第16話 死の淵に咲く百合の根と薬膳スープ【前編】
魔の森が、凍てつくような雨に打たれる夜だった。
「とわずがたり」の暖炉に焚かれた白樺の薪が、爆ぜる音と共に緋色の火の粉を散らしている。私は、磨き抜かれたカウンターで、ガルドが森の深淵から持ち帰った「時の雫」と呼ばれる透明な果実を、【静止】で一個ずつ丁寧に固定していた。
平穏な沈黙を、悲鳴に近い破壊的なノックが切り裂いたのは、深夜を回った頃だった。
「誰か……! 誰かいないか! 頼む、助けてくれ!」
ガルドが即座に、獣の如き速さで扉へ向かう。開け放たれた扉から流れ込んできたのは、雨の冷気と、胃を逆なでするような「死の腐敗臭」だった。
数人の仲間によって運び込まれたのは、若い冒険者の青年。
彼の肌は不気味な紫色の斑点に覆われ、血管がどす黒く浮き上がり、意識を失ったまま激しい呻吟を漏らしていた。
「……ひどい。これは……何にやられたのかしら」
私の呟きにガルドが返す。
「紫の斑点なら、おそらく『嘆きの毒蜘蛛』の猛毒だな」
「嘆きの毒蜘蛛?」
「魔の森に住まう蜘蛛の王者だ。遅効性の毒だが、刺されればまず助からない」
私が青年の胸元を検めると、そこには毒液で爛れた深い傷跡があった。
ガルドが傷を見ながら、淡々と説明する。この毒は、侵された者の細胞を数時間で液状化させ、死に至らしめる。辺境の医者はとうに匙を投げており、高位の聖職者でなければ浄化は不可能とされる。高位の聖職者など、この辺りにいるはずもない。
「もはやどうにもならんな。コイツの時間はあと残りわずかだ。朝まで持てばいい方だろう」
「そんな……!」
冷静なガルドの声に、仲間たちが悲鳴をあげる。
私はポーション類が並べられた戸棚を振り返った。【静止】させたポーションには爆発的な回復力があるが、肝心の毒を解毒するわけではない。飲ませたところで、青年の苦しみが長引くだけだろう。
「看取るしかないなんて……残念だわ」
私が苦渋を込めて呟いたその時、店の外から、影のように軽やかな足音が近づいてきた。
「エリスに旦那。おかしな匂いが漂ってきたんだが……俺っちの勘違いかい?」
現れたのは、コリンだった。少年のような姿だが、三百年以上生きているエルフの亡命者。
今は廃墟と化した宿場町の一角に住みついている。「とわずがたり」からは目と鼻の先のご近所さんだ。
彼の鋭い嗅覚は、どうやら毒蜘蛛の猛毒を嗅ぎつけたようだった。私は感心した。
「よくわかったわね。夜で、しかも雨が降っているのに」
「いや、雨だからこそ……さ。空気中に散漫する水の魔素が、俺っちに否応なく異臭を伝えてくる。これは……何かの毒かい?」
私はコリンに、青年が「嘆きの毒蜘蛛」に刺されて重傷なことを説明した。
「何か、解毒剤のようなものがあれば助かるかも……」
「毒消しね。ないこともないけど」
「あるの?」
「ただ、これはエルフにとっての薬なんだよなあ」
コリンは背負っていた革のカバンを下ろし、中から青白く発光する白銀の百合の根――『月華の根』を取り出した。
へえ……とガルドが、胡乱気な声を発した。
「月華の根、か。だが、それは人間には使えんはずだ」
「うん、俺っちからすれば最高の解毒剤の材料なんだけどな。これは人外の強靭な魔力回路があって初めて薬になる。人間がそのまま口にすれば、強烈なアクと毒素で心臓が止まってしまう」
その通りだ。「月華の根」なら私も知っている。魔の森に生えている植物で、それほど珍しいものではない。
百合の根は私たち人間にとっては毒であって、薬にはならない。
「そうなんだよな。人間ってのは、本当に脆くて弱い生き物だからな」とガルドが相槌を打つ。
そこでコリンは試すように、しかし期待をこめた瞳で私を見つめた。
「でもさ、エリスならできるんじゃないのか? 毒をもって毒を制す。あの『時間を止める』魔法を使えばさ」
私は青白い根を見つめながら、腕を組んだ。思考を加速させる。
「そうね……」
私の【静止】は、単に時間を止めるだけではない。それは、物質の構成を特定の瞬間に固定し、望まぬ変化を「拒絶」する力。もし、この「月華の根」に含まれる猛烈なアクと人間への毒性成分だけを、魔法で「抽出」して除去し、無害な薬効成分をこの青年の身体に届けることができたなら――。
「頼む、こいつを助けてくれ。礼ならなんでもする!」
「こいつしか回復魔法が使えないんだ。パーティの要なんだよ」
青年の仲間たちが、拝むようにして私に懇願する。
……どうせ放っておいても彼は死ぬ。だったら、イチかバチかでやってみようか。
「……ガルド。彼を奥の寝台へ。コリン、火に薪をくべて最大にしてちょうだい」
ガルドが青年を抱き起こしながら尋ねる。
「やるんだな?」
「ええ」
私は、強く頷いた。
「そうこなくっちゃ!」とコリンも破顔する。
私は、嵐のような決意と共に厨房に入った。




