第3話 ごはん屋「とわずがたり」開店
廃墟というものは、ある種の詩的な美しさを孕んでいるものだ。かつて人の営みがあった場所に、自然が緩やかに侵食し、静寂という名のヴェールで覆い隠す。私はその退廃的な美を愛していたけれど、食事をする空間にまで「滅びの匂い」が漂うのは許容できない。
私はこの一週間、徹底的な清掃と修繕に明け暮れた。
私の【静止】は、時間を止めるだけではない。応用すれば、崩れかけた煉瓦を「崩れる一瞬手前」の状態まで巻き戻して固定することも、磨き上げた窓ガラスを「永遠に曇らせない」ことも可能だ。
結果として、魔の森の入り口に佇むこの館は、奇妙なコントラストを持つことになった。
外観は蔦の絡まる古城の如き風情を残しつつ、一歩足を踏み入れれば王都のサロンもかくやという清潔さと豪華さに満ちている。
私は、入口の扉に一枚の看板を掲げた。流木を削り、炭でさらりと書き記しただけの屋号。
ごはん屋『とわずがたり』。
おいしいひとりごと。多くを語らずとも、皿の上が全てを物語る。そんな意味を込めた、私の城。
今日は、そのささやかな出発の日だった。
「エリス。腹が減った」
開店の準備を整え、白いエプロンの紐を締めたちょうどその時、扉が荒々しく開かれた。
入ってきたのは、私の大事な「番犬」こと、ガルドだ。
朝靄の立ち込める森へ狩りに出かけていた彼は、その巨体に森の冷気と、鉄錆のような血の匂いを纏わせていた。
「おかえりなさい、ガルド。獲物は?」
「おう、今日は大物だ。そこらにいるゴブリン共とは肉の締まりが違う。早くメシにしてくれ。胃袋が共食いを始めている」
「何それ」と私は思わず吹き出した。
彼が背負っていた麻袋を床にドサリと下ろす。袋の口から覗いたのは、深紅の鱗に覆われた巨大な猪――「フレイム・ボア」の頭部だった。
通常なら、熟練の冒険者パーティが総掛かりで挑むAランク指定の魔獣だ。
その肉は脂身とともに甘く、極上の美味として知られている。が、仕留めて数分で肉が硬化し始めるため、真価を味わうことは不可能とされている。
「……素晴らしいわ」
私は感嘆の吐息を漏らし、すぐにその巨躯へ手を触れた。指先から魔力を流し込む。【静止】。
死後硬直が始まる前の、細胞一つ一つがまだ生を記憶している刹那。その鮮度を、永遠の魔法の檻に閉じ込める。これで、この肉は数年先まで「狩りたて」の味を保ち続ける。
「報酬だ。最高の一皿を出せ」
「ええ、もちろんよ。ちょうどパンが焼き上がるところだわ」
私は厨房へと戻り、オーブンの扉を開けた。
香ばしい小麦の香りがホール全体を染め上げるように広がった。辺境の地において、パンとは「石のように硬い保存食」つまり水分を含まないビスケットを意味する。
だが、私の店では違う。窯から出した瞬間の、あの幸福な熱気と柔らかさを、私の魔法は完璧に維持し続ける。
本日のメニューは、フレイム・ボアの厚切りステーキ、香草と岩塩のグリル。
付け合わせには、王都から持参した高原野菜――これもまた、収穫の朝の瑞々しさを保っている――をふんだんに使ったポトフ。
熱した鉄板の上で、霜降りの赤身肉が転げる。脂が弾け、野生の香りが食欲という本能を刺激する。
仕上げに、辺境では貴重な赤ワイン(もちろん酸化などしていない)をフランベして香りを纏わせれば、完成だ。
「お待ちどうさま」
湯気を立てる皿をカウンターに置いた瞬間、ガルドの喉がゴクリと鳴った。
彼は礼儀作法などは知らぬ獣だ。ナイフを使うのもまどろっこしいとばかりに、手掴みで肉の塊に齧り付いた。
「――ッ!!」
ガルドの黄金の瞳が、驚愕と恍惚に見開かれる。肉汁が口の端から滴り落ちるのも構わず、彼は咀嚼し、嚥下し、そして吠えた。
「なんだこれは……! 肉が、口の中で溶けるぞ! 血の臭みなど微塵もない、ただ濃厚な命の味がする!」
続いて、彼はポトフのスープを器ごと煽り、焼きたてのパンを千切って口に放り込む。 外はカリッ、中はモチモチ。食感のコントラストに、歴戦の傭兵らしい顔が、菓子を与えられた子供のようにほころんでいく。
「美味い。美味いぞエリス! 俺は今まで、何を食って生きてきたんだ」
豪快な食べっぷりは、見ていて清々しいほどだった。
彼にとって食事とは、もはや生存のための燃料補給ではなくなっていた。魂を震わせる悦楽。
私が求めていたのは、澄ました顔で皿を突く貴族の賛辞ではない。この、剥き出しの渇望だったのかもしれない。
その時だった。開け放たれた扉の外から、ざわめきが聞こえてきたのは。
「おい、なんだこの匂いは……?」
「この辺りで飯屋なんて、聞いたことがねえぞ」
現れたのは、四人組の冒険者だった。
身なりは薄汚く、疲労の色が濃い。魔の森の探索を終え、野営地を探していたのだろう。
彼らの目は警戒心と、抗いがたい食欲の間で揺れ動いていた。
彼らの視線の先には、廃屋のような外観の店内で、一心不乱に極上の肉を貪る巨漢――ガルドの姿がある。
「いらっしゃいませ」
私はカウンターの中から、営業用の微笑みを浮かべた。
冒険者の一人、リーダー格らしき剣士が、狐につままれたような顔で問いかけてくる。
「嬢ちゃん、ここは……店か?」
「そうよ。私のお店」
「その男が食ってるのは……もしかしてフレイム・ボアじゃねえか? いや、まさか。あの肉がそんな柔らかそうなんて……ありえねえ」
「当店は素材の鮮度には、少々自信がございますの」
「鮮度だぁ? ここは王都から馬車で三日かかる辺境だぞ。野菜だってしなびて……」
男の言葉は、そこで途切れた。私が無言で差し出した、バスケットに盛ったパン。
その一つを、疑わしげに手に取った瞬間、彼の指はパンの柔らかさに沈んだ。
「……は?」
仲間の魔術師らしき女性が、信じられないものを見る目でパンを見つめる。
「温かい……の? 今窯から出したみたいに」
彼らは顔を見合わせ、誰からともなく席に座り込んだ。空腹は、何よりも雄弁だ。
「お、おい! 俺たちにもそれと同じ肉をくれ! あとシチューもだ!」
「ポトフです」
「なんでもいい。全部だ。金ならある。言い値でいい!」
私は心の中で、小さなガッツポーズをした。
「かしこまりました。銀貨三枚になります」
やがて、私の小さな店は、咀嚼音と感嘆の声、そして熱気のある沈黙に支配された。
食べるほどに彼らは言葉を失った。何日も保存食の干し肉と硬いパンを齧り続けてきた彼らにとって、私の料理は衝撃そのものだろう。
シャキシャキとした野菜の歯ごたえ。溢れ出す肉汁。湯気の立つ柔らかいパン。
それらは全て「時間」という残酷な神に奪われるはずのもの。けれど、ここでは違う。
「信じられん……王都の高級店より美味いぞ……」
「生き返る……魔力が戻ってくるのがわかるわ」
涙ぐまんばかりの表情で食事をする彼らを見ながら、私はグラスを磨く。
ふと、ガルドと目が合った。
彼は骨までしゃぶり尽くした皿の前で、ニヤリと凶悪に笑った。
『どうだ、俺が連れてきてやった客だぞ』
そんな自慢げな声が聞こえた気がして、私は苦笑する。
ええ、認めるわ。あなたの豪快な食いっぷりこそが、最高の宣伝広告よ。
実家のお父さま、そしてマリアベル。あなたたちは知っているかしら。
あなたたちが「腐らないだけ」と蔑んだこの力が、今辺境の荒くれ者たちを骨抜きにし、涙を流させていることを。
きらびやかな舞踏会よりも、この埃っぽい食堂の熱気の方が、今の私には何倍も心地よい。
「おかわりだ、嬢ちゃん! あの酒もくれ」
「はいはい、ただいま」
私は忙しなく動き回る。
重たい銀のトレイも、今の私には羽のように軽く感じられた。
こうして、辺境のごはん屋「とわずがたり」は、伝説の幕を開けたのだった。




