第10話 永遠を食む、あるいは甘美な停滞
季節が、私の窓の外を音もなく通り過ぎていく。
魔の森が深紅の装いを脱ぎ捨て、真白の冬の外套を纏う頃、「とわずがたり」の煙突からは、琥珀色の甘い煙が絶え間なく立ち上っていた。かつては死を待つ獣の残骸のようだったこの廃屋も、いまや辺境に咲いた一輪の奇跡――時を止めた至宝の迷宮として、人々の語り草となっている。
私は、磨き抜かれたカウンターに頬を寄せ、静かに目を閉じた。
聴こえてくるのは、暖炉で爆ぜる薪の音と、地下貯蔵庫で「永遠」を約束された食材たちが放つ、密やかな生命の鼓動。実家という名の檻を抜け出し、この荒野に辿り着いたあの日から、私の本当の人生が始まった。
「……エリス。また、そんな蕩けたような顔をして。何を見ている」
低く、地響きのような心地よい声。目を開けると、そこには黄金の瞳を細めたガルドが立っていた。彼の肩には、先ほどまで吹雪の中にいたことを示す、銀色の雪の結晶が煌めいている。手には、伝説の『氷河鳥』が一生に一度だけ産み落とすとされる、幻の蒼い卵がいくつも捧げられていた。
「見惚れていたのよ。この、完璧なまでに調和した私の世界に」
私は立ち上がり、彼の差し出した卵をうやうやしく受け取った。
触れた瞬間、私の指先から透明な魔力が流れ出す。
【静止】。
割れば瞬時に鮮度が失われる繊細な命を、私は最高の状態で固定する。この卵で作るオムレツは、口に含んだ瞬間に氷河の清冽な風を呼び起こし、食べる者の魂を浄化することだろう。
「実家の伯爵家は、完全に解体されたそうよ」
私が何気なく告げると、ガルドは興味なさげに鼻を鳴らした。
「お父さまは、今は王都の片隅で、安ワインの酸味に咽せながら余生を過ごしているみたい」
復讐。それは、かつて私を突き動かしていた暗い情熱だったかもしれない。けれど、いまやその言葉さえも、私にとっては「不鮮明な過去の残骸」に過ぎなかった。
彼らがどれほど零落しようとも、私の心に波風が立つことはない。
なぜなら、私はすでに、彼らが決して手が届かない「至高の生活」を手に入れているのだから。
ベルの音が、清廉な空気を震わせた。 入って来たのは、マントの雪を払うレオンハルト騎士団長だった。 彼は、王都での公務の合間を縫い、しばしばこの辺境まで馬を飛ばしてくる。王国の英雄という重責から解放される唯一の場所として、私の店を選んでいるのだ。
「……やはり、ここへ来ると気分が楽になる。エリス殿、君の魔法は、国の守護結界よりも癒される」
「最高の褒め言葉ですわ、閣下。今日は、ガルドが手に入れたばかりの幻の卵で、特別な一皿を仕立てて差し上げますわね」
私は厨房に立ち、銀のフライパンを火にかけた。
エプロンの紐を締めるその動作は、かつての私を縛っていた「義務」ではなく、私自身の意志を刻み込む。
バターが溶ける濃厚な香りがホールを満たしていく。
卵を割り入れ、熱と対話する。固まる直前の、最も滑らかで、最も濃厚な瞬間。私は指先ひとつで「永遠」へと変換する。
供された皿を前に、レオンハルトは感嘆の溜息を漏らし、ガルドは当然のように私の隣に陣取っている。 王国の英雄と、伝説の魔獣。
対極にあるはずの二人が、私の作り出す「一瞬の奇跡」の前では、ただの飢えた純粋な魂へと還っていく。
(ああ……なんて甘美なひと時かしら)
私は、窓の外で荒れ狂う吹雪を見つめながら、自らの指先を見つめた。
「エリス、何を笑っている。早く俺の分も作れ。腹が減って死にそうだ」
ガルドの無作法な催促に、私はクスクスと、鈴を転がすような笑い声を上げた。笑い声さえもいつか、永遠の中に固定してしまいたいと思うほど。
「ええ、今作ってあげるわ。私の、大切な相棒さん」
辺境のごはん屋「とわずがたり」。 時が流れることを忘れた、世界で最も贅沢な停滞の場所。
私はこれからも、この場所で、最高に「鮮やかな」時間を食み続けていく。




