第23話 再起をかけて、一文無しの貧乏人のフルコース【前編】
窓の外、魔の森は今日も豊かな深緑を湛えていた。しかし、私の店「とわずがたり」の中には、かつてない寒風が吹き荒れている。それは隙間風などではない。私の金庫、私の誇り、そして私の未来が収められていた場所が、清々しいまでに空っぽになったことから来る精神的な凍てつきだった。
バイシャン。あの砂漠の女商人、いや女泥棒は、私の全財産だけでなく持参したスパイスの全ても回収し、煙のように消え失せた。残されたのは、眠り薬の残滓による気怠さと、悔恨という名の苦い味だけ。
「……ない。本当に、何もないわ」
私は厨房の戸棚を開け放ち、呆然と立ち尽くした。高級な小麦粉も、熟成されたワインも、先日シレイが置いていったマグロの残りも全て使い切ってしまっていた。仕入れに行こうにも、財布はすっからかん。馴染みの行商人のところに行けば笑顔で迎えてくれるだろうが、「ツケ」で高級食材を売ってくれるほど、世間は甘くない。辺境なら尚更だ。
手元にあるのは、賄い用にストックしておいた、泥だらけのジャガイモ。萎びかけた玉ねぎ。硬くなったパンの耳。そして、スープの出汁を取った後の、本来なら捨てるはずのクズ肉や野菜の切れ端だけ。
「うーん、これじゃあ『腐らない店』どころか『何もない店』だな。俺っちが森から何か採ってこようか?」
カウンターの向こうで、コリンが申し訳なさそうに眉を下げていた。
「ごめんよ。元はといえば、俺っちが旦那を連れ出したからなんだよな」
「私が油断したからよ。気にしないで」
と言いつつも、気持ちはどんよりと曇るばかりだ。
ガルドも、腕を組んで唸っている。
「エリス。俺が魔獣を狩ってくれば、肉には困らねえが。調味料がなけりゃあ、アンタの魔法でも味気ない焼き肉にしかならねえよな」
二人の優しさが、今は痛い。
私は、ごつごつとしたジャガイモを一つ手に取った。土の匂いがする。華やかな宮廷料理とは無縁の芋。でも、その重みを感じた瞬間、私の胸の奥で、消えかけていた熾火がパチリと爆ぜた。
「……いいえ。肉も、珍しい野菜も要らないわ」
私はゆっくりと顔を上げた。
「料理人の真価が問われるのは、最高級の食材を得た時ではないと思うの。……見向きもしないような『安い食材』から、王侯貴族をひざまずかせるような『黄金の味』を生み出した時ではないかしら」
私はエプロンの紐を、戦場に赴く騎士のようにきつく締め直した。
「見ていなさい。この泥だらけのジャガイモと、捨てられるはずのクズ肉で『一文無しの貧乏人フルコース』を作ってみるわ」
早速、調理開始。私の指先が華麗に舞う。
まずは、ジャガイモ。皮を厚めに剥く。通常なら捨てるこの皮こそが、今日の主役だ。丁寧に洗い、水分を拭き取った皮を、低温の油でじっくりと揚げる。
ここで、私の魔法【静止】を発動させる。
油の中で、水分が抜け、カリカリになるその「臨界点」。焦げる直前、香ばしさが最高潮に達したその一瞬を固定する。完成したのは『大地の黄金鱗――ジャガイモの皮のフリット、岩塩の涙を添えて』。
次に、萎びかけた玉ねぎ。これを極限まで薄くスライスし、飴色になるまで炒める。甘みを引き出すため、時間をかけて、焦がさないように……。甘みが凝縮し、ペースト状になった瞬間、その「糖度のピーク」を魔法で永遠に閉じ込める。これを、水で戻した硬いパンの耳に塗り、スープの出汁殻だったクズ肉を細かく裂いて混ぜ込み、オーブンで焼き上げる。『貧者のリエットと再生のバゲット』。
そしてメインディッシュ。野菜のヘタや皮、肉の骨から煮出した、透き通るようなコンソメスープ。具材は何もない。けれど、その液体には素材の命が全て溶け込んでいる。私は、スープの表面に浮かぶ油の一粒一粒の配置さえも計算し、湯気が立ち上るその「香り」の分子を、飲む直前まで拡散しないように【静止】させた。『虚飾なき真実――見えない具材の宝石スープ』。
「……できたわ。さあ、召し上がれ。これが今の私が作れる精一杯の贅沢よ」
私は皿を並べた。鮮やかな彩りはまるでない。茶色と黄金色だけの、地味な食卓。
けれど、そこから立ち上る香りは、どんな高級料理よりも力強く私の生存本能を刺激した。
タイミングよく、扉が開いた。現れたのは、沈痛な面持ちのレオンハルト騎士団長だった。
彼は私を見ると、開口一番言った。
「エリス殿……。すまない。部下を総動員して街道を封鎖したが、バイシャンと名乗る女の行方は……ようとして知れない。おそらく、転移魔法に近い手段を使ったか、組織的な逃走ルートを持っていたか……」
「転移魔法? バイシャンも魔法を使うの?」
「いや、本人が使えなくても問題ない。表でも裏でも、転移を商売にしている輩はそれなりにいる。転移魔法を使われると、街道を封鎖してもほぼ意味がない」
「勝ち逃げってことね」
「残念だ」
彼は悔しげに唇を噛み、兜を胸に押し当てた。
「……そう、ですか。いいえ、お気になさらないで。悪いのはあの泥棒であって、あなたではありませんもの」
私は努めて明るく振る舞い、彼を席に招いた。
「ちょうど、新作の試食会を始めるところでしたの。……貧相な食事ですが、捜索のお礼代わりにいかがです?」
レオンハルトは、並べられた料理を見て目を丸くした。 それが「残り物」で作られたものであることは、聡明な彼には一目瞭然だっただろう。けれど彼は何も言わず、席に着いた。
ガルド、コリン、そしてレオンハルト。 三人の男たちが、私の「貧乏料理」を口にする。
カリッ、という軽快な音が響く。 ジャガイモの皮のフリットを噛んだガルドが、目を見開いた。
「……なんだこれ。ただの皮だろ? なのに、中から芋の旨みが噴水みたいに湧き出してきやがる! サクサクなのに噛むとねっとりと甘い……!」
コリンは、玉ねぎのリエットを乗せたパンを頬張り、うっとりと目を細めた。
「すげえ……。萎びた野菜が、森の果実よりも甘くなってる。時間が止まってるから、口の中で香りがずっと消えないんだわ」
レオンハルトは具のないスープを一口啜り、静かに息を吐いた。
「……優しい味だ。冷え切った身体に、命の源が染み渡るようだ。……エリス殿。君は何も持っていないと言いながら、こんなにも豊かなものを生み出せるのか」
彼のアイスブルーの瞳が、心なしか潤んでいるように見えた。失意のどん底にいた私にとっては、何よりの賛辞だった。
「……美味しい? なら、よかったわ。作った甲斐がありました」
私はエプロンで目元を拭うふりをして、背を向けた。
食事の後。レオンハルトは「これは犯罪者捜索の報告書作成の合間の公的な食事だ」と言い張り、正規の代金を――いや、それ以上の金額をテーブルに置いてくれた。ガルドとコリンは「俺たちは労働で返す」と言って胸を張った。
そう、お金は持ってないのよねこの二人……元からあまり頓着しないし。
手元に残ったのは、レオンハルトが置いていった銀貨数枚。ジャガイモと玉ねぎだけを買うなら十分。その他の生鮮食品、加工品、調味料やワインを仕入れるにはあまりにも頼りない。
私は銀貨を握りしめ、現実の壁に突き当たった。野菜くずや肉片でも美味しい料理は作れる……けれど店を維持し、かつての輝きを取り戻すための「資本」が圧倒的に足りない。




