第19話 魅惑の北海マグロと謎の旅人【後編】
シレイは、目の前に置かれた皿を、まるで美術品を鑑定するかのような眼差しで見つめた。
するりとナイフを入れる。抵抗なく刃が沈み、断面からは薔薇色の美しいグラデーションが現れる。
彼が一口、ステーキを口へと運んだ。しんと静まり返る。雨音さえも遠ざかるような、濃密な時間。
シレイの目が、カッと見開かれた。
ラピスラズリの瞳の内で、驚愕と歓喜の念が渦を巻く。
「……なんだ、これは」
彼は、低く呻いた。
「表面のクリスピーな香ばしさが来たかと思えば、次の瞬間、内部の脂が舌の上で爆発する。……熱いのに冷たい。海の荒々しさと、森の繊細さが、口の中で踊るようだ。……何より、この魔法!」
彼は、私を睨みつけた。
「俺のかけた魔法を解除しただけでなく、調理の過程でさらに『固定』を重ね掛けしたのか? 焼き上がりの香りを、食べる瞬間まで逃さないために」
「ええ。ご明察の通りです。あなたが施したのは『輸送のため』の停止。私が施したのは『美味のため』の静止。……目的が違えば、味も変わってまいりますの」
シレイはハッと短く笑い、その後は貪るように皿に向き合った。
彼が一口食べるたびに、その身体から発せられる微細な魔力が心地よく震え、私と共鳴するのを感じる。
……近い。やはり彼の魔法と私の魔法は同じものだ。彼は同胞だ。
血の繋がりのことではなく、同じ魔素をもつ魔術師同士の、滅多にない邂逅――。
その時だった。雨音を破るような、激しい蹄の音が外から聞こえてきた。
しばらくして、店の扉が勢いよく開かれる。
「エリス殿! 無事か? 正体不明の強力な魔力反応が、この店から感知されたと――」
飛び込んできたのは、白銀の鎧を濡らしたレオンハルト騎士団長だった。
彼は剣の柄に手をかけたまま、店内を見回し――そして、カウンターで食事をするシレイの背中を見て目を見張った。シレイのものよりは薄いアイスブルーの瞳が、信じられないものを見るように揺れる。
騎士としての冷静沈着さを誇る彼が、口元をわななかせ、膝をつかんばかりの狼狽を見せた。
「あなたさまは。なぜ、このような場所に……?」
レオンハルトは茫然と呟いた。
シレイは、食事の手を止めず、背中越しに冷淡な声を投げた。
「その声はレオンハルトか。騒々しいな。俺は今、人生で最高の食事を楽しんでいる最中だ。無粋な真似をするな」
地を這うような重低音の響き。先ほどまでの粗野な傭兵口調とは全く異なる、絶対的な権威と氷のような冷徹さを帯びた「支配者」の声。私は思わず身を固くした。
レオンハルトは、弾かれたように直立不動の姿勢をとった。
「はっ……! しかし、私が受けた報告では王都から捜索隊が……いえ、軍部があなたさまを追っていると。国外へ出られたとのことでしたが、まさか戻っておられたとは」
シレイは、大きく溜息をついた。
「しばしの休暇だと言ったはずだがな。あいつらには伝わってなかったか。……まったく、堅苦しい騎士道精神も考えものだ」
「休暇……。それ自体が初耳ですが、一体どこで何をしておられたのです」
「美食巡りだ」と、シレイは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
レオンハルトは怪訝そうに眉をひそめた。
「美食? 悪食で有名なあなたさまが美食……?」
シレイは振り返ると、レオンハルトを睨みつけた。怒ったように言った。
「お前という奴は本当に失礼だな。悪食じゃない。せめて『好き嫌いがない』と言ってくれ」
シレイは最後の一切れを口に運ぶと、名残惜しそうにナプキンで口元を拭った。私の顔を見ながら言った。
「美味かった。実家の料理人たちを全員クビにしたくなるほどにな」
彼は立ち上がり、カウンターに散らばっていた金貨を全部私の方へ押しやった。これが報酬ということらしい。
彼はカウンター越しに私の手を取ると、その指先にうやうやしく口づけを落とした。
「……!」
突然のことに、私は身動きが取れなかった。
彼の唇の熱さと、瞳の奥にある射抜くような鋭い光に――刺される。
怖い……この人は、怖い。あまりにも強すぎて到底かなわない。私は本能的な恐怖に包まれた。
「店主」
「……はい」
シレイの呼びかけに、なんとか返事をする。
「確か、名はエリス。ヴァーミリオン家の令嬢だったか。なかなかたいしたものだ。俺の魔法を解き、あまつさえ上書きしてのけるとは。この国に、俺と同じ景色を見ている人間がいるとはな」
「……シレイさま」
「名はシレイだ。今は、な」
彼は悪戯っぽく笑い、レオンハルトに目配せをした。
「俺はもう行くぞ、騎士団長。ここに長居すると、うるさい連中が押しかけてくる。この店の平穏が壊れる。それは俺の本意じゃない」
「は、はい! ですが、あなたさまもご自重ください。護衛もなしにこのような辺境、危険地帯へ参られるのは」
「……護衛? 俺に必要か?」
シレイが一歩踏み出すと、周囲の空間がぐにゃりと歪んだ……ような気がした。
私は息を呑む。彼を中心に「時間」そのものが従属しているような、圧倒的な覇気。
必要ない。護衛なんていてもただの足手纏い、そんな気がする。
彼は扉の前で足を止め、振り返った。
「また来る。……次はもっと面白い食材を持ってこよう。美味いものを作ってくれ」
言い捨てると、彼は雨の中へ颯爽と出て行った。レオンハルトが慌ててその後を追いかける。
後に残されたのは、私とおよそ現実離れした余韻だけ。
……ガルド。私は声なき声で、相棒の名を呼んだ。
厨房を出て、二階へ上がる階段を見つめる。シレイに何をされたわけでもないけど、あなたがこの場にいてくれれば……と思わずにはいられなかった。
数分後。息を切らせて戻ってきたレオンハルトに、私は尋ねた。
「レオンハルト騎士団長。シレイさまは、あの方は……一体何者なのです? 」
レオンハルトは、困り果てたように視線を彷徨わせた。常に誠実な彼が、これほどまでに言いにくそうにするのは初めて見る。
「すまない、エリス殿。その……これは上層部の機密に関わることだ。私からはなんとも言えない」
「軍部の上官、ということですか?」
「……まあ、そうだな。直属ではないが上官だ。シレイ殿は、一応にも将官の地位をもっておられる」
「将軍、なのですか」
あの方は……将軍。でも納得はいく。その地位にふさわしい強さを持っているもの。
私は寒気を覚え、ぶるりと肩を震わせた。
「エリス殿……? 大丈夫か」
「ええ、大丈夫。これはたぶん……武者震いですわ」
「武者震い?」
「私、こう見えても……固有魔法『静止』には自信がありましたの。でも違いました。上には上がいる。そのことを思い知りましたわ」
「……それは」
レオンハルトは何か言いかけたが、ぐっと口を噤んだ。シレイに関しては、守秘義務があるのだろう。
胸の奥が、ざわざわと騒いだ。
彼に対する恐怖なのか。それとも、自分と同じ系統の魔法を持つ者に出会えたことへの、密かな歓喜なのか。
「とわずがたり」に持ち込まれた新たな謎。
私の時間は、嵐のような男の出現によって、再び大きく動き出そうとしているのかもしれない。
……いいわ、受けて立ちましょう。
どんな極上の食材も、どんな高度な魔法も、私の厨房では「最高の一皿」になるための序章に過ぎないのだから。
私は、彼が座っていた椅子をそっと撫で、不敵な微笑みを浮かべた。
――またのお越しを、心よりお待ちしておりますわ。
窓の外を見やると、雨はいつの間にか上がり、雲の切れ間から蒼白い月が顔を覗かせていた。




