情な鞭の音が響き、車輪が砂利を噛んで回り始める。
「母さま! どこに行くの? 母さまああああ――ッ!」
幼いマリアベルの、悲鳴のような泣き声が辺りにこだました。彼女は馬車を追いかけようとして転び、泥だらけになりながら、遠ざかる母の影に手を伸ばし続けていた。父は、その様子を二階の書斎の窓から見下ろしているだけだった。
「私は……駆け寄ってマリアベルを抱き起こしたわ。彼女の小さな体は震えていた」
泥で汚れた妹の手を握りしめ、私は心に誓ったのだ。この子には、私しかいない。私が母の代わりになり、この子を守らなくては、と。
「……でも、皮肉なものね。長じるにつれて、私たちの関係はおかしくなっていったわ」
母に捨てられたというトラウマは、マリアベルの心に深い空洞を作った。彼女はその穴を埋めるために、誰彼構わずすり寄って愛想を振りまくようになった。
そして、私に【静止】という下位魔法が発現すると、「平民以下の魔法」「貴族らしからぬ落ちこぼれ」と露骨に見下し馬鹿にするようになった。彼女は、私を疎む側の人間へと変わってしまった。
私たちの仲は険悪になった。不愉快な思いをすることが増え、私は父ともマリアベルとも極力接しないようにして暮らすようになった。
「修道院へ入ったような話を聞いたけど。今は、どうしているのかしらね……」
私はグラスのワインを飲み干した。喉の奥に、鉄錆のような苦みが残る。
「辛気臭い話をしてしまったわね。忘れてちょうだい」
私が無理に笑ってみせると、ガルドは鼻を鳴らし、不器用に私の頭を大きな手でポンと叩いた。
「……ま、今は俺たちがいる。そのことは忘れんな」
「そうだよ、エリス。過去は過去、今は今だろ」
コリンが笑う。その温かさは、かつて私がマリアベルの手を握った時の記憶と重なった。
……わかってる。血の繋がりだけが家族ではない。今の私には、この「とわずがたり」という家があるし、信頼に足る仲間がいる。
「ありがとう、二人とも。……さあ、もう寝ましょう。明日もまたお客さまが来るわ」
私は席を立ち、ランプの芯を絞った。琥珀色の光が消え、店内が薄暗くなる。
――いつか、もし叶うなら。貴女にも食べさせてあげたいわ。 甘くて優しい、大地のキャロットケーキを。
……私、実家にいた時とは比べものにならないくらい料理の腕を上げたのよ。




