第20話 異国のスパイス商人と痺れる料理【前編】
「とわずがたり」には、嵐の後の凪のような静穏な空気と、むせ返るような濃厚な魔素が漂っていた。通常なら警戒心を呼び起こすであろう「時の魔素」は、私の心身にはよく馴染む。心地よくて、どこか懐かしい。
窓からは、青白い月光が差し込んでいる。その光は、カウンターの上に残された「北海帝王マグロ」を神秘的に照らし出していた。
私は深紅の身を切り分けながら、去って行った男の瞳を思い出した。
ラピスラズリの深遠。私の胸の奥で、まだざわざわとした波立ちが収まらないのは、彼が残した言葉のせいだけではない。彼が使った魔法――私と同じ「時」を操る力が、あまりにも鮮烈だったからだ。
自分以外で、時を止める魔法を使う人に初めて出会った。私はこの世界に一人じゃなかった……そんな気がする。
ガルドが大きなあくびをしながら、二階から降りて来た。たっぷり寝たのか、すっきりとした顔をしている。
私は彼とテーブルを囲み、夕食をとった。
相棒のために、私はシレイに出したものと同じマグロの半生ステーキ、表面を強火で炙ったタタキと、最も脂の乗った部分の刺身を用意した。塩を入れたごま油と薬味のネギ、生姜を添えて出した。
ガルドが刺身を口に放り込む。
「……美味いな。この脂、口に入れた瞬間にふわっと消えちまう。まるで甘い幻を食ってるようだ」
感嘆しながら、パクパクと料理をたいらげていく。いつ見ても、彼の豪快な食べっぷりは気持ちがいい。
私もナイフとフォークでステーキや刺身を食べる。自分で作っておいてなんだけど、震えるくらいに美味だ。
「ええ、本当に。……悔しいけれど、彼――シレイが施していた魔法は完璧だったわ。私の【静止】が、霞んで見えるほどに。……負けね。完敗」
グラスに注いだ白ワインを一口含み、自嘲気味に呟くと、ガルドは黄金の瞳を怪訝そうに細める。
「ああん? 何を言ってやがる。アンタはヤツの魔法を解いて、さらに美味くしたじゃねえか。勝ち負けで言えば、アンタの完全勝利だろ」
「それは料理の話よ、ガルド。私が言っているのは、魔法の『格』の話」
私はグラスを静かに置き、手のひらをじっと見つめた。白く、細い指。この指先は「世界を静止できる」と思っていたけれど、狭い井戸の中の蛙の自惚れだったのかもしれない。
「私の【静止】はね、基本的に『無機物』や『死んだ有機物』にしか作用しないの。食材や料理、花瓶の花……そういったものの時間を止めることはできる。でも、生きている人間や動物の時間を止めることはできない」
それは、魔術の世界における絶対的なヒエラルキーだ。物質への干渉は下位魔法。生命への干渉こそが上位魔法。
「人間は、脊椎動物の中でもっとも複雑な構造をしている。その分、かける魔法、魔素の構成は格段に難しくなるの。回復魔法は、攻撃力こそないけれど上位魔法の際たるもの。どこでもありがたがられるわ」
厳密に言えば、人間が脊椎動物で一番複雑なのかどうかは学術的に証明されていない。同じ人型である獣人やエルフの方が上かもしれないが……彼らとは文明的にも文化的にも殆ど接触がないためよくわからない。
私は人間だから、人間の世界の理で生きている。人間の理で分類するなら、【静止】は下位魔法だ。
ガルドは、篭に盛られた果物をちらりと見た。
「アンタの魔法は、死んだものだけに有効……か。この果物や野菜、コリンが持ってくる香草、切り花も生きているんじゃないのか?」
「確かに。でも土から引き抜かれたり、幹や茎などの本体から切り離された時点で死んだものと『強固に仮定』しているの。死者として扱って、魔法を塗りこめるのよ。そうでないと効かないから。魔法は術師に向けた一種の催眠でもあるのよ」
「……シレイの魔法は違うってことか」
私はワインを呷った。一気に飲み干すと、諦めたように息をついた。
「彼は、生きたマグロが息絶える瞬間を『固定』していたわ。ここへは生きたまま持ってきたのよ。そして、私が彼の魔法を解いた瞬間にマグロは死んだ。……だから私の【静止】が効くようになった」
シレイ――彼が見せた高度な【停止】の魔法。魚の生ける時間を完全に支配していた強大な力。
あれは、私の【静止】をはるかに凌駕する。生物、魚に対して有効ということは、人間にも有効である可能性が高い。
彼はおそらくやろうと思えば、瞬時に私を構成する全細胞を停止できる。当然のことながら私は抜群の鮮度、瑞々しさを保ったままで即死する。すべからく全停止だ。そういうことが、こともなげにできる人だ。
「人間を含む脊椎動物の時間を操る上位魔法……。それは『強権破砕魔法』とも呼ばれる、禁忌に近い高等技術よ。もし彼がそれを自在に操れるのだとしたら、宮廷魔導師の筆頭、もしくはそれ以上の……」
「くだらねえ」
ガルドが私の言葉を遮った。彼は刺身の最後の一切れを飲み込み、満足げに喉を鳴らす。
「人間に効かないから、なんだってんだ? 俺たちは、鮮度抜群の人間を食うわけじゃねえ。俺にとって大事なのは、このマグロが最高に美味い状態で俺の胃袋に収まることだけだ。生きた人間をカチカチに固めて何になるってんだ。飾りにもなりゃしねえ」
「ガルド……」
「アンタの魔法は、美味いものの味を永遠に固定する。俺にとっちゃ、そっちの方がよっぽど『上位』で『高等』だな。……自信を持てよ、エリス。アンタは俺が選んだ契約者だぞ?」
「……」
その言葉は、私の胸に染み渡った。
ぶっきらぼうで、乱暴で、けれど一番私が欲しかった言葉をくれる相棒。
私はふっと相好を崩し、彼のグラスにワインを注ぎ足した。
「……ありがとう。そうね、あなたの言う通りだわ」
不安が完全に消えたわけではない。シレイという男の眼差しは、単なる興味を超えた……何か獲物を定める狩人のような……。惹かれると同時に、私は彼を怖れている。
「ねえ、ガルド。お願いがあるの」
「なんだ? ワインのおかわりか?」
「違うわ。彼が、シレイが店に来た時は、必ず私の傍にいてちょうだい」
「アイツに何かされたのか?」
私は首を横に振った。
「いいえ、何も。マグロは置いていってくれたし、金払いはいいし、上客中の上客よ。また店に来て欲しいわ。でも彼の魔力は底が知れない。もし彼がその気になれば、私ごとこの店を潰せる。物理的な意味で」
「……フン。どこの誰だろうと、俺のテリトリーで勝手な真似はさせねえ」
ガルドの力強い言葉に、私はようやく安堵の息をついた。
翌日から、「とわずがたり」はかつてない熱狂に包まれた。
シレイが置いていった「北海帝王マグロ」。それは私の魔法で鮮度を保たれたまま、数日間にわたって極上の料理へと姿を変えた。
『北海帝王のカルパッチョ・森の宝石仕立て』『マグロのカツレツとわさびと卵の泡ソース添え』など、様々な料理を考案しては作っていった。
辺境では、海の魚自体なかなかお目にかかれない。塩漬けや燻製ではなく、生ともなれば尚更――。
新鮮な魚が食えると噂を聞きつけた冒険者や地方から来た商人たちが列をなし、私の料理に舌鼓を打った。銀貨や金貨が、降るように貯金箱へと吸い込まれていく。
私の創作料理はけして安くはない。かといってぼったくっているわけでもない。
新鮮な肉やキノコ類、野菜、香草はガルドやコリンが採ってきてくれるけど、小麦や大豆といった穀物類や乳、鶏卵、バターやチーズ、ハムなどの加工品、油や砂糖、塩胡椒などの調味料は定期的に回ってくる行商人や、物資を運ぶ隊商から買うしかない。
王都や地方都市に比べるとどれも数倍の値段だけど、売り手側は競合がいないため交渉にはまず応じない。結局は、相手の言い値で買うことになる。正直なところ、お金はいくらあっても困らない。私は久しぶりに、商売人としての充実感に浸っていた。
そして――マグロの狂騒が落ち着き、日常が戻りつつあった数日後の黄昏時。
その女は、乾いた風と共にふらりと店に現れた。




