第30話 カワウソ獣人の古書屋と北の珍味の川エビ料理【前編】
窓の外では、魔の森が深緑の溜息を吐き出していた。「とわずがたり」のカウンターには、いつものように巡回商人たちが広げた香辛料や乾燥野菜が並んでいる。その色彩は私の目にはどこか色褪せて映る。商品の質の問題ではなく、私の懐事情という冷厳な現実が、世界から彩度を奪っているからかもしれない。
「……もう少し、安くなりません? この乾燥ポルチーニが三袋と岩塩、合わせて銀貨二枚というのは」
私が貴族の矜持を捨て、市場の主婦のように懇願すると、恰幅のいい商人は困ったように肩をすくめた。
「勘弁してくれよ、嬢ちゃん。こっちだって商売だ。定期的に大量購入してくれるなら、多少は安くできるがこの程度じゃな。無理だよ。輸送費だって安くないんだぜ?」
商人の言葉は正論であり、それゆえに鋭い刃となって私の胸を刺す。バイシャンに全財産を奪われて以来、店の経営は薄氷の上を歩むような日々が続いている。カイゼル司祭、鉄血福音教導隊のシスターたちの来店で多少の呼吸はできているものの、最高級の食材を惜しげもなく使い、芸術のような一皿を生み出す余裕は、今の私にはない。
「……そう。無理を言ってごめんなさい」
商人が去った後、店内に残されたのは、買えなかった食材の残り香と、無力感だけだった。ガルドは店の隅で欠伸をし、コリンは心配そうに私を見つめている。 貧困……というほどでもないけど、選択肢を奪われるということは、創造の翼をもがれるということでもある。
沈鬱な空気を破るように、扉が開いた。入ってきたのは、奇妙な来訪者だった。それは、直立して歩くカワウソの獣人だった。身長は一メートルほどしかない。全身を覆うのは、油を染み込ませて耐水性を高めた、重厚な「オイルド・キャンバス」と呼ばれる厚いマント。フードの下から覗くのは、愛嬌のある丸い耳と、濡れたように黒く輝くつぶらな瞳、そして口元に生えた白い髭。
「ここは良い匂いのする店じゃら」
しゃがれた、どこかユーモラスな響きを持つ声。彼は短い足で店内に入ると、独特の油と古紙の匂いを漂わせた。首からは、アンティークの小さな老眼鏡を紐で下げている。
「いらっしゃいませ。……ガルド、お客さまよ」
私が声をかけると、ガルドが鼻を鳴らして身を起こした。
「ああん? この辺りじゃとんと見ない顔だな」
「見たことなぞないはずじゃら。わしは北の国から来たじゃら」
「北の国にはカワウソの獣人なんているのか? こんな珍妙な生き物は見たことがねえぞ」
「失敬な犬っころじゃら。わしはノノタン。北の大河と湖沼を渡り歩く、移動古書屋の店主じゃら。南にも商売に来たんじゃら」
「犬じゃねえし!」
ノノタンと名乗ったカワウソ獣人は、ガルドの暴言を柳に風と受け流し、カウンターの席によじ登った。そして、背負っていた巨大なリュックをどさりと置いた。
「わしはな、あちこち巡りながら、希少な古地図や植物図鑑、今は失われた魔道書なんかを売り歩いておるんじゃら。……どうじゃ、嬢ちゃん。こんな本に興味はないじゃらか?」
彼がリュックから取り出したのは、見たこともない装丁の書物だった。北方の巨獣の革で表紙を張り、金箔で彩られた背表紙。ページを捲ると未知のハーブや、氷海に潜む魚介類の精緻な挿絵が踊っている。
「これは……『北限の食卓 完全版』、それに『氷河期食材の保存術』……?」
紙を繰る私の指先は震えた。料理人にとって、未知のレシピとは宝石以上の価値を持つ。特に、今の私のように手詰まりを感じている者にとっては、喉から手が出るほどの。
だが、装丁の豪華さを見るだけで、価格が私の支払い能力を超えていることは明白だった。
「……素晴らしい本ね。でも、残念ながら今の私には、これを買うだけのお金はないわ」
私が本を閉じ、未練がましく返すとノノタンは老眼鏡を鼻先に乗せ、私の顔をじろりと覗き込んだ。
「金がない、か。……ふむ。だが、ここは飯屋。腕はあるようじゃらな」
彼は髭を震わせ、懐から包みを取り出した。 開かれた油紙の中には、鮮やかな朱色をし乾燥した川エビがぎっしりと詰まっていた。
「これは北の清流でしか獲れない『紅玉川エビ』じゃら。干すことで旨みが凝縮されておるが、戻し方と火の入れ方が難しくてな。……どうじゃ、嬢ちゃん。このエビを使って、わしに故郷の味を食わせてくれんか? わしもこの国の金は持ってないじゃら。代わりに――」
ノノタンはリュックの奥底から、一際古びており、重厚な魔力を帯びた一冊の本を取り出した。
「この『ドリアネス郷北方料理大全 ~金言愛蔵版~』を置いていくじゃら。食の魔術師が執筆した希少本じゃら。市場に出せば金貨三十枚は下らない代物じゃら」
金貨三十枚。……それ以上に「北方料理大全」という単語の魅惑的な響き。
この本一冊で、北国料理の全てが網羅できる……?
「……本当に? 私の料理と引き換えに、これをくださるのですか?」
「商人に二言はないじゃら。ただし、わしの舌を満足させられなければ、エビ代を請求するじゃら」
それは賭けであった。しかし、料理の腕一本で生きようとしている私にとって、受けて立たぬ理由はない。
「いいでしょう。その挑戦、受けてたちますわ」
私はエプロンの紐をきつく締め直し、朱色のエビを手に取った。乾燥してもなお、清冽な川の香りが鼻腔をくすぐる。
北の珍味と、私の【静止】スキル。
この出会いが、賭けの勝利につながることを信じて。




