第36話 還暦姉妹の祝いのキャロットケーキとマリアベルの思い出【前編】
魔の森が、午後の柔らかな陽光を浴びて、珍しく穏やかな表情を見せている昼下がりのことだった。
私の店「とわずがたり」の扉が遠慮がちに、そしてリズミカルに叩かれた。現れたのは、まるで鏡合わせのように瓜二つの、小柄な老婦人だった。二人とも、背中に大きな篭を背負っている。
深い皺が刻まれた顔は、太陽に愛された者特有の健康的な褐色をしており、白髪混じりの髪を同じ形のお団子に結い上げていた。着ているものは粗末な綿の服だけど丁寧に繕われ、清潔な石鹸の香りが漂っている。
「ここが、シスターさまたちが言っていた、魔法のご飯屋さんかねぇ?」
「そうみたいだねぇ。いい匂いがするよ、ローザ」
「ああ、そうだねぇ、ミネリ」
二人は顔を見合わせ、クスクスと少女のように笑い合った。南の村からやってきたという双子の姉妹、ローザとミネリ。彼女たちは、先日村へやってきたラミアたちから店の噂を聞き、足を運んでくれたのだという。
「いらっしゃいませ。ようこそおいでくださいました」
私が貴族の礼をとって迎えると、二人は恐縮したように身を小さくした。姉のローザが布の包みをカウンターに置いた。
「ごめんよ、お嬢さん。あたしたち、還暦の記念にどうしてもここの料理が食べたくて来たんだが……手持ちがこれしかねんだけんど」
彼女が震える手で差し出したのは、わずか銀貨二枚であった。通常であれば、スープとパンが精一杯の金額である。彼女は続けて、背負っていた大きな籠をドサリと床に降ろした。
「その代わりと言っちゃなんだけんど、畑で採れた穀物と豆、それに自慢の野菜を持ってきたんだ。これで、勘弁してもらえねぇだろうか」
籠の中には、大地の恵みが溢れんばかりに詰まっていた。宝石のように艶やかな赤インゲン豆、黄金色のトウモロコシ粉、泥がついたままの太く逞しい人参たち。それらは市場に並ぶどんな規格品よりも、生命力に満ちて輝いて見えた。
「まあ……! なんて素晴らしい食材でしょう」
私は心からの感嘆を漏らした。この生命の輝きの前では銀貨も霞んでしまう。
「充分ですわ。むしろ、いただきすぎなくらい。……承知いたしました。本日はお二人の還暦のお祝い。私の腕によりをかけて、この素晴らしい食材を使って料理を作りましょう」
私が微笑むと、二人はホッと胸を撫で下ろし、テーブル席の椅子にちょこんと腰掛けた。
厨房に入り、私は食材と対話する。彼女たちがリクエストしたのは、食べ慣れた郷土の豆料理と、何か甘いもの。私はまず、赤インゲン豆をたっぷりの香味野菜と共に煮込み始めた。
「【静止】」
鍋の中の時間が、私の意思によって操作される。通常なら半日かかる煮込みを、魔法の圧力で短縮させる。豆の皮が破れる直前、デンプンが糖に変わり、とろりとした旨味がスープに溶け出す「完熟の瞬間」を固定する。味付けは塩とハーブ、少しのベーコンのみ。素材の力が強ければ強いほど余計な加味は不要だ。
そしてデザート。私は籠の中から、一際立派な人参を選び取った。彼女たちの還暦――六十歳という節目を祝うには、華美なデコレーションケーキよりも、大地の温もりを感じさせる焼き菓子が相応しい。作るのはキャロットケーキだ。
人参をすりおろす。鮮烈なオレンジ色の果肉からは、驚くほど甘い香りが立ち上る。ここでも【静止】を使う。すりおろした瞬間に始まる酸化を止め、フレッシュな香りと水分を生地の中に閉じ込めるのだ。 そこへ、砕いたクルミ、レーズン、シナモンとナツメグをたっぷりと加える。これらは体を温め、血の巡りを良くするスパイスだ。
オーブンの中で生地が膨らんでいく。焼き上がったケーキの粗熱を取り、その上に濃厚なクリームチーズのフロスティングを塗る。真っ白な雪原の上に、砂糖漬けにした人参の薄切りで作った、小さなオレンジ色のバラを飾って。
「お待たせいたしました。『双子星の祝宴、大地の宝石箱煮込み』と『還暦のキャロットケーキ・ブーケ仕立て』ですわ」
湯気の立つ皿が運ばれると、ローザとミネリは、しわくちゃの手を口元に当てて歓声を上げた。
「おやまあ……! すごいねぇ。あたしたちの豆が、こんなにハイカラな料理になるなんて!」
「このケーキ、人参のいい匂いがするよ。飾りがキラキラして、王様だってこんなお菓子は食べられやしないよ」
二人はスプーンとフォークを手に取り、一口食べるごとに、顔を見合わせて頷き合った。
その目尻には、光るものが浮かんでいた。
「美味しいねぇ……」
「ああ、美味しいねぇ……」
言葉少なながら深く味わうその姿は、長い人生を共に歩んできた者同士の、静かな対話のようであった。
食後のハーブティーを飲みながら、二人はぽつりぽつりと語ってくれた。 若い頃にそれぞれの夫に嫁ぎ、子供を育て上げ、大抵の苦労も幸せも味わい尽くしたこと。夫に先立たれ、子供たちは独立して今は離れて暮らしていること。
「今はね、昔みたいに二人で暮らしてるんだよ。嫁に行く前もずっと一緒にいたからね。元通りさ。子供も片付いたし、やっと気楽な身分になれたんだがらね」
「ああ。足が痛めば手を貸して歩き、目が霞めば代わりに見てやる。二人で一人みたいなもんだよ」
「気がついたらお互い六十年も生きちまった。こうなったら死ぬ時も一緒かねぇ……」
ローザが笑い、ミネリが頷く。そこには二人が得た、陽だまりのような安らぎがあった。
二人は何度も頭を下げ、仲良く手を繋いで帰っていった。夕暮れの道を、寄り添って歩く二つの小さな影。
「……悪くないもんだな、きょうだいってのは」
皿を片付けながら、ガルドが独り言のように呟いた。 私は無言で頷き、窓の外を見つめた。遠ざかる背中を見送りながら、私の心には一人の少女の面影が浮かび上がっていた。
――お姉さま。
かつて、私をそう呼んだ妹。マリアベル。
彼女は今、どうしているのだろうか。




