第31話 カワウソ獣人の古書屋と北の珍味の川エビ料理【後編】
厨房には、心地よい緊張感が張り詰めていた。ノノタンから貸してもらったレシピ本「北限の食卓 完全版」を片手に、私は未知の食材と対峙する。
紅玉川エビ。その殻は硬く、ただ茹でるだけではゴムのような食感になってしまうという。本には「氷水で三日三晩戻す」とあるが、そんな時間はない。
「ならば、私の魔法でショートカットするまでね」
私は鍋にエビと、コリンが汲んできてくれた湧き水、そして香り付けの白ワインを入れる。通常ならば時間をかけて戻す工程を、私は【静止】の魔力を注ぎ、強制的に細胞を開かせた。
水分が浸透し、干からびていた身がプリプリとした弾力を取り戻す。その「最高潮の瞬間」にさらに【静止】を重ね掛けする。 これ以上水分を吸えば水っぽくなり、足りなければ硬いまま。針の穴を通すような絶妙な瞬間を、魔法で固定するのだ。
次に、たっぷりのバターで刻んだ香味野菜を炒め、そこへ戻したエビを投入する。ジュウウウッ、という派手な音と共に、甲殻類特有の香りが鼻孔をくすぐる。濃厚なミルクと生クリームを加え、とろみがつくまで煮詰める。仕上げに、軽く焦がしたバターとパセリを散らして完成だ。
「お待たせしました。『紅玉川エビの北国風ビスク・フラン』ですわ」
湯気が立ち上るスープ皿を前に、ノノタンは老眼鏡の位置を直し、鼻をひくつかせた。
「ほう……。香りだけで合格点を与えたくなるじゃら」
ノノタンはスプーンですくい、口へと運ぶ。その瞬間、カワウソの丸い目が、驚きに見開かれた。
「……なんじゃら、これは! 干しエビ特有の硬さや臭みは消え、身は獲れたてのような弾力! それでいて、干したことによる熟成された旨味が、クリームの中で踊っておるじゃら……!」
ノノタンは夢中でスプーンを動かし、最後の一滴までパンで拭って平らげた。
「見事じゃら。わしの故郷の味を……軽く飛び越えていきおったじゃら。……約束じゃら、これを受け取るがいいじゃら」
満足げに腹をさすりながら、彼はテーブルの上に例の古書を置いた。重厚な黒革の表紙。金文字で記されたタイトルがランプの光を弾く。
「これはわしのとっておきじゃら。何せ金貨三十枚の価値があるじゃら。……大事にするんじゃらぞ、嬢ちゃん」
ノノタンは「北限の食卓 完全版」をリュックに入れて背負うと、満足げな笑みを浮かべて扉へと向かった。扉の前で振り向くと私に言った。
「北へ帰るには良い風が吹いておるじゃら。また会おうじゃら、腕利きの料理人どの」
「ありがとうございました。道中、お気をつけて」
彼が去った後、店内に残ったのは一冊の貴重な古書。そして、私たちの興奮だけだった。
「やったな、エリス! 金貨三十枚だぞ! これで肉も酒も買い放題じゃねえか!」
ガルドが喜びの声をあげ、コリンも目を輝かせている。
「売る気はないわ。少なくとも北国のレシピを覚えるまではね」
私は震える手で、手に入れたばかりの「宝物」に触れた。中に記された秘伝のレシピを使えば、王都の美食家たちを唸らせることもできるかもしれない。レシピを書き写した後で、本を売ればまとまったお金も手に入る。私は高揚感に包まれながら、早速表紙をめくろうとした。ところが……。
――開かなかった。
「……あれ?」
指に力を込める。びくともしない。まるで、表紙とページが鋼鉄で溶接されているかのようだ。本は押しても引いても開かなかった。
「どうした、エリス。もったいぶってねえで、早く中を見せろよ」
ガルドの急かしに私は茫然と呟いた。
「違うのガルド。この本……開かない」
「なんだって……?」
私は焦りながらも、表紙を見つめた。よく見ると、表紙の下の方に、複雑な幾何学模様が描かれている。魔力はその模様から感じられた。
「……もしかして、魔法封印?」
それは、本に施された鍵……でもない。古代の魔術式で施された、強力なプロテクトだった。
さらには表紙の隅に、虫眼鏡で見なければ気づかないほど小さな文字で、こう刻まれていた。
『封印解除には、位階第九級以上の【呪法解除】の固有魔法を要す』
「……はあ?」
私は呆けた声を出した。位階第九級以上の【呪法解除】。……何それ? 【呪法解除】自体、聞いたことがない魔法だ。
そんな特殊なスキルを持つ魔術師なんて、王都の宮廷魔導師に……いるのかいないのかもわからない。そもそも、この国にいるのかも……。
もし仮に魔術師を見つけたとしても、解除の依頼料はとんでもなく高いのでは……?
つまり、この本は――。
中身がどれほど希少で高価であろうと、開くことのできないただの重たい「革と紙の塊」でしかなかった。
「あ――っ! ……やられた。やられたわ」
私は小さく叫び、椅子に深くもたれかかった。ノノタンは嘘はついていない。確かにこの本には金貨三十枚の価値があるかもしれない。でも、それを読むことも換金することも、今の私には不可能なのだ。彼は、私の料理をタダで食べるために、私には扱いきれない「不良在庫」を押し付けていったのである。
「ぶっ……くくくっ! なんだそりゃ! 傑作じゃねえか!」
状況を理解したガルドが、腹を抱えて笑い出した。 コリンも肩を震わせながら言った。
「カワウソの獣人はかわいい顔して、食えない奴だったってこと? ……でも、美味そうに食べてたけどなあ」
……誰がそんなうまいことを言えと? いや、「美味い」方ではなく。エルフもかわいい顔して食えないわね。
「笑いごとじゃないわよ」私は二人を睨みつける。
「また詐欺に遭うなんて……最悪」
ガルドがニヤニヤしながら言う。
「詐欺にもならねえんじゃねえか? 捕まえたところで『魔法の封印がかかっているなんて知らなかったじゃら』とシラを切られたら終わりだろ」
「古書屋の店主が、開けない本を売り物にするわけないでしょ。絶対にわざとだわ!」
私は語気を荒げる。
「そうプリプリすんなよ、エリス。エビになっちまうぞ」とガルド。
「そうそう、美人が台無しだよ」とコリン。
私は思わずテーブルを叩いた。
「もうっ! ガルドにコリン、あなたたちは一体どっちの味方なの? ガルドも、同じ獣人だからってあっちの肩を持つ気?」
「……エリスだよ。アンタの側だ。悪かったよ」
と言いつつも、ガルドは笑いを堪えている。……今夜は夕食抜きの刑に処してやろうかしら?
私は、開かない本を前に深く溜息をついた。今からノノタンを追いかけても無駄なことはわかっている。何せカワウソなので、水辺に行って潜られたらどうしようもない。両生類め。
「……ノノタン。次に会ったら、干しエビどころじゃない請求をしてやるから!」
私の負け惜しみは、店内に虚しく響いた。 手元に残ったのは、無用の長物と化したレシピ本。悔しさと、なぜか憎みきれない敗北感だけだった。
私は立ち上がり、空になったスープ皿を片付ける。騙されてしまったが、極上のビスクを作ったという事実は、私の指先に確かな熱として残っている。
――またイチから、出直しかな? 私はため息を吐きながら、再び厨房へと戻る。




