東京災禍
俺が意識を取り戻した時には、すべてが一変していた。 見慣れた東京の街並みも、飽きるほど見上げた青空も、夏の野球部の喧騒も、何もかもが炎と灰に包まれ、以前までの姿かたちの面影すらもなくなっていた。 ただ、その代わりに空に巨大な魔法陣が天高く広がっていた。
「――誰か……誰かいないのか……」
俺は藁にも縋るように声を出すが、その声は誰にも届かない。 それもそのはず、俺の喉が灼かれて声が出ないのだから。 しかし、喉が無事であっても声は届かない。 なぜなら、俺以外のすべてが灰塵と化していたからだ。
俺は這いずり、瓦礫に手をかけ、ゆっくりと体を起こす。
そのとき、俺ははじめて自分の身体が傷だらけであることを自覚した。 だが、不思議と痛みを感じない。 エンドルフィンやらドーパミンやらの作用なのかと思考するが今はそんなことどうだっていい。 ただ今は身体が痛まなくてよかったと思うだけだ。 けがのせいで動けずにその場にとどまっていたら、そのまま死んでしまうと思ったから。
立ち上がった俺は、必死に瓦礫を伝いながら前に進む。 行先はない。何もない。 だが、一心不乱に歩を進める。 少しでも安全な場所があると信じて、この惨劇の生存者がいると信じて、進む。
しかし、その淡い期待はすぐに打ち砕かれた。 今まで過ごしてきた俺の故郷は、その面影が全く感じられないほどに、ことごとく滅ぼされていたからだ。
まさしく滅亡とはこのことだと俺は理解した。 だが、俺は構わずに進む。血と灰、そして炎が舞う地獄を背景に、ただひたすらに、進む。
そのうちに、俺は瓦礫に脚を取られ、転倒した。 転んだ衝撃で頭から血があふれだす。 俺は地に伏せながら、自分の血が流出する感覚を感じる。 身体中の血液が傷口に集中し、外に漏れだす。 その感覚は俺に死を予感させるには十分だった。
「……いやだ、死にたくない……。」
しかし、無情にも、血の流出は止まらない。 血の流出のせいで意識が朦朧としてきた。 転倒したことで、身体の自由が失われた分、血の流出がより鮮明に感じる。 そしてさっきまで感じなかった体の痛みが熱を帯び、さらにその身体の痛みの熱さが死への冷たさに移り変わる。
身体が動かない。 頭が働かない。 全身にとてつもない虚脱感と倦怠感が襲い掛かる。
だが、俺はこの全身の機能がシャットダウンしていく中で、目を閉じることだけは許さなかった。 目を閉じてしまったら、すぐにでも死んでしまうと直感していたからだ。 しかし、頭からあふれ出した血がやがて目に到達し、とうとう目を開けることが困難になってきた。
(……俺は、死ぬのか。)
死への予感が実感に変わる。 俺はうつ伏せの状態から、何とか顔を上げる。 視界が血で満たされ、徐々に意識がブラックアウトしていく。 そして、俺は血で満たされたこの禍々しいほど赤い世界をぼやける眼で眺めながら一つのことを願う。
(死にたくない、死にたくない、死にたくない死にたくない死にたくない……生きたい。)
俺は立ち上がろうと、全身に力を籠める。 血の流出が早まってしまうだろうが、関係ない。このまま倒れていても希望は……ない。 俺が生き残るただ一つの道は、この災禍の生存者を見つけることだ。
だから……。
「ぅ、ご、け……ぅごげぇからだぁ!」
喉が高熱で灼けていて、うまく発音できない。 しかし、喉から出血しようとも、俺は構わず叫ぶ。
――ふらつきながらもなんとか俺は立ち上がる。 もうすでに血が目に流れ込み、まるで赤い霧が視界を覆うようだった。
この赤い世界の中、ただ希望を信じて前へ進む。
が、希望は挫かれる。
俺は身体はとっくに死んでいて、歩を進めたとたんに身体が崩れ落ち、転がり落ちる。
痛みなんて今更感じない。 ただ、もう本当にダメなんだと、感じてしまった。 希望が絶望に変わる。
俺が生きた東京の街並みは業火に滅され、地獄と化した世界で俺は死ぬ。 意識が遠のくと同時にそう理解した俺は、視界のブラックアウトへの抵抗をやめ、完全な暗闇に落ちた。
生を祈り、そして生をあきらめた俺が最後に見た景色は、巨大な竜が業火の海でたたずんでいる光景だった。