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辺境ごはん屋とわずがたり ~静止スキルで至高の味を永遠に~  作者: kiyoaki


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第18話 魅惑の北海マグロと謎の旅人【前編】

 魔の森が、しとしとと降る霧雨のヴェールに包まれる午後だった。「とわずがたり」の窓ガラスには、涙のような雫が無数に伝い落ち、世界を曖昧な灰色に滲ませている。店内は、蜜蝋のキャンドルの揺らぎと、熟成されたブイヨンの香りが織りなす黄金色の安寧に満ちていた。


 私はカウンターの奥で、ガルドが森から持ち帰った「氷筍ひょうじゅんのキノコ」の泥を、銀のナイフで丁寧に落としていた。ガルドは疲れたのか、二階で昼寝をしている。

 この静寂な時間を重厚な足音が破ったのは、時計の針が三時を回ろうとしていた頃だった。

 扉が開くと同時に、森の湿気とは異なる冷たく塩辛い――海の香りが流れ込んできた。この辺境の地では、決して嗅ぐことができないはずの遠い潮騒……。


「……やってるのか? 『腐らない店』ってのはここか?」

 現れたのは、背が高く精悍な顔立ちの男だった。歳は三十歳前後だろうか。茶褐色の癖のある髪に同じ色の無精髭を生やし、旅の埃にまみれた外套を無造作に羽織っている。一見すれば、ただのくたびれた冒険者か傭兵崩れ。

 けれど、私の目は誤魔化されない。男が纏う空気は、獲物を狙う猛獣のように鋭利で、全てを見下ろすような傲慢なまでの余裕に満ちていた。何より、その瞳――遠い昔に絵本で見た深海の色、深いラピスラズリの瞳が、異様な知性を湛えて私を見据えている。


「いらっしゃいませ。……海のないこの辺りで、随分と珍しい香りを纏っておられますね」

 私が応じると、男――シレイと名乗った彼は、口の端をニヤリと吊り上げ、肩に担いでいた麻袋をカウンターにドサリと置いた。

「鼻がいいな」

「鼻がよくなくてもわかりますよ。あなたから漂う海の香りは主張が激しくて」

「……なら、コイツの価値もわかるか?」

 彼が袋の紐を解いて中身を出した瞬間、店内の空気が変わった。


 袋の中に入っていたのは、巨大な魚だった。

 ……これはなんだろう。見たことがない。料理本や図鑑にも見覚えがない。おそらく、この国ではとれない食材ではないだろうか。

 私は魚を凝視しながら尋ねた。

「シレイさま、これは……?」

「『北海(エンペラー)帝王マグロ(・ブルーティナ)』。大陸の北の果て、極寒の荒海にしか生息しないとされる、幻の高級魚だ。その身はルビーよりも鮮やかで、脂はダイヤモンドのように輝くというな」

 シレイが説明する。だが、私が驚いたのは魚の希少性だけではない。

 氷がないのだ。輸送用の魔道冷蔵箱コールド・ボックスすら使われていない。麻袋に入れられていたにも関わらず、その魚はまるでたった今、海から引き上げられたばかりのような瑞々しい艶を放っていた。死後硬直すら始まっていない、完全なる「生」の状態。……こんなの、ありえない。


「信じられない。北の海からこの辺境まで、早馬でも半月はかかる距離ですわ。それなのに、この鮮度……」

 私は、吸い寄せられるように魚に手を伸ばした。表面に触れた瞬間、私の指先に走ったのは、電流のような衝撃。


 ――同質の力?

 いいえ、違う。これは私の【静止ポーズ】に似ているけれど、もっと強力かつ強制的。上位の概念ロジックで時間をねじ伏せている。おそらくは……圧倒的な「支配」の魔力をもって。


「あなたは一体……? これは凍ってはいない。冷却魔法ではありませんわね。魚の時間を、細胞の一つ一つに至るまで完全に『停止』させている」

 【静止】ではなく【停止】……いや、【完全停止】と言うべきか。……それ以上のことはわからない。

 私の問いに、シレイは楽しそうに目を細め、カウンターに肘をついた。その仕草一つにも、野卑な外見とは裏腹の洗練された色気のようなものが漂う。

「俺はただのしがない旅人さ。少しばかり『持ち運び』が得意なだけの」

「嘘をおっしゃらないで。これほどの高等魔法は、宮廷魔導師でも扱える者はいないのでは……? この術式、一体どのような理屈で構成されているのです?」


 私の探究心――同じ「時」の魔法を操る者としての抗いがたい対抗心が鎌首をもたげる。

 シレイは、私の瞳の奥を覗き込むように顔を近づけた。彼の吐息がかかるほどの距離。

「さあてね、それは言えない。企業秘密だ。……俺の手札を明かしてもいいのは、そうだな。俺の嫁さんになる女ぐらいだな」

 彼はからかうように、しかし決して冗談とは思えない重みを含んだ声で囁いた。私は一瞬、言葉に詰まった。

「あら、それは残念ですわ」

「だが、俺の舌を満足させられたら、少しはヒントをやってもいい。この魚、どう料理する?」

「えっ、お料理対決ですか?」

 まさか、とシレイは吹き出し、ハハハと豪快に笑った。

「俺は料理はしない。メシは食べる専門だ。どこぞの食味官、ラーゼスト郷女子爵のように君にやっつけられる気はない」

 どうやら、先日のコーデリアとのお料理対決の話が広まっているようだ。もしかしてシレイは噂を聞いて、食材を持ってわざわざ辺境までやってきた……?


「話は単純だ。食材の持ち込みが可能なら、この帝王マグロを君流に調理して食わせて欲しい」

「それは可能ですけど。料理代の他に、別途持ち込み料金、調理料金をいただきます」

「構わん」

 シレイは懐から革袋を取り出し、中身をざーっとあけた。金貨が十数枚転がり出る。

「君の腕を知りたい。凡百の料理人なら、このまま切って刺身にでもして終わりだろうが」

 あからさまな挑発。それは私の料理人としての、そして魔術師としての矜持プライドに火をつけるには十分すぎる言葉だった。

「いいでしょう。北海帝王マグロは初めてですけど、挑戦し甲斐がありますわ」


 私は、エプロンの紐をきつく締め直し、愛用の包丁を握った。

 まな板の上に横たわる、北海の帝王。シレイがかけた「上位の静止魔法」を解くことができるのは、おそらくこの辺りでは私だけのはず。


 私は、魚に手をかざし、身から滲み出るシレイの魔力と波長を合わせる。

 ――強固だ。まるで、天高くそびえる城壁のように硬い。けれど、必ず綻びはある。

 私はその結び目を、自らの魔力で優しく、時に強引に解いていった。

 フワッ、と店内に冷たい潮風が吹き抜けたような……。

 解除に成功すると、魚の時間が動き出す。


 私は、一切の迷いなく包丁を入れた。

 メインは、極上の脂を活かした北海帝王のミ・キュイ。要するに半生のステーキ。焦がしバターと森の果実のソースを添えて。

 生のまま、刺身で食べるのが最高?

 いいえ、それは素材への怠慢ね。この圧倒的な脂の甘みは、火を入れることで初めて芳醇な香りへと進化する。火を通しすぎれば身は硬くなり、弾力に富んだ食感は失われる。

 外はカリッと香ばしく、中は体温で溶けるほどのレア。その境界線を、私は【静止】の魔法を応用した火加減でコントロールする。

 熱したフライパンの上で、帝王の真紅の切り身が歓喜の歌を歌う。合わせるのは、氷筍のキノコのソテーとコリンがエルフの嗅覚で探し当てた酸味の強い『黒すぐり』のソース。

 香ばしいバター、海のミネラル、そして森の果実の酸味が混ざり合い、厨房は幾重もの香りのシンフォニーに包まれた。


 シレイの目が、獲物を見つけた鷹のように細められる。

「……ほう。焼くのか。鮮度自慢の素材を前にして、随分と度胸がある」

 私は焼きながら、朗らかに言い返す。

「最高の素材には、付け合わせとソースという最高のドレスを着せてあげるのが礼儀ですもの」

「さすがは伯爵令嬢。今は『魔の森の聖女』だったか。言うことが淑女然としている」シレイは微苦笑する。

 彼は私の素性も知っているようだ。やっぱり、辺境の外では有名人になっているのかも。お店の繁盛に繋がるのならいいのだけど。

「聖女はデマですわね。奇跡は起こしておりませんから」

「……確かに。君は君の固有魔法を、縦横無尽に駆使しているだけと見える」

 私は、皿に焼き上がったステーキを盛り付け、最後に彼の魔法に対抗するように仕上げの【静止】をかけた。

 それは、「焼き上がった瞬間の脂が最も躍動している刹那」を固定する魔法。

 口に入れるまで、ステーキは永遠に焼き立てであり続ける。


「お待たせいたしました。『北海帝王のミ・キュイステーキ ~焦がしバターと森の果実のソース~』です。二つの時間の狭間風味、とでも申しましょうか」

「二つの時間の狭間、か」

「二重魔法が織り成す絶品。……どうぞ、その舌でお確かめになって」

 私は、自信と誇りを込めて皿をシレイに差し出した。

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