第1話 冷蔵庫係は卒業します
シャンデリアの放つ光が、磨き上げられた銀食器の上で冷ややかに踊っていた。
わが伯爵家の晩餐は、いつだって儀式めいている。カトラリーが食器に触れる微かな金属音だけが支配する、沈黙の儀式だ。
私の目の前に置かれたコンソメスープは、湯気ひとつ立てていない。
けれど、それを口に運べば、舌の上で芳醇な香りが爆ぜ、作りたての熱が喉を潤してゆく。
なぜなら、私が「極上の瞬間」を口に入る直前まで止めているからだ。
「……ぬるいな」
食卓の主座、父であるエルランド郷伯爵が、白亜のナプキンで口元を拭いながら不機嫌そうに呟いた。おそらくスープのことではない。私へ向けられる冷ややかな視線、わざとらしい嘘。
「申し訳ございません、お父様」
私、エリス・ヴァーミリオンは、淑女の微笑みを浮かべる。
私の固有魔法【静止】。
対象物の時間を凍結させ、物理的な変化を拒絶する力。それは、この広大な屋敷における唯一無二の「冷蔵庫」として機能していた。
厨房から運ばれる料理の温度管理、高価なワインの酸化防止、果ては地下倉庫に眠る食料備蓄の鮮度維持まで。この屋敷にあふれる食品の豊かさは、私の魔力が支えていると言っても過言ではない。
だが、父を始めとした家族にとって私は、便利な道具の一つに過ぎないようだった。
「エリス、単刀直入に言おう」
父の指にはめられたルビーの指輪が、血のように赤黒く光る。隣では、異母妹のマリアベルが、勝ち誇ったような瞳で私を見つめていた。彼女が纏う最新のシルクのドレスが、歪んだ愉悦を煽るように衣擦れの音を立てる。
「アンバー子爵家との婚約は破棄とする。代わって、マリアベルが子爵の妻となることが決まった」
私の胸中は、驚くほど静かだった。
まるで、心にまで【静止】がかかっているように。
「理由は、わかっているな?」
「私が、『役立たず』だからでございましょう」
淡々と答えた私に、マリアベルが鈴を転がすような、しかし毒を含んだ甘い声で追撃を加える。
「ごめんなさいね、お姉さま。でも仕方ないの。わたくし、先日の鑑定で『爆炎』のスキルに目覚めてしまったんですもの。お姉さまの地味な……ものを腐らせないだけの魔法とは、威力も華やかさもまるで……ね?」
マリアベルが指先を振ると、そこに小さな火の粉が舞った。
炎の攻撃魔法。魔物討伐において英雄視される、破壊の力。この国において、貴族の価値は魔法の攻撃力で決まる。物を保存するだけの私の能力など、平民の使う生活魔法以下だと見下されていた。
「冷蔵庫代わりの女を妻にするほど、子爵殿も物好きではないということだ」
父の言葉は、冷酷な判決そのものだった。
「エリス、役立たずのお前を当家から追放する。明日にはここを出ていくように」
通常なら、ここで泣き崩れるのが悲劇のヒロインの役割なのだろう。
あるいは、床に縋り付いて慈悲を乞うか。けれど、私の奥底から湧き上がってきたのは絶望ではなかった。
それは、冷たい泉の底から立ち上る泡のような、静かで確かな歓喜だった。
(ああ、やっと……やっと終わる)
私は、愛想笑いの仮面の下で、密かに快哉を叫んだ。誰が……?
誰が、こんな氷の牢獄のような屋敷に未練など持つものか。
来る日も来る日も、屋敷中の物品に触れ、魔力を注ぎ込み、家族の快適な生活を維持するためだけに消費される日々。感謝の言葉ひとつなく、ただ「腐らせないこと」を義務付けられただけの、使用人のような人生。
彼らは知らないのだ。
私の【静止】が、単なる保存ではないということを。
それは「永遠」の一片を切り取る奇跡であることを。最高に熟した果実の甘みも、焼き上がった瞬間のパンの香りも、薬効が最も高まる瞬間のポーションも。私はその「至高の刹那」を、永遠に固定することができる。
攻撃魔法? ええ、それも素晴らしいでしょう。
けれど、戦いが終わった後の日常を彩るのは、すべてを灰にする炎ではないでしょう?
「承知いたしました、お父さま。……いいえ、エルランド郷伯爵さま」
私は背筋を伸ばし、凛として顔を上げた。父とマリアベルが微かにたじろぐのが見えた。
「その決定を、謹んでお受けいたします。ただちに荷をまとめ、明日の朝には出立いたしますわ」
「……随分と物わかりが良いな」
「立つ鳥跡を濁さず、と申しますもの。ただ、一つだけお願いがございます」
私はテーブルの上に置かれた、一枚の古い羊皮紙を見つめた。それは、領地の再北端、魔の森に隣接する放棄された宿場町の権利書だった。
かつて祖父が気まぐれに手に入れ、今は廃屋となっている場所だ。
「代わりに、北の地にある宿場町を私にくださいませ」
「あそこか? 幽霊と魔物しか出ぬようなゴミ捨て場だぞ」
父は鼻で笑い、無造作に権利書を私の方へ滑らせた。マリアベルも、扇子で口元を隠しながらクスクスと笑う。
「お似合いですわ、お姉さま。陰気な魔法には、薄暗い廃屋が……ねぇ?」
私は嘲笑を、極上の賛辞として受け取った。
ええ、ゴミ捨て場で結構。魔物だって上等。そこは、誰の干渉も受けない私だけの城になる。
権利書を手に取り、私は優雅に一礼した。
ドレスの裾を翻し、食堂の扉へ向かう。背後で、再びカトラリーの音が響き始めた。彼らはもう、私への興味を失い、温かいスープを啜っているのだろう。そのスープが温かいままであることが、誰の犠牲の上に成り立っているのかも知らずに。
廊下に出ると、窓の外には青白い月が浮かんでいた。肌を刺す夜気も、不思議と寒さは感じない。
むしろ、その冷たさが私の熱い心を心地よく撫でていく。
「さようなら」
私は呟きながら振り返り、食堂の扉にそっと触れた。【静止】の魔法を、指先ひとつで解除した。
パチン、と目に見えない鎖が弾け飛ぶ音が、私の耳だけに届く。
明日の朝、彼らは知るだろう。貯蔵庫の肉が、時を早めたかのように一斉に異臭を放ち始める様を。 極上のヴィンテージワインが、ただの酸っぱい葡萄の酢に変わっているのを。
当たり前に享受していた「変わらない日常」が、いかに得難いものであったかを。
けれど、それはもう、私には関係のないこと。
私は権利書を胸に抱き、月光に照らされた廊下を、舞踏会のステップのように軽やかに駆け抜けた。
私の新しい人生、そして本当の「美味しい」時間は、ここから始まるのだ。




