第21話 異国のスパイス商人と痺れる料理【中編】
ドアが開くと同時に、店内に流れ込んできたのは、クローブ、シナモン、そして砂漠の熱砂を思わせる、強烈でエキゾチックな香りだった。
「……いい匂いねぇ。ここが、噂の聖女の店かい?」
立っていたのは、年齢不詳の異国の女だった。
肌は磨き上げた銅のように浅黒く、瞳は猫のように妖しい碧色。身に纏っているのは、極彩色の布を幾重にも重ねた民族衣装で、動くたびに手首や足首につけた無数の銀細工が、シャラシャラと涼やかな音を立てる。 その背中には、彼女の身体よりも大きな荷袋が背負われていた。
「いらっしゃいませ。……聖女ではありませんわ、ただの料理人です」
私が答えると、女はニッと白い歯を見せて笑った。
「あたしはバイシャン。西の砂漠の向こうから来た、スパイスの行商人さ。……あんた、いい腕をしてるって風の噂で聞いてね」
バイシャンと名乗った女は、カウンターにドサリと荷物を置くと、その口紐を解いた。
途端、極彩色の香りの奔流が溢れ出した。
「見てごらんよ。これは『星の涙』、こっちは『雷神の舌』花椒さ、そしてこれが……王族しか口にできない幻の『黄金クミン』」
並べられたスパイスの数々に、私の料理人としての血が騒いだ。どれも一級品、いや、それ以上だ。特に『黄金クミン』は、一粒が砂金と同じ価値を持つとされる超高級品。この辺境の市場には絶対に出回らない代物だ。
「素晴らしいわ……。これほどの品質のものは、王都の専門店でもお目にかかれませんわ」
「だろう? あたしの自慢の商品さ。……で、相談なんだがね」
バイシャンは、カウンターに身を乗り出し、甘えるような声色で囁いた。
「実はね、ここまで来るのに路銀を使い果たしちまってね。しかも腹ペコなんだよ。……どうだい、雷神の舌や黄金クミンを代金代わりにして、あんたの『魔法の料理』を食べさせてくれない? もちろん、これを使ったとびきりのやつをさ」
彼女の提案は魅力的だった。 スパイス代を考えれば、料理一食など安いものだ。それに何より、目の前のこの素晴らしい素材を使って、私の腕を試してみたいという欲求が抑えきれない。
「……いいでしょう。取引成立ですわ、バイシャンさん」
私は厨房へ入り、エプロンを締めた。彼女が提供してくれた「雷神の舌」と「黄金クミン」。これらを使うなら、やはりあの料理しかない。
メイン食材は、ガルドが狩ってきた『炎蹄羊』の肩ロース。
脂の乗った羊肉を粗く挽き、ニンニク、生姜、そして大量のスパイスと共に鍋へ投入する。ジュワッという音と共に、厨房は熱気と香りの渦に包まれる。さらに唐辛子の刺激的な赤、クミンの野性的な香り、花椒の痺れるような清涼感。それらが羊肉と絡み合い、食欲を刺激する。
合わせるのは、私の魔法で「打ち立てのコシ」を永遠に保った、特製の平打ち麺。茹で上がった麺の上に、激辛の肉味噌をたっぷりと乗せ、仕上げに熱した香油を回しかける。
完成したのは『炎蹄羊と黄金スパイスの紅蓮和え麺』。
「お待ちどうさま。……火傷に気をつけて。血肉どころか骨まで熱くなる一皿ですわよ」
バイシャンは目を輝かせ、フォークではなく、懐から取り出した二本の棒――箸というらしい――を器用に使って麺を持ち上げた。
「へぇ……! こりゃあ、たまらないね!」
彼女が麺を啜り込む。その瞬間、彼女の銅色の肌が紅潮し、碧色の瞳が潤んだ。
「……っはあ! 辛い! でも、止まらない! 羊の臭みが完全に消えて、旨みだけがスパイスの波に乗って押し寄せてくる……! あんた、天才だよ! あたしの国の宮廷料理人だって、こんな凄いもん作れやしない!」
バイシャンは、額に汗を浮かべながら、夢中で麺を貪った。
外に出ていたガルドが戻って来た。しきりに鼻をひくつかせる。
「……いい匂いだ。エリス、俺の分はあるんだろうな?」
「もちろんよ。あなたには特大サイズを用意してあるわ」
私たちは、異国の行商人を囲み、スパイスの熱気に酔いしれた。
シレイのことでどこか張り詰めていた神経が、美味しい料理と、バイシャンの陽気な語り口によって解きほぐされていく。
そう、この時の私は、完全に油断していたのだ。
「美味しいもの」を愛する人間に、悪人はいない――そんな、致命的な幻想を抱いて。




