第14話 いにしえの味、エルフの郷土料理【前編】
魔の森が、たなびく薄紫の夕闇に抱かれる頃。「とわずがたり」の窓辺に置かれたクリスタルの花瓶は、一条の陽光を吸い込み、宝石のような煌めきを床に落としていた。私は、磨き抜かれた白銀のポットを傾け、琥珀色に輝くお茶を注ぐ。立ち上がる湯気の中に、仄かなミントの清涼感とカモミールの甘い香りが溶け合っていた。
ベルの音が、静謐な空気を震わせた。 流れ込んできたのは、早春の冷気。それ以上に鋭く私の肌を刺したのは、人ならずの濃厚な魔素。
私が顔を上げると、そこには一人の少年が立っていた。背丈は人間の十歳くらいほど。瞳は夜空に浮かぶ古の星のように澄み渡り、数多の歳月を飲み込んだ者特有の、底知れぬ深淵を湛えている。長く尖った耳が、乱れた銀色の髪の間から覗いていた。
エルフ――森の深遠に住まうという古代種、そして長命種。
人間の寿命が五十年とすれば、彼らはその二十倍は生きるという。
この少年も見た目は子供だけど、おそらく私よりもはるかに歳上のはずだ。
「……あら、これは珍しいお客様ね。迷子かしら、それとも森の精霊の悪戯?」
少年はおずおずと言った。
「ここが、噂の『腐らない店』か? 俺っち、腹が減ってもう指一本動かせねえ」
声は若々しく、一人称は「俺っち」という、どこか諧謔的な響きを含んでいる。
「エリス、こいつは……ただのガキじゃねえ。気をつけろ」
厨房から、ガルドが音もなく姿を現した。彼の黄金の瞳には、自分と同じく人ではない異能者を見定めんとする、静かな敵意と敬意が混じり合っている。
「へっ、旦那。ご挨拶だね。俺っちはコリン。隣の国で『耳が長いから』って理由で追いかけ回されてさ。魔の森なら、人間どもも追ってこねえと思って逃げてきたんだけど……。計算違いだったよ。森の魔物より、空腹の方がよっぽど死神に近いってもんさ」
どうやら、このエルフの少年は隣国で迫害を受け、故郷を捨てて逃げてきたらしかった。
彼は懐から泥にまみれた布包みを震える手で取り出し、カウンターの上に置いた。
包みが開かれた瞬間、店内は「緑の芳香」に満たされた。
「……これは!」
私は思わず息を呑んだ。そこにあったのは、普通の市場では一生かかってもお目にかかれないような、純白の「月光セロリ」と土がついたままの「大地の心臓」。さらには、エルフの嗅覚がなくては採取不可能とされる幻の薬草「世界樹の溜息」まであった。
どれも古代の文献か、旧時代の料理本でしか見たことがない。というか、実在したのね……。信じられない気持ちでいっぱいになる。
「この国のお金、持ってねえんだわ。代わりに、魔の森で見つけたこれを……代金にして何か食わせてくんない?」
コリンの冗談めかした言葉には、故郷と同胞を失い、独りで果てしない闇を彷徨ってきた者の乾いた絶望が張りついていた。エルフとしてはおそらく若者、けれど人間ならば数世代の興亡を見守るに十分な時を生きてきた彼が、必死の思いで逃げて来て、私の店に来た。
「……代金は十分すぎるほどに頂いたわ、コリンさま」
「コリンでいいよ。俺っち、まだ子供だし」コリンははにかんだ。
「じゃあ、コリン。むしろこっちがお釣りを出さなきゃいけないくらいよ。待っていて、すぐに作るから」
私は、早速にも調理場へと向かった。コリンの持ち込んだ食材に触れる。 その瞬間、私は【静止】の魔力を解き、素材の深層に眠る「生の記憶」を呼び覚ました。
「コリン。エルフの伝統料理『銀嶺のポタージュ・ラ・シルヴァン』にするわ。それでよろしいかしら?」
「えっ……まじで?」
コリンの瞳が激しく揺れる。
「ええ、私も古文書で見ただけで作るのは初めてなんだけど」
私は、彼の持ち込んだ「世界樹の溜息」を細かく刻み、「静止」の魔法で「熟成の極致」に固定していた特製の山羊乳のクリームと合わせた。
ジュウ、とバターが爆ぜる音が、厨房に響く。エルフの伝統料理は、それ自体が森の呼吸と精霊の歌声を一皿に凝縮する儀式……とされる。 一瞬も気が抜けない。
私は、トマトの酸味とビーツの甘味を「最も熟成する瞬間」で留め、濃度を練り上げた。




