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辺境ごはん屋とわずがたり ~静止スキルで至高の味を永遠に~  作者: kiyoaki


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第2話 辺境のボロ屋敷と、はらぺこ野獣

 都から北へ向かう馬車の旅は、決して快適なものではなかった。

 伯爵家が最後に情けとして用意した辻馬車は、クッションの綿は抜け落ち、車輪は石を噛むたびに跳ね上がり、不快な振動を伝えてくる。

 窓の外を流れる景色は、整然と区画された豊かな田園地帯から次第に色彩を失ってゆく。

 やがて荒々しい原生林の緑と、剥き出しの赤土へと変わっていった。

 けれど、私の心は、かつて身に纏っていた最高級の絹よりも軽やかだった。

 埃っぽい車内の空気でさえ、実家に充満していた、淀んだ香水の香りと嘲笑が混じり合った空気よりはずっとましに思える。


 三日三晩に及ぶ旅路の果て、御者が「着きやしたぜ、お嬢さん。本当にこんな場所でいいのかい?」と、気の毒そうな声をかけた場所。そこが、私の新たな住まいだった。

 馬車を降り立った私の前に聳えていたのは、予想を遥かに超えた「廃墟」だった。

 かつては宿場町の中心として栄えたであろう、石造りと木造が混在する三階建ての館。今は、屋根の瓦は半分以上が剥がれ落ち、突き出した梁が風雨に晒されている。窓ガラスは一枚たりとも残っておらず、内部の壁にも蔦が我が物顔で侵食していた。

 それは建物というより、巨大な獣の死骸のようだった。


「……ふふ、素敵だわ」

 思わず漏れた私の独り言に、荷物を下ろしていた御者が奇妙なものを見る目で振り返る。

 ええ、素敵よ。だってここは、誰にも邪魔されない、自由に満ちた場所だもの。

 御者が逃げるように去った後、私は足元の雑草を踏みしめ、朽ちかけた玄関扉に手をかけた。

 蝶番が悲鳴を上げ、錆びた鉄の粉が舞い散る。

 館の内部は、時が止まったような静寂――ではなく、緩やかな崩壊に支配されていた。床板は腐り落ち、天井からはカビの胞子が雪のように降り注いでいる。

 私は深呼吸をし、埃っぽい空気を肺腑に満たした。そして、意識を集中させる。

 私の魔力は、華々しい火花も、美しい氷の結晶も生まない。ただ、世界の常識を捻じ曲げ、そのことわりを拒絶するだけ。


 ――【静止ポーズ】。


 私はまず、今にも崩れ落ちそうなメインホールの巨大な梁に触れた。指先から、透明な波紋が広がる。木の繊維が軋み、重力に従って落下しようとするエネルギーが、私の魔力によって強制的に凍結される。腐敗の進行が止まり、崩壊の時間が、その刹那で固定される。

 次々と、私は館の「急所」に触れて回った。抜け落ちそうな床板。ひび割れた石壁。錆びついて砕け散る寸前の鉄柵。それらは決して「直った」わけではない。壊れかけの状態のまま、物理法則から切り離され、奇妙な安定を保っているのだ。

 まるで、崩壊寸前の砂の城を、硝子細工の中に封じ込めたかのような。いびつで、どこか芸術的な光景。


 半日かけて、ようやく一階部分の安全を確保した頃には、太陽は西の地平線に沈みかけていた。茜色とすみれ色が混じり合う空の向こう、館の裏手に広がるのは、深い深い森の影だ。

 魔の森。王国の騎士団でさえ立ち入ることを躊躇う、人外の領域。そこから吹き付ける風は、危険な獣の臭いと、濃厚な魔素の香りを孕んでいた。


「さて、夕食にしましょうか」

 私は旅の荷物から、非常食として持参していた簡素なパンと、水筒を取り出した。もちろん、これらにも【静止】をかけてある。屋敷を出た瞬間の、焼きたての柔らかさと、井戸から汲み上げたばかりの冷たさを保ったままで。


 その時だった。 森の境界線、私の新たな庭となった雑草地帯の端で、何かが動いたのは。

 風が止まった。鳥の声が消えた。 世界が息を潜めたような静寂の中、私はそれを目撃した。

 最初は、巨大な熊かと思った。あるいは、影そのものが凝固した化け物か。

 だが、近づくにつれ、それが人らしき形をしていることがわかった。

 身長は優に二メートルを超えているだろう。ぼろ布のような外套を纏っているが、その下にあるのは、岩石を思わせる筋肉の塊だ。泥と血にまみれた髪の間から、爛々と輝く黄金の瞳が、私を見た。


 男は――そう、それは辛うじて人間の男の形をしていた――私の数メートル手前で、力尽きたように膝をついた。 その姿は、傷ついた野生の獅子を連想させた。手負いであっても、爪と牙は容易に私の細い首をへし折ることができるだろう。圧倒的な「暴力」の気配が、彼を中心に渦巻いている。

 普通の令嬢であれば、悲鳴を上げて逃げ出していただろう。けれど、私は動じなかった。

 彼から発せられる殺気とは裏腹に、視線は私の持つ「ある一点」に釘付けになっていることに気づいたからだ。

 私の手の中にある、パンと水筒だ。


 彼の腹の虫が、雷鳴のような音を立てた。あまりにも切実で、滑稽なほどの響き。

 私は思わず吹き出しそうになるのを堪え、ゆっくりと彼に近づいた。警戒して唸り声を上げる彼を無視して、私は手に持っていた水筒の蓋を開けた。

 中に入っているのは、ただの水ではない。屋敷を出る直前、庭で摘んだばかりの完熟したベリーと、蜂蜜、ミントの葉を漬け込み、最も香りが良い瞬間を【静止】させた、特製の果実水だ。

 甘酸っぱくも清涼な香りが、夕暮れの淀んだ空気に広がる。男の喉仏が、ゴクリと動いた。

「……水が、欲しいの?」

 私が問いかけると、男は言葉を発する代わりに獣のような低音で唸り、私の手から水筒をひったくった。そして、躊躇なく中身を呷る。

 その瞬間、彼の動きが止まった。 黄金の瞳が、驚愕に見開かれる。

 貪るように。一滴も残さず飲み干すと、彼は乱暴に口元を拭い、信じられないものを見る目で私を見た。


「……なんだ、これは」

 初めて聞いた彼の声は、地底から響く岩盤の擦れる音に似ていた。

「ただの果実水よ。少し、保存方法が特殊なだけ」

「嘘をつけ。こんな……森の恵みがそのまま溶け出したような、生命力そのもののような水が、あるはずがない」

 彼は荒い息を吐きながら、よろりと立ち上がった。その巨体が私の前に影を落とす。

 私は今度はバスケットからパンを取り出した。焼きたての小麦の香りが、彼を刺激する。

「貴女は何者だ。魔女か?」

「いいえ。エリスよ。エリス・ヴァーミリオン。今日からここの住人になる者。あなたは?」

「……ガルド。ただの傭兵だ」

 ……嘘だ。ただの傭兵が、これほどの魔力と血の臭いを纏っているはずがない。

 でも、今の私にはどうでもいいことだった。


 彼は私の手にあるパンを、まるで聖遺物でも見るかのような、渇望と畏怖の入り混じった目で見つめている。 その視線に、私は奇妙な安堵を覚えた。

 彼が見ているのは「私」ではない。「私が生み出す価値のあるもの」だ。

 父や元婚約者のように、私を値踏みし、利用しようとする濁った目ではない。ただ純粋に、生存本能に従って、私が生み出した食べものを求めている。

 なんと、わかりやすい。


 私はパンを差し出した。ガルドと名乗った男は、奪い取るように掴むと、大きな口で齧り付いた。カリリ、と小気味良い音がして、中のふわふわの生地が現れる。彼の表情が、再び驚愕に歪む。

 むしゃむしゃとパンを平らげた彼は、まだ物足りなさそうに私のバスケットを見た後、黄金の瞳を私に向けた。

「……うまかった。礼を言う」

「どういたしまして。でも、タダではないわよ」

 私は微笑んだ。どんな貴族的な微笑みよりも、自然な笑みが浮かんだ気がした。

「ここには見ての通り、何もないわ。食料も、安全もね」

「確かにな」彼は辺りをぐるりと見渡した。

「私はこれからここで、料理を極めたいと思っているの。そのためには新鮮な食材と、静かな環境が必要なのだけれど」


 ガルドは、私の意図を瞬時に理解したようだった。

 彼はニヤリと笑った。その笑顔は獰猛で、けれど魅力的な野生味に溢れていた。

「なるほど。アンタは極上の餌をくれる。代わりに俺は、料理の材料を狩ってくればいい。そういうことか?」

「ええ。その通り。ついでに、私の仕事を邪魔しようとする者たちからも守ってくれると嬉しいのだけど。狩人と護衛。単純明快な契約でしょう?」

 彼は喉を鳴らして笑うと、私の前に跪いた。

 それは人間たちが行う忠誠の証ではなく、獲物を狙うような獣の姿勢だった。

「いいだろう、エリス。俺の腹が満たされる限り、この領域テリトリーは俺が守ってやる」


 こうして、私の辺境における初日が暮れた。

 手に入れたのは、崩壊寸前の屋敷と、伝説の魔獣すら素手で屠りそうな、腹ペコの野獣が一匹。

(まあ、いいわ。完璧な滑り出しということにしておこう)

 私は夜空を見上げ、満足げに息を吐いた。

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