第22話 異国のスパイス商人と痺れる料理【後編】
食事が終わるころ、コリンがやってきた。彼はまっすぐガルドの元へ来ると言った。
「悪い、旦那。木材が届いたんだけどさ、俺っち一人じゃ大きくて重くて運べないんだわ。ちょっくら手伝ってくんない?」
ガルドは眉根をひそめた。
「ああん? 俺は狩人兼エリスの護衛で、なんでも屋じゃねえんだぞ?」
「そう言わないでさ。旦那の怪力ならパパッと終わるからさ」
コリンは「とわずがたり」の近所にある小さな廃屋に住んでいる。エルフは本来は森林の奥、万年樹と呼ばれる大木や洞窟を利用して暮らすようだ。といっても来てまだ日が浅く、危険の多い魔の森に住む気はないらしい。長生きであっても外見はか弱い子供、森で一人暮らしをして何かあっても困る。人里で暮らした方が安全と考えたようだった。
が、荒れ果てた家内はとてもじゃないが快適な住居とは言いがたい。
彼は魔の森で採れる野菜や香草、薬草を売ったお金で煉瓦や木材、石材を購入し、腐った床を張り替えたり、屋根の穴を塞いだり、煙突を設置したりして住み心地のよいものに改装していた。
「しょうがねえなあ……」
ぶつくさ言いながらもガルドは立ち上がった。なんだかんだで、彼は暇さえあればコリンの新生活の手伝いをしている。二人は連れ立って出て行った。
満足げに腹をさすっていたバイシャンが、不意に真面目な顔つきになった。
「いやぁ、最高だったよ。……こんなに美味い飯を食ったのは、久方ぶりだね。礼と言っちゃなんだが、あたしからも一つ、ご馳走させておくれよ」
「え? でも代金はスパイスで頂きましたし……」
「いいや、あたしの気が済まないんだよ。……あたしの故郷にはね『旅人のホットワイン』っていう、疲れを一発で吹き飛ばす秘伝の飲み物があるんだ。折角だから、あんたたちに振る舞わせておくれ」
彼女はそう言うと、慣れた足取りで厨房へ入った。
棚から手際よく小鍋を取り出すと、赤ワインに砂糖、シナモンやクローブ、そして見たこともない乾燥した花びらを投入した。
「これがね、秘伝のスパイスなのさ」
コトコトと煮立つ鍋から、甘く、妖艶な香りが立ち上る。
しばらくして差し出されたホットワインが入ったマグカップ。
「さあ、できたよ。冷めないうちに飲んでみな」
私は、何の疑いもなくそれを受け取った。
一口飲むと、身体の芯から温かいものが広がり、手足の先まで力が抜けていくような心地よさに包まれた。
私は勧められるまま半分ほど飲んだ。
「……美味しい。甘くて、でもスパイシーで……」
「だろう? 砂漠の夜は冷えるからね。これで身体を温めて、泥のように眠るのが一番の幸せなのさ」
バイシャンの声が、どこか遠くで響いているように聞こえる。
あれ……?
泥のように、眠る……って、今……?
視界が歪む。 身体から力が抜ける。
「……な、に? か……身体が、おも……た」
ドサリと大きな音がする。私はあっけなく床に崩れ落ちた。
薄れゆく意識の中で、最後に見たのはニヤリと笑って見下ろすバイシャンの顔だった。
「いい夢を見な、お人好しの聖女さん。授業料は、高くついたねぇ」
そこで、私の世界は闇に落ちた。
「エリス! おい、しっかりしろ! エリス!」
……誰かが、私の肩を乱暴に揺すぶっている。
頭蓋骨の裏側で、鐘が乱打されているような激痛。私は呻き声を上げながら、重い瞼を押し上げた。 視界に飛び込んできたのは、窓から差し込む陽光と、埃の舞う天井だった。
「……っ、痛……」
私は床に転がったまま、ゆっくりと上体を起こした。記憶が、断片的に蘇る。鮮烈なスパイスの香り、激辛の麺、そして……あの甘いホットワイン。
すぐ傍にガルドがしゃがみ込んでおり、私の顔を心配そうに覗き込んでくる。
「気がついたんだな。よかった」
「……ガルド」
ガルドは辺りを見回す。
「一体何があったんだよ。俺が出てってから一時間も経ってねえぞ」
私はふらつく足取りで立ち上がろうとした。が、膝に力が入らない。
「バ、バイシャンは……?」
「いねえよ。帰ったみたいだ」
「いない……」
嫌な予感が、ぞわぞわと背筋を駆け上がった。私はふらつく足で、カウンターの奥へと入った。
食材の詰まった戸棚の横、壁に掛けられた絵画の裏。隠し穴に置いてある頑丈な鉄製の金庫。
金庫にはこれまで必死に働いて貯めた売上金、シレイが置いていった金貨、実家からの慰謝料、食材や資材の仕入れ金といった私の全財産が入っているはずだった。
絵画は外されて、床に投げ捨てられていた。
そして、金庫の扉はこじ開けられ、ぽっかりと黒い口を開けていた。
「……嘘」
中身は、空っぽだった。 金貨も、銀貨も、銅貨も一枚たりとも残されていなかった。
「……あ。あああっ……!」
私はその場にへたり込んだ。
私の大事な財産、お金は盗まれてしまった。あの商人風情の女に、全部。
金銭的な損失へのショックだけではない。私の店、私の城、私の聖域が踏み荒らされ、あらいざらい奪われたという事実が、私のプライドを粉々に砕いた。
実家を追放されてから、辺境へやってきて「とわずがたり」を開いて……そこから、頑張って積み上げてきた日々。 美味しい料理を作り、お客さまの笑顔を集め、少しずつ取り戻した自信。
それが、たった一日、たった一杯のワインですべて無に帰してしまった。私は一文無しになってしまった。
「私は……なんて愚かなの。人を疑うことも知らず、料理を褒められただけで舞い上がって……」
ポタリ、と熱いものが滴り落ちる。涙が溢れて止まらない。
自分の無力さ、浅はかさが、悔しくてたまらない。
店の扉が静かに開いた。入って来たのはコリンだった。
「なんだ……? なんか変な匂いがすっけど……って、どうしたんだよ」
コリンは泣き濡れる私を見て駆け寄ってきた。
ガルドもようやく事態を理解したのか、顔を真っ赤な怒気に染めて私の傍に来た。
「エリス……。すまねえ。俺がついていながら。あのクソ女……。泥棒だったんだな」
拳を握りしめて悔しがる彼に、私は力なく首を振った。
「違うわ……私が悪いの。私が無闇に信用したから。ただ『珍しいスパイスを持っている』というだけで。本当にバカすぎる」
私は彼らに、バイシャンが作ったホットワインを飲んでしまったことを話した。
「たぶん、即効性の痺れ薬だか眠り薬が入っていたんだわ」
コリンが、慰めるように私の背中を撫でる。
「商人を装って、メシ食った挙句に昏睡強盗かよ。えげつねえな……。俺っちと旦那が出て行くのを見て好機と思ったのかな」
「バイシャンは、私が一人になるのを待ってた……?」
「たぶんね。ものにもよるけど、俺っちや旦那には人間の薬はまず効かないから」
「そうだったわね……」
私は唇を噛みしめた。人間用の薬は、あくまでも人間にしか効かない。コリンやガルドが傍にいたなら、おそらくバイシャンは薬を盛らなかった。金庫破りも不可能だっただろう。
コリンが少々呆れたように、けれど温かい声で言った。
「でも取られたのは金だけなんだろ? 怪我はないし、命まで取られなくてよかったよ」
「……コリン、あなたはお金の大切さを知らないからそんなことが言えるのよ。あれは、私が自立するための、私の価値を証明するための……」
そこで、コリンは不思議そうに首を傾げた。
「……証明? 何の? エリスの価値はお金で決まるの?」
ガルドが、私の肩に大きな手を置いた。
「そうだエリス。金なんざ、ただの金属の塊だ。また稼げばいいだろうが。俺が魔の森中の魔獣を狩り尽くして持ってきてやる。コリンも、森の恵みを山ほど運んでくる」
「……でも」
「でもじゃねえ!」
ガルドが一喝した。その声は、私を叱咤し、鼓舞する王者の咆哮だった。
「俺たちはアンタが金を持ってるから傍にいるわけじゃねえ。いつも強気で、澄ましかえった顔で、最高に美味い飯を作るアンタだからだ。ああもう、小銭を盗まれたくらいでメソメソすんなよ」
「本当に……?」
「ああ」
ガルドは何の迷いもなく頷いた。私は……顔を上げた。
……そうだ。 私は何を失ったというの?
【静止】の魔法は私の手のひらに。 私の料理の腕もここにある。
そして何より、私の最高のお客さまでもある仲間たちがここにいる。
私は涙を拭い、立ち上がる。
「……そうね。私としたことが、みっともない姿を見せてしまったわ」
バイシャン。あの女の顔は忘れない。いつかまた会うことがあれば、その時は料理ではなく、たっぷりと利子をつけた「請求書」を叩きつけてあげるわ。
失ったものは大きい。けれど、得たものもまた小さくはない。
私は知ったのだ。本当の財産とは金庫の中ではなく、この温かな厨房と信頼できる仲間たちにあるのだと。




