第33話 成金男の母の味、西の国から来た黄昏のベリーパイ【後編】
焼き上がったベリーパイは、湯気と共に、甘酸っぱい香りの奔流となってカウンターに置かれた。
サクサクとした黄金色の層が幾重にも重なり、その隙間から、ルビーを煮詰めたようなジャムがとろりと顔を覗かせる。
「……できました。これが、お母さまのレシピを忠実に再現した『黄昏のベリーパイ』になるかと」
ラハン氏は、呆然とパイを見つめていた。その瞳は、困惑気味に揺れている。震える手でフォークを握り、彼はパイの一角を切り崩した。カサリ、という乾いた音が響き、湯気が彼の顔を包み込む。
彼がパイを口に運んだ、その瞬間。
「――っ!」
店の時間も……止まったようだった。
ラハン氏は目を大きく見開き、咀嚼することを忘れ、やがてゆっくりとその巨体を震わせ始めた。 脂ぎった頬を伝って、一筋、また一筋と、透明な雫が流れ落ちていく。
「……あ、ああ……。これだ……」
彼は掠れた声で呟き、子供のように顔を歪めた。
「母ちゃんの味だ……。酸っぱくて、甘くて……遠い日に見た夕焼けみたいな味がする」
ラハン氏は、周囲の目も憚らず、大粒の涙をボロボロとこぼしながらパイを貪り始めた。
「おっさんはどうしちまったんだ?」
ガルドは毒気を抜かれたように目を丸くした。
ラハン氏はパイを食べ終えると、俯いたまま独り言のように語り始めた。
「……俺は、今はこんな風体だが生まれはそれほど悪くない。貴族の三男坊だったんだ。親父は地方領主で、母ちゃんは……西の国からやってきて金で買われた妾だった。母ちゃんは魔法が使えたんだ。よくこのベリーパイを焼いて食べさせてくれた」
そこで彼は拳を握りしめ、テーブルを軽く叩いた。
「だが、俺は……母ちゃんを苦しめた。俺が出来損ないだったから。俺には出なかったんだ、固有魔法が……。俺はどうしようもない凡人だった」
「そうだったのですね……」
私はラハン氏が味わった苦しみを理解した。――私も、まあ……似たようなものだから。
魔法至上主義のこの国において、平民ならともかく、貴族の子弟に『固有魔法』が発現しないことは致命的な欠陥とされる。貴族とはすなわち魔法が使える者、魔術師と同義なのだから。
例外はあれども、大抵は六歳から十六歳くらいの間に固有魔法が発現する。もし出なかった場合は、家の恥、家族の恥、一族の汚点とされ、世間に知られないうちに放逐されるのが常だ。けして表沙汰にはならないけれど、それは王族ですら例外ではないという。
「十六の時、俺は着の身着のままで追い出された。母ちゃんは泣いて親父に縋ってくれたが、親父は聞く耳を持たなかった。それどころか母ちゃんを殴って罵倒したよ。『お前が悪い。こんな穀つぶしを産みやがって』とな。俺はブチ切れて、親父を突き飛ばして殴って……そのまま屋敷を飛び出した。……俺は誓った。魔法が使えなくても生きてやる。生きて、金を稼いで、あいつらを絶対見返してやるってな」
父親が息子を着の身着のままで追い出す……母親を責めて殴る。まさに修羅場だ。
私も実家では「冷蔵庫」と見下されて追放されたけど……放棄された宿場町とはいえ財産を分与されたし、衣類や靴、レシピ本といった私物はすべて持ち出すことができた。当座の食料を持ち、一文無しでもなかった。父に殴られることもなかった……。貴族の家ではよくあることとはいえ、ラハン氏の境遇に比べれば、まだ恵まれた方だったのかもしれない。
それからの波乱の人生を、彼は滔々と語った。羊毛の仲買人として働きだし、時に足蹴にされ、騙され、それでも歯を食いしばって働いて財を成したことを。
「羊毛相場で当てて、まともな暮らしができるようになって……俺は母ちゃんを迎えに行った。だが、母ちゃんは……すでに流行り病で死んでいた」
ラハン氏は、空になった皿を愛おしげに撫でた。
「俺は、業突く張りの兄貴から母ちゃんの遺品をすべて買い取った。その中にパイのレシピのメモがあった。材料を揃えては色んな料理人に依頼したが、誰も母ちゃんの味を再現できなかった……」
彼は立ち上がると、深く頭を下げた。その姿には、入店時の傲慢さは欠片もなかった。
「……俺はどうかしていた。金にあかせて、ひどい態度を取ってしまった。すまなかった」
店内には、温かな沈黙が満ちた。
「お顔を上げてください、ラハンさま。……料理人にとって、皿を綺麗に空けていただく以上の喜びはありませんわ」
彼は照れくさそうに鼻をすすり、再びハンカチで顔を拭った。
「俺も今ではいっぱしの商売人だ。羊毛以外にも手広くやっていて顔が効く。何かできることがあったら言ってくれ」
「……でしたら」
私は先日、カワウソ獣人のノノタンが置いていった開かずのレシピ本のことを話した。
「実は、【呪法解除】の魔法を使える魔術師を探しておりますの。辺境では、到底見つかりそうになくて……」
「呪法解除、か……」
ラハン氏は顎に手を当て、記憶を掘り起こすように目をパチパチとしばたかせた。
「俺は魔法のことはさっぱりだが……母ちゃんの故郷、西の国には『コルデーム』という魔法都市がある。古代の魔法の研究者や、流れ着いた変わり者の術師が集まる吹き溜まりみたいな場所らしい。そこになら、本の封印を解ける奴がいるかもしれん」
「魔法都市、コルデーム……」
西の国。ラハン氏の母君の故郷であり、未知の魔法技術が眠る場所……か。開かずのレシピ本を解き明かす鍵は、西の空の下にあるのかもしれない。
「ありがとうございます、ラハンさま。とても貴重な情報ですわ」
「礼を言うのはこっちだ。……とっといてくれ。これは、俺の感謝の気持ちだ」
彼は、最初に放り投げた金貨の袋にさらに数枚の金貨を上乗せした。
「またベリーを持ってここに来る。今度は、パイだけじゃなく食事ももらおう」
ラハン氏は、幾分軽くなった足取りで扉を開けた。夜風と共に去っていく彼の背中は、来た時よりも堂々として見えた。彼が去った後、私はカウンターに残された金貨と空っぽの皿を見つめた。
ガルドが、ポツリと呟いた。
「あのおっさん、死んじまったお袋の味を求めてあちこち訪ね歩いてたのか。切ねえな」
「どこも同じね……」私は大きく息を吐いた。
「何がだよ」
「魔法が使えない人間に対する、差別や仕打ち……」
「エリスは使えるだろ」
「ええ……でも、求められるのは強力な攻撃魔法か回復魔法。高度な補助魔法よ。少なくとも【静止】は評価されなかったわ。別にいいけどね」
私は、乾いた清潔な皿を棚に戻しながら、窓の外の空を見上げた。
かつてラハン氏の母君がパイを作る際に使ったであろう、優しい月の光が静かに降り注いでいた。




