第25話 斥候司祭と清浄なる温野菜料理【前編】
魔の森が深い霧に沈み、木々が湿った吐息を漏らす昼下がり。「とわずがたり」の厨房では、微かな金属の触れ合う音と、沸騰する鍋の規則正しい鼓動だけが響いていた。
バイシャンに全財産を奪われたあの日から、私の日常は一変した。高級食材は姿を消し、今はレオンハルトがくれた僅かな銀貨と、ガルドやコリンが森から運んでくる野趣溢れる素材が命綱。
苦境は私に新たな魔法の境地を教えてくれた。【静止】の魔力は、今や素材の腐敗を防ぐためだけでなく、安価な根菜でも内部に眠る甘みを最高潮の瞬間に「封じ込める」ために日々研ぎ澄まされつつある。
カウンターの隅で、退屈そうに刃物を研いでいたガルドが、黄金の瞳を細めて入り口を睨んだ。
「誰か来たぜ」
「えっ、そう?」
「今日は……なんだ? 妙に清浄な魔素を纏ってやがるな」
開かれた扉から滑り込んできたのは、雨上がりの森のような、凛とした空気。
現れたのは、真っ白な司祭服に身を包んだ老人だった。雪のような白髪を長く伸ばし、その瞳は薄い膜が張ったように白濁している。隣に寄り添う若い見習い修道士の少年に、手を引かれて歩を進める。
「……ここですね。時の止まった、かぐわしい味がする店というのは」
老人の声は、古びたチェロの低音のように深く、重厚だった。
私は反射的に背筋を伸ばし、貴族令嬢としての最敬礼で彼を迎えた。
「いらっしゃいませ。……教会の高位の司祭さまとお見受けいたします。辺境の小さな店へ、ようこそお越しくださいました」
「カイゼルと申します。……ああ、店主殿。畏まる必要はありません。私はただ、飢えた腹を抱えた老いぼれに過ぎませんから」
カイゼル高司祭。その名を聞いた瞬間、私の脳裏に王都の社交界で囁かれていた噂が蘇った。生まれつきの弱視でありながら、半径百キロ以内のあらゆる魔力反応を手のひらの上にあるかのように把握する、伝説の「斥候司祭」。彼の固有魔法【広範察知】から逃れられる者は、この国には存在しないと言われている。
確か、軍部直属の従軍司祭を総括する組織「鉄血福音教導隊」、通称「戦う教会」の顧問を長らく務めておられたはず――。今も現役なのだろうか。
「早速、お食事を用意いたします」
テーブル席に案内すると、見習いの少年が言った。
「司祭さまは菜食主義でいらっしゃいまして……」
カイゼル司祭は手を上げ、少年を穏やかに制した。
「違うのですよ。誤解しないでいただきたい。私は教義で肉食を禁じているわけではないのです。単に大地の滋養が詰まった野菜というものが、たまらなく好きなだけなのですよ」
彼は白濁した瞳を私の方へ向け、柔和に微笑んだ。
「ただ、歳をとると冷たいサラダは少々胃に堪えましてね。……この霧深く寒い日に身体を温めてくれるような野菜料理を頂けますかな?」
「つまり、温野菜ですわね」
温野菜料理。それは簡単に見えて、料理人の腕が最も試される献立だ。茹ですぎれば香りは逃げ、素材の魂は水の中に溶け出してしまう。かといって火が足りなければ、大地のえぐみが舌を刺す。
「承知いたしました。カイゼルさま。……私の魔法で、野菜たちが最も美しく目覚める瞬間をお見せいたしましょう」
私は厨房の奥へ入った。コリンが届けてくれた、泥のついたままの『聖母の姫人参』。冬を越して甘みを凝縮させた『大地の真珠』こと小カブ、そして、魔の森の奥深くに自生する肉厚で香ばしい『隠者の笠』これは黒キノコだ。
私はそれらを、森の清水で洗い上げ、独自の調合を施した香草の海に浸した。
ここで、私の指先から魔力が溢れ出す。
「【静止】――。そして、限定的な『熱の浸透』」
野菜の「細胞壁」が壊れる寸前、甘みが最も引き出される摂氏八十五度の状態。その刹那を、私は魔法で固定した。通常なら熱を通し続ければ素材はクタクタに崩れてしまうが、私の魔法下では、野菜は「一番美味しい食感」を保ったまま、熱というエネルギーだけを内部に蓄え続ける。
供された一皿は、霧深い森に咲く花畑のようだった。
『聖なる夜明け――静止を施した、冬野菜のコンフィ・ヴェール』。
味付けは、僅かな岩塩と、一番安いオリーブオイルに一滴の白ワインビネガーを混ぜたものだけ。
カイゼル司祭は、料理に顔を近づけ、震える手でフォークを取った。
「……ああ、なんと。見えなくても香りでわかる。野菜たちが、まだ生きている」
恐る恐る運んだ一口。 人参を噛んだ瞬間、司祭の頬は奇跡を目の当たりにした信徒のように紅潮した。




