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第八話 レモン鍋

 レモンを丁寧に下処理し、輪切りにする。台所は良い香りが広がるが、我慢。タッパーのハチミツをこのレモンと一緒に入れる。レモンの蜂蜜漬けだ。これをお湯や炭酸水で割るととても美味しい。おろした生姜やリンゴなどを加えても良い。シナモンなどのスパイスを入れるのもアリかもしれない。


 こんなレモンの蜂蜜漬けを作る遊子は主婦。数ヶ月前に結婚した。まだ新婚期間といってもいい。長年田所という男と付き合っていたが、彼は社畜で結婚する様子は全くなかった。見切りをつけ、婚活したら、カフェ経営者の男性と出会い、今に至る。


 今は主婦業のかたわら、夫が経営するカフェも手伝い、とても幸せだった。そう昨日までは。


 昨日、夫が体調不良を訴えて来た。病院に行くと風邪だった。幸い、コロナは陰性だったわけだが、こうして風邪に効くレモンのハチミツ漬けも作っていたが。


 単なる風邪ではあるが、夫は飲食店関係者。とてもナーバスになってしまった。特にカフェは地域密着型で老人のお客様も多い。うつしてしまったらどうしようと言い、家庭内でも部屋に閉じ籠ってしまった。遊子とも顔も合わせない。このレモンの蜂蜜漬けを餌に釣ってみようかと思ったが、夫は「要らない」という。さっきトークアプリから連絡がきた。一つ屋根の下でトークアプリを使って連絡しているのは、何ともシュール。遊子は台所でレモンの皮を片づけながら、ため息が出てしまう。


 この皮を捨てるのは、少しもったいない。良い香りもするし、匂い袋代わりに台所に置いておくか。この良い香りのおかげで、遊子の心も少しは癒される。


 確かに夫が怖がる気持ちはわかる。特にコロナ初期は、かなり嫌がらせもあったらしい。イタズラ書きをされたり、チラシを配られたり、悪い噂をたてられたり、大変だったと聞く。


 人は正義の上に立った時が一番恐ろしいものだ。簡単に鬼になる。いくら「ウィルスを撲滅しよう」という良い動機だって、暴走したら、取り返しがつかないだろう。こんな事を考えていると、人の心には魔女でも住んでいるんじゃないかと思ってしまう。


「はあ。レモンも使い切ってしまったわ。仕方がない。買い物に行くか」


 ずっと台所でグズグズ考えているわけにもいかない。自ら部屋に閉じこもっている夫には疑問しかないが、何か栄養がつくものは作らないと。風邪の時にはやっぱりビタミンC。レモン鍋でも作るか。


 さっそく家を出て近所のスーパーへ向かう。今はもうマスクをしている人もだいぶ減ったが、今は何だか少し人目も気になる。夫が必要以上に怖がってしまう気持ちはわかる。平日の午前中でスーパーはさほど人はいないが「ソーシャルディスタンスにご協力を」などというポスターはまだ貼ってあり、ドキドキしてきた。いつの間ににか、風邪もうっかり引けない時代になってしまったようで……。


 お目当てのレモンや白菜は安く買えたが、遊子の気持ちはさえなかった。このままずっと夫は部屋に引きこもっていたら、どうするか。カフェでまた嫌がらせがあったらどうするか。嫌な想像が頭を巡る。夫の同業者でも根も葉もない噂をたてられ、廃業してしまったものもいるという。今はもう五類になり、マスクをしているものの減ってきたが、あのパンデミックの爪痕は、想像以上に深かったみたいだ。


「ミャア!」


 スーパーの帰り道、近所の空き地で野良猫がいるのの気づく。遊子はついつい憂鬱になっていたところで、野良猫の鳴き声はちょっと耳に優しく感じて。


「お前は何も考えてなくていいね」


 野良猫は、長い毛でもふもふしていた。見た目は可愛い猫だが、だらんと手足を伸ばして日向ぼっこ中だった。


「ミャア?」

「お前は自由そうね?」

「ミャ〜」


 一瞬、人間の言葉がわかっているのだろうか。野良猫は、遊子の言葉に返事をするように鳴いていた。表情も何だか人っぽいというか、猫っぽく見えないのだが。


 まるで悩んでいる遊子に「何とかなるニャン!」と言っているようにも聞こえてきる。もっとも、単なる遊子の気のせいだが、自由そうに日向ぼっこをすている野良猫を見ていたら、今の悩みもバカバカしくなってきた。憂鬱になりかけていたが、幸いな事に陰性だったし。カフェは休みになったが、今のところ最悪な状況ではない。ナーバスになりすぎていたのかもしれない。野良猫と触れ合っていると、何だか元気になってきた。この猫のようにもう少し自由になっても良いのかもしれない。


「よし、帰ったらレモン鍋作るわ」


 こうして遊子は、早歩きで家に帰ると、レモン鍋を作りはじめた。


 鍋いっぱいに浮かぶ輪切りのレモン。白菜やお肉もたっぷり。スープも透きとおり、見た目も最高だが、何よりも匂いが良い。レモンの良い香りを吸い込むと、これだけでも元気になれそうだ。


「いや、この良い匂いは……」


 まるでレモン鍋の匂いに釣られたかのように夫が台所にやってきた。


「レモン鍋よ。お昼に一緒に食べましょう」

「この匂いはやばいな。匂いだけで元気になれそう」


 こうして夫婦二人で一緒にレモン鍋を食べた。うっかり匂いに釣られて部屋から出て来てしまった夫は、引きこもるタイミングを失ってしまったよう。


 二人で食べていると、あれだけ怖がっていたのが馬鹿馬鹿しくもなってきた。レモンの効果かは不明だが、だんだん夫の顔色も良くなり、汗も出て来た。この様子だったら一晩寝たら治るだろう。


 ふと、あの野良猫が目に浮かんだ。明日もあの猫に会いに行こう。あの猫のおかげで、憂鬱な気分が紛れたから。お礼を言いたい気分だった。


 再びレモンの良い匂いを吸い込み、遊子は再び笑顔を見せていた。

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