第34話 淑女の敗走と由緒正しき黄金の鶏肉ソテー【前編】
魔の森が吐き出す夜気は、不吉なほどに重く、時折甘美な腐臭を運んでくる。「とわずがたり」の窓ガラスが、微かに震えたような気がした。それは風のせいではなく、遠くから近づいてくる重厚な振動。
深夜に近い刻限。通常であれば、森の獣たちすら息を潜める時間帯に、その行列はやってきた。
石畳を噛む蹄の音、車輪が軋む音、ガチャリ、ガチャリと鳴る鎧の擦過音。扉が開き、冷たい夜風と共に数人の騎士たちが入って来た。彼らは客としてではなく、警護として鋭い眼光を店内に走らせる。その背後から、一人の女性が姿を現した。
「……ここね。辺境の隠れ家というのは」
それは、夜そのものをドレスに仕立てたような、圧倒的な存在感を持つ美女だった。艶やかでまっすぐな黒髪。濡れたカラスの羽のように輝き、象牙色の肌との対比が見る者を魅了する。豪奢なベルベットの旅装は、皺や泥はね一つなく、彼女がただならぬ身分であることを語っていた。
騎士の一人が、彼女の身分を告げた。男爵令嬢の、スー・フォン・モーティマーさまであられると。
「いらっしゃいませ。……随分とものものしいご到着ですこと」
私が微笑んで迎えると、彼女は長い睫毛を伏せ、カウンターの一番奥の席へと滑り込んだ。
「ごめんなさいね、夜分に騒がせてしまって。これから実家のある領地へ帰るところなの」
彼女はそう言うと、手袋を乱暴に引き抜きカウンターに投げ出した。動作一つにも、洗練された貴族の所作と、抑えきれない自棄が同居している。
「お酒をちょうだい。強いのを。それから……鶏肉のソテーはできるかしら。付け合わせは季節の根菜で、ソースはヴァン・ブラン(白ワイン)系でお願いするわ。宮廷風にね」
注文は具体的であり、舌の肥えた者特有の傲慢さを孕んでいた。
「もちろん可能ですわ。由緒正しき伝統料理ですもの」
鶏肉のソテーは料理をする者なら、誰でも知っている一番人気の家庭料理。レシピ本にも必ず載っているし、私自身も実家で数えきれないほど食べてきた。何も見なくても、目を瞑っていても作れてしまう。
ガルドは警戒心を露わにしながら、奥の席から騎士たちを睨みつけている。スーが騎士たちに目配せすると、彼らは黙って立ち上がり外へ出て行った。
「承知いたしました。最高の一皿をご用意しますわ」
私がワインボトルとグラスを置くと、スーは手酌で注ぎ、水のようにワインを煽った。酒が回るにつれ、彼女の瞳には妖しい光が宿り始める。
「ねえ、あなた。……これ、見える?」
彼女が細い指先を宙に遊ばせる。ヒュオッ、という鋭い音と共に、不可視の刃が私の頬を撫でた。それは風。ただの風ではない。凝縮された魔素の塊が、彼女の意思一つで鎌鼬のように踊っている。
「高位の風魔法でしょうか……。素晴らしい才能ですわ」
「そうよ。この風で、私はスカウトされたの。魔力よし、家柄よし、そして何より『健康』だからよし、とね」
スーは自嘲気味に笑い、空になったグラスを爪で弾いた。キィン、と硬質な音が響く。
「三年前、お勤めを始めたの。いけると思ったわ。この魔法があれば、私は地方の男爵令嬢で終わらない。もっと高い場所へ、雲の上まで駆け上がれるって」
彼女の言葉の端々に、隠しきれない未練と深い絶望が見え隠れする。 私はフライパンを火にかけながら、彼女の独白に耳を傾けた。鶏肉の皮目を下にし、弱火でじっくりと脂を出しながら焼いていく。パチパチという脂の爆ぜる音が、彼女の声にならない慟哭と重なるようだ。
「でも、だめだった。……クビになっちゃったわ。暇を出されたの。あんなに頑張ったのに」
彼女は頬杖をつき、ワインの液面を見つめたまま呟いた。悲しげな横顔は、砕け散る寸前のガラス細工のように危うく、そして美しかった。
私は肉の焼き加減を見極める。皮はパリッと黄金色に、身はしっとりと弾力を保つように。その、一瞬の「完璧」を捉えるために。
「【静止】」
魔法を発動させる。肉汁が繊維の中に閉じ込められ、熱の通りが最適化された「永遠の一瞬」を作り出す。そこへ、白ワインとエシャロット、たっぷりのバターを加えて乳化させたソースを流し込む。
仕上げに、コリンが森で採ってきたエストラゴンに似た野菜を散らす。王宮のレシピよりも、もっと土に近く、生命力に溢れた香りを纏わせる。
「お待たせいたしました。『帰路に立つ貴女へ贈る、黄金の鶏肉ソテー』ですわ」
皿を置くと、スーはハッとした。立ち上る芳醇な香りが、彼女の頑なな心を、少しだけ溶かしたかのように見えた。




