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平均律をやめてくれ

作者: 三雲零霞
掲載日:2026/02/13

この作品は、2025年11月に発行された筑波大学文芸部誌『樹林』二〇二五秋特別号に寄稿した作品を加筆修正したものです。また、「カクヨム」にも投稿しています。




あなたの人差し指が、白い鍵盤を押す。

こーーーん。ショッピングモールの風除室に音が反響し、反響して、消えていった。


「このピアノ、音が硬いね」


あなたは興味深げに言って、黒い革張りの椅子に慣れた所作で腰を下ろした。

このピアノを弾くのは初めてのはずなのに、その高貴な椅子はあなたの体重を当たり前のように受け止めた。

私が座ろうとしたら、たぶんその椅子に跳ね返されてしまうと思った。

私はこの黒い楽器のことを何も知らないし、あなたが言うような音の硬さといったことも、あなたがさっき何という音を弾いたのかもさっぱりわからない。


あなたは、今度は両手の指を鍵盤の上に広げた。

微かな予備動作の後、音楽が始まる。

それは、和音を分解して一音一音鳴らしているような曲だった。

これといった特徴のない長調に始まり、次第に不穏に展開していく。

しかしその変化とは裏腹に、あなたの指がなぞるリズムは一定のまま。

的確に、されど繊細な抑揚とともに。


「この曲、好きなんだ。指のアップに丁度いいからいつも練習の前に弾くんだよね」


曲が終わった後、あなたはそう言った。

ピアノに触ったこともない私は何と返すのが正解なのかわからない。

曖昧に「へえ、すごいね」と言ってみる。

もしかしたら、学科の同期でピアノサークルに所属している三崎君とならそういった話でも盛り上がれるのかもしれない。いや、ピアノサークルではなくジャズサークルだったか。私は彼とあまり親しくないから思い出せない。

あなたが時折彼と立ち話をしているところを見かけたことは何度かあった。確か、希望する専攻が一緒なのだと言っていた。


あなたはもう満足したようで、椅子から立ち上がって私が預かっていた鞄を受け取った。

「よし、行こう」と自動ドアを指さし、私を先導して歩いていく。


手を繋いでもいい?

それだけのことが聞けなかった。

あなたは上機嫌でショッピングモールの通路の左右に目をやり、あれが可愛いとか、私に似合いそうとか、そういえばシャンプーが切れそうだとか、好き勝手に喋っていた。

私はそれに適度に相槌を打ち、時に少し聞き返したりする。

私にはおしゃれも美容もよくわからない。

ただ、あなたが楽しそうだからそれで良いと思うことにした。


ならばあなたはどうなのだろうか。

目についたファストフード店に入って、注文した商品が完成するのを待ちながらふと考える。


あなたが私に何を求めているのかが未だにわからない。

いくつかの好きな小説の話を除いて、あなたと私は壊滅的に趣味が合わなかった。

音楽をやっていたという共通点はあるけれども、あなたはピアノ、私は吹奏楽だから、あまり共有できる部分がない。

幼稚園児の頃からピアノを習い始めてショパンやリストの有名で難しい曲を弾きこなすあなたと、中高の弱小吹奏楽部にいただけでコンクールやイベントで吹いた曲しか知らないような私とでは、立っているレベルが違うのは明らかだった。


私と違って多くの人と良好な関係を築けるあなたなら、私ではない他の人と話したり、デートしたり、付き合ったりしたほうが楽しいのではないか。例えば、三崎君とか。


向かい合った席で、カウンターの上の呼び出し番号を表示するモニターをぼうっと眺めるあなた。

あなたが三崎君とデートする様子を思い浮かべてみる。

三崎君は素人目にもおしゃれに気を遣っているのがわかるような人だから、一緒にアパレルショップに入って服を眺めたり、お互いに服を選び合ったりできるかもしれない。

大学近くのショッピングモールではなくて、東京の小綺麗なカフェに足を運んだりして。

料理を待つ間にも、音楽の話をして楽しむのだろう。

こんな風に沈黙する時間など生まれはしないのだろう。


私は考えるのをやめた。喉のあたりが詰まるような感覚を覚えたからだ。

あなたが友人と遊びに出かけたり、旅行に行ったり、サークルの飲み会に参加したりしたというストーリーを見るたびに、私は苦しかった。

もちろんあなたは私との写真もSNSに載せてくれていた。

だからこんなことを考えるのは傲慢極まりないとわかっている。

しかし、あなたにとって私は、少し関係性のラベルが違うだけで、沢山いる親しい人たちのうちの一人にすぎないということを見せつけられているようだった。私にとってはそうではないのに。

そう、いっそ私との思い出を投稿してくれなければよかったのだ。

それならばせめて、二人で見た景色が二十四時間で消える泡沫にはなりはしなかったのに。


音楽には、純正律と平均律という概念が存在する。

純正律は、演奏する曲の調によって、その主たる和音が最も美しく整って聞こえるようなチューニング。

それに対し、平均律は、各音の間隔が均等になるようなチューニング。

ピアノは即席のチューニングが難しいこともあり、平均律を採用しているのだと、中学の頃に吹奏楽部で教わった。


あなたはずっと平均律だった。

芯を曲げず、自分を貫くあなたのことが、私は今でも好きだ。

けれどあなたは誰に対しても同じ顔を向けていて、私のことを特別にしてはくれない。

だから、




 平均律をやめてくれ。



    ○



君と初めて言葉を交わしたのは、高校一年生の頃だった。


それは六月の半ば頃、ちょうど合唱祭のシーズンの真っただ中。

わたしはクラス合唱の伴奏を担当していたのだが、前の日の昼休みに音楽室で練習をした後、楽譜を音楽室に忘れてきてしまっていたのだった。

次の日が土曜日で、わたしの所属していたテニス部の練習があったので、昼休憩の時間に楽譜を取りに行くことにした。


わたしが音楽室の扉をくぐった時、合奏の隊形に並べられた大量の椅子の中になぜか一人でいた見慣れない制服の男子生徒が君だった。

後から知ったことだが、君はその日、吹奏楽部の三校合同練習のために他校から来ていたのだった。


忘れた楽譜はピアノの上に置いた記憶があった。

しかし、置いたはずの場所にも、ピアノの周辺にも楽譜はなかった。

困り果てていると、


「どうしました?」


君はそう声をかけてきた。

昨日ここにピアノの楽譜を忘れた、と伝えると、君は「さっき椅子を移動させた時に隣の準備室の机の上に移動させちゃいました」と教えてくれて、わざわざ取ってきてくれた。

脇に抱えられた金色のホルンが鈍く輝いていた。






こういう時、手を繋いだ方がいいのだろうか。

隣を歩く君を見上げようとして、わたしが君よりも少し前を歩いていたことに気づいた。

こういうのはあまり良くないのか。

誰かと付き合う、ということをしたことがないわたしにはわからない。

何気なく歩調を緩め、君の隣に並んでみようとすると、君に「どうしたの?」と言われてしまった。


「何が?」

「歩くの遅くなったから」

「無意識に先を歩いちゃってたなと思って」

「別にいいのに、気にしなくても」


わたしがどうやって歩いていても必ず付いていくと君は言った。

君はいつもそういうことをさらっと言ってのける。

なのにわたしの喉は、そう、と自分が思っていたよりそっけない音を出力した。

いつもそうだ。君がわたしを大切に思っているのはとうの昔に理解しているのに、その事実を突きつけられるたびに、わたしは怖くなって逃げだす。

わたしだって君を大切にしたいのに。


君は知っているだろうか。

ピアノは孤独なのだ。

仲良く会話できる相手はたくさんいるけれど、誰にも本当に心を許せはしない。

数人の心を許せる友人と、大切にできる恋人がいる君とは違う。

物心ついた頃から、コンクールに出ればステージに一人ぼっちで、合唱の伴奏をしていてもみんなの後ろ姿しか見えなかった。

あの時も、わたしと入れ替わりで音楽室に入ってきた同じ制服の生徒たちと楽しそうにふざけ合っているのを見て、羨ましかったのだ。


君は知っているだろうか。

地元を離れて右も左もわからない東京の大学に入学して、同じ学科に君を見つけた時安堵したこと。

そして、いつしか君を目で追うようになっていたこと。


横を歩く君の手に、わたしの手をそっと沿わせてみる。

わざわざ顔を覗き込まなくてもわかるくらいに、わたしの手を握り返す君の指先からは幸せが滲み出ていた。

打算的な自分をまた一つ嫌いになる。


音楽には、純正律と平均律という概念が存在する。

純正律は、演奏する曲の調に合わせて、その主たる和音が最も美しく整って聞こえるようなチューニング。

それに対し、平均律は、各音の間隔が均等になるようなチューニング。

ピアノは平均律だが、吹奏楽などでチューニングやピッチの操作が比較的簡単な楽器は純正律の美しい和音を奏でることができると、音楽の授業で聞いた。


わたしはずっと平均律だった。

表面的には誰にも等しく親密そうに振る舞っているのに、本当は誰にも等しく一線を引いてしまう。

純正律な君とはどこか歪な和音しか奏でられないのだ。

だから、




 平均律をもうやめたい。




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